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次元の恋人

 アリスはその工員が来た時から少し気になっていた。背はあまり高くなく痩せている。アンチエイジングを施していないのかしわが目立つが、壮年というほどの歳ではない。店では初めて見る顔だった。

 工員は視界に展開していたメニューを消すと、申し訳なさそうにアリスに言った。

「ここで一番安いウィスキーをショットで下さい。イミテーションでも何でもいい」

 訊かなくても持ち合わせが少ないだろうと想像できる身なりだった。アリスはそっと『スーパーニッカ』のショットを出してやった。

 本物は値が張ることは知っているのだろう。何か言おうとする工員を遮った。

「お代はいいわ。私のおごり。ここは初めてなんでしょ。だったら、お金ができたら時々飲みに来てちょうだい」

 工員は申し訳なさそうな顔をしたが『スーパーニッカ』の馥郁たる香りに笑顔をこぼした。

 ここはゴミ処理島のドリームシティ。アンドロイドのアリスが営む小さなバーだ。本物の品揃えはあまり多くないが、それでも工員たちの憩いの場となっていた。

 しばらくしてまたその工員はやって来た。

「この間はどうもありがとう。とてもおいしかったです」

「いえ。またこうして来てくれたから。今日はどうしますか?」

 工員はバークラインと名乗ると、『ブラックニッカ』の電子ウィスキーをロックで注文した。もっと安い電子ウィスキーもあったが、ウィスキーを愉しみたいのであれば、そういったものはあまりお薦めしない。

「あまり高いのは頼めないですがね」

 バークラインはそう言って笑った。

 その後もバークラインは時々やって来ては『ブラックニッカ』の電子ウィスキーをひとり静かに嗜み帰っていった。

 その日もバークラインはカウンターの隅で静かに飲んでいた。そこへ二人連れの工員がやって来て噂話に花を咲かせ始めた。彼らの話によれば、なんでもMシティの重要な発明品が最近盗まれていたことが判明したのだそうだ。その発明品が何なのかは極秘でさまざまな憶測が飛び交っている。そしてこのドリームシティにもMシティから調査隊がやってくるということだった。

「おい、そりゃ困るぜ」

「なんでだよ」

「ここにいる連中はみんなごろつきだ。街で暮らせないからここにいるんじゃないか。調査なんかされたら、どいつもこいつもみんな黒だぜ」

「お前はMシティに目をつけられるほど大きなことはしてないだろ」

「そりゃそうだ」

 彼らは愉快そうに笑っていたが、そのすぐ脇でバークレインは青い顔をしていた。アリスが声をかけると、バークレインは珍しく慌てた様子でウィスキーを飲み干すと、また来ると言い残して帰っていった。

 その夜、店を閉めた後に扉を叩く者があった。バークレインであった。

「今日は終わりよ」

「話したいことがあるんです。少しでいい。入れてもらえないですか」

 いつもと違う様子だ。夕方のこともありアリスはバークレインを招き入れた。

 バークレインはカウンター席に座ると、ポケットから取り出した小ぶりのカプセルを置いた。うずらの卵を少し大きくしたようなそれは、透明なカプセルの内側で細かな無数の光が明滅していた。

「何なの?」

「Mシティで盗まれた発明品です」

「それじゃあ、あなたが」

 バークレインは静かに頷いた。

「ブレーントリッパーです。転送エレベータのコアを改造して私が開発しました」

「重要な発明品ということだったけど」

「このブレーントリッパーに意識シンクロすると、意識を情報化できます。高次元を経由することで多元宇宙へ意識転送できるのです。多元宇宙には無限の可能性が存在する」

 バークレインが持ち上げるとブレーントリッパーは呼応するようにきらきらと輝いた。

「多元宇宙があることは証明されていないわ」

「あなたのその右目は常に多元宇宙からの情報を読み取っているはずですよ」

 アリスの右目には重力の僅かな変化で、人の持つエネルギー場を読み取る機能があった。つまり光学レンズでは見えないモノを見ることができる。逆を言えばつまり重力を見ることができるというのは多元宇宙からの情報も見ることができるということ。

「重力子はどの次元を経由するかで自身が持つ情報量が変化する。それがそのまま伝える情報になるのです。して重力子はその情報を持って多元宇宙のどこかに到達する。同じようにして多元宇宙からの情報も受け取ることができる。そうすることで、今私たちがいるのとは別の可能性を持った宇宙を見ることができます」

「本当にそんなことができるのなら信じられない発明ということね」

「そうです。ただ、問題た一つある。どこに到達するのかが分からなかった。だから私は何度も自分自身で実験を行なってきた」

「あなたはそこで何かを見て来たということかしら」

 バークレインはアリスを正面から見た。

「ええ。さまざまな可能性を見て来た。信じられないような世界を見て来ました。でも一番印象に残ったのは何だと思いますか」

「さあ。わからないわ」

「あなたがミネラという名で私の恋人として存在する世界です。そこではあらゆるものが自然と共存するとても美しい世界でした。私たちは青い花が咲き乱れる丘に小さな家を建てて暮らしていました。そこで暮らす私は本当に幸せでした」

 バークレインはそこで一旦言葉を切った。そして僅かに暗い顔をした。

「しかしあなたは病気であっという間に亡くなってしまった」

「その世界で私は人間だったということ?」

「そうです。あなたは若くて美しい女性でした。私はあなたの亡骸を丘の中央に安置しました。やがて月日があなたを自然とひとつにした」

「でも、そのミネラさんが私とは限らないでしょう」

「いいえ。そうやって宇宙を跨ぐと、全ての可能性が重なって見えるのです。その可能性の中に今目の前にいるあなたが見えたのです」

 アリスは首を振った。

「私は最近まであなたを知りもしなかった。それに私はアンドロイドよ。恋愛はできないわ」

 バークレインは横を向いた。表情に翳りが見える。

「分かっています。私の恋人になって欲しいと言いに来た訳ではありません。お別れに来たのです。このままMシティの連中に捕まるわけには行かない。そこでひとつお願いがあるのです」

 バークレインはブレーントリッパーをアリスに渡した。

「私がいなくなった後、これを処分して欲しいのです。研究ノートは全て削除しました。この装置を使えば無限の選択肢から最良のものを選ぶことができようになる。誰か一人が常に当たりくじを引けるような世界があっていいと思いますか?」

「でもあなたが捕まったら同じじゃないの?」

 アリスの不安をよそに、バークレインは不敵な笑みを浮かべた。

「それは大丈夫。私遂に行き先を決める方法を見つけたのです。人の心の揺らぎこそが可能性でした。それは一つの方向に収束できる。揺らがない心。それはあなたがたアンドロイドのようになることだった。そしてこれから最初で最後の実証実験を行います。行き先はここで私はアンドロイドとして存在する可能性を選択して戻って来ます。もし実験がうまくいけば私はアンドロイドになる。失敗したら……」

「どