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呪いの薔薇

 アリスはカウンターにだらしなく寄りかかり、目の前のウィスキーボトルを眺めた。ボトルの装飾は4本のバラの花。『フォアローゼズ・プラチナ』のボトルだ。フォアローゼズは、創業者のポール・ジョーンズが見初めた女性にプロポーズをし、その返事として身につけた4本薔薇のコサージュに由来している。

 アリスがウィスキーを飲んで酔うのは珍しい。そもそもアンドロイドは酒で酔うことがない。電子ウィスキーが登場し、データとして読み込むことでアンドロイドも酔うことができるようになった。しかし、人間のように酔いたいという欲求がない。

 昔、アリスが軍隊に所属していた頃、アンドロイドと分かっていてアリスに求婚した兵士がいた。その兵士は薔薇の花束が手に入らなかったからと、『フォアローゼズ』のボトルをアリスに贈り、返事は任務の後に聞かせてくれと笑って出発したきり帰ってこなかった。彼の心の中には人間とかアンドロイドとかいう概念すら無かったのだと思う。

 フォアローゼズを見るとその兵士を思い出したが、目の前にあるボトルはそんなロマンチックな代物ではない。

 アリスが飲んでいる『フォアローゼズ・プラチナ』は呪われたウィスキーだった。

 ここは政府管理外地区にある無人島。アンドロイドのアリスが営むビーチバーである。政府管理外地区にあるせいで客は少ない。時々政府とは関わり合いたくない客がやって来る。そいうった客はたいてい厄介事を引き連れてきた。

 半年ほど前のことだ。サバエという男がやって来た。白のスーツとソフト帽に身を包んでが、全身に変色タトゥーを入れているため、顔と両手が黒、青、緑のマーブルに染まっていた。いかにも精神的な不安定さを物語る色合いだ。

 サバエは暗い目をしてカウンターにウィスキーボトルを置いた。ウィスキーは『フォアローゼズ・プラチナ』だった。

「こいつと手を切りたい」

「アルコール依存症なら医者に行けばすぐに治してもらえるわよ」

「そうじゃない。俺はこいつに呪われているんだ」

 アリスは口を開きかけたが、男の真剣な目がそれをさせなかった。

 サバエによると、このフォアローゼズは知人から贈られたものだそうだ。サバエがウィスキーに目がないことを知っている知人は、ウィスキーに呪いをかけることでサバエをボディデザイン業界の第一線から引きずり下ろそうとしたのだ。それは功を奏し、今は見る影もない。

「呪われていると分かっているなら、捨ててしまえばいいんじゃないの?」

「それがそう簡単じゃない」

 サバエはキャップを取りボトルの中身を全て砂の上にぶちまけた。そして空のボトルをカウンターに置いた。すると、底から湧き上がるようにしてボトルは再びウィスキーで満たされた。

「無くならないんだ。捨てても、割っても、次の瞬間には元に戻っている。そして一旦口にしたが最後、飲まずにはいられない。医者なんて何の役にもたたない」

 アリスは右目でサバエを見た。

 アリスの右目はその人が持つエネルギー場を見ることができた。サバエのエネルギー場にはサバエ以外の何かが絡みついていた。

「呪いを落とすことはできるわ。でも、それにはあなたの一部も一緒に切り落とすことになる。それが何なのかは私にもわからない。それでもいい?」

「この苦しみから逃れられるなら首だってくれてやる。やってくれ」

 切実な願いが伝わってきた。

 アリスはエネルギー場を斬ることができる斬霊剣をカウンターの下から取り出した。般若心経が刻まれた黒剣だ。柄巻きの内側には大日経を圧縮デザインした刻印が打たれている。

 剣を見たサバエの顔色が青くなった。

 アリスは大日経を唱えながらサバエの頭上に狙いを定め一気に空を斬った。

 するとしばらくしてサバエの顔がマーブルから虹色に変化し始めた。

「なんて素晴らしい気分なんだ。こんな晴れやかな気持ちは一年ぶりだ」

 サバエは小躍りしながら喜んだ。

「これで俺はまた業界に返り咲ける。そうだ、お礼をしなけりゃな。君にぴったりのファッションスキンをデザインしてあげよう」

「いらないわ。それよりこのウィスキーはどうするの?」

 途端にサバエは苦虫を噛み潰したような顔をした。

「捨ててくれ。二度と触りたくもない」

 サバエが再び活躍しているという噂を耳にするようになった頃に、一人の若い女性がバーを訪れた。社交界にでも出入りしていそうな整った顔立ちに、長く美しい髪を持っていた。他に目立ったところはなく質素なアースカラーのワンピースを身に着けていた。女性はヒマリアと名乗りカウンター席に座ると水を注文した。

「お酒はご注文なさらないのですか」

「そうね。あれはどんなお酒?」

 ヒマリアが指し示したのはサバエが置いていったフォアローゼズだった。

「すみません。あれは売り物ではないんです」

「あら、じゃあなんで棚に置いてあるのかしら。もしかしてあなたのお酒?」

「いいえ。私はアンドロイドですからお酒は飲みません」

 ヒマリアは童女のようにいたずらな笑みを見せた。

「いいえ。あれはあなたのお酒よ。そうでしょ?」

「ちがうんです。あるお客様が置いていかれたもので、ちょっと訳があって預かっているだけなのです」

 ヒマリアの目から笑いが消えた。口だけが笑っている。

「あれはあなたのお酒よ。嘘だと思うならその右目で見てご覧なさい」

 いつからそうなったのか、アリスのエネルギー場と『フォアローゼズ・プラチナ』の呪いのエネルギーが絡み合っていた。

「ほら。あなたのお酒だったでしょ。あなたは呪われたのよ」

「あなたがやったの? なんでそんなことを」

 アリスは猛烈に喉が渇くのを感じた。ありえない。アンドロイドにそんな感覚はない。だがひどく喉が渇く。そしてその乾きを癒やすのは棚に置かれた呪いのウィスキーしかない。

「私のご主人さまがあなたの力を知りたがっている。ねえ、あなた。自分にかかった呪いを解ける? それが解けるくらいの力があるなら、ご主人さまはあなたを最上レイヤーであるテンガルレイヤーに迎え入れたいと思うでしょうね。テンガルレイヤーはハイレイヤーの上の上。人々を管理している政府アシストコンピューターが属するアッパーレイヤーよりさらに上。それは神の領域」

 アリスの手がボトルに伸びる。だがその手を意志の力で押し止める。ボディのあちこちで呪いと意志とがせめぎ合い、人工筋肉が熱を持ち始め、関節部がその力できしみ音を上げた。このままではいつか自分の力に負けてボディがつぶれてしまう。アリスはひとつのプログラムを予約すると自分自身をリセットした。

 再起動で目覚めるとアリスは間髪入れず斬霊剣を抜き呪いのウィスキーとのつながりを断ち切った。

 しかし、切れた、と思ったのは一瞬だけだった。次の瞬間にはもう喉の乾きを覚えていた。

「あなたには無理みたいね。残念だわ。やっぱりあなたはただの機械。どんな機能を持った機械だろうと、あなたたちは意識の世界とは別の世界に存在している。だったらレンゴクに落ちてもどうということはないわよね。レンゴクはアンダーグラウンドレイヤーの下の下。出口のない世界。さようなら。レンゴクを楽しんでね」

 アリスは斬霊剣を振った。何度も何度も振った。だが呪いの魔手を断ち切ることはできなかった。もう止めることはできなかった。アリスはキャップを外すとウィスキーを喉に流し込んだ。機械が酔うはずがない。ありえない。なのに腹の中がかっと熱くなった。バニラのような甘くそれでスパイシーな香りに、熟成された柔らかさをもつ深い味わい。どっしりとした樽香の中にわずかに溶け込む薔薇の芳香。上等なウィスキーの香りに、濃厚なアルコールの味わいにアリスは酔いしれた。ボトルが空になった頃、アリスは暗い穴に落ちていった。砂の上に転がるボトルはひとりでに起き上がり、底から湧き上がるように、再びウィスキーが満ちていった。

 どこかで声がしていた。アリスを呼ぶ声。聞き覚えがあった。

 ジョー。それは斬霊剣のかつての持ちだった。

 己を見つめろ。己の中に全てがある。そう言っている。

 私は機械だ。私の中には何もない。

 アリスは暗闇を落ち続けた。全てのセンサー感覚が断ち切られていた。思考すらできなかった。ただ、アリスは存在していて、暗闇を落ち続けているという事実だけがあった。ただ落ちる存在でしかない。これがレンゴクレイヤー。苦しみはない。終わりもない。

 何かが螺旋を描くようにしてアリスに近づいてきた。それはサバエだった。サバエの目は多くを語り、見ただけで全てが分かった。サバエは後戻りできない道に踏み込んだ。

 アリスに呪いを断ち切ってもらった後サバエは再び活躍の場を広げた。だが、彼を陥れた知人はサバエがいない間に追いつけない程力を付けていた。愕然とするサバエの許にテーベという女がやって来た。自分の主人のために働いてくれるならば、知人を業界から消し去ることだってできると持ちかけた。サバエは話に乗った。支払いのときがきて初めて、サバエは自分の過ちを悟った。テーベは主人のためにサバエの意識を抜き取ろうとしていた。抜き取って他の意識と混ぜ完全意識を作ろうとしていた。

 完全意識、それは個性の喪失。サバエはサバエではなくなる。彼は逃げ出したが逃げ切れる相手ではなかった。そしてレンゴクに突き落とされた。

 そのサバエが一つだけアリスに教えてくれたことがある。人間のサバエとアンドロイドのアリスが共にここにいる。それはアリスの中身が空ではなかったということ。

 そう気がつくと己の中に光るものがあることを知った。そしてそれと反応しあっているのは、握りしめた斬霊剣の刻印。大日経の圧縮デザインだ。アリスはその刻印が己の中の光と融合していると思った。するとそれらは本当に融合した。

 そして、光が暗闇を照らした。

 無人島のバーが見えた。

 人々が見えた。

 アテナスが見えた。

 そして最後に見たのはヒマリアとテーベと、その後ろで輝いているのは神ではなく、天空に浮かぶ直径20キロメートルのコンピューター衛星ジュノーだった。

 暗転の後、最初に目にしたのは浜辺に打ち寄せる波だった。手足に感覚が戻っていた。起き上がり頬から砂を落とした。足元になみなみと満たされた『フォアローゼズ・プラチナ』の瓶があった。

 呪いをかけた相手が誰か分かった。だが呪いを解く方法は分からない。今はまだジュノーに近づくことすらできないだろう。

 だが、いつか必ず。

 アリスは瓶から一口ウィスキーを口に含んだ。ボトルには4本の薔薇の花。熱い思いが喉を焼いた。舞踏会に呼ばれてもコサージュは身に着けないと心に誓った。

          終 

 

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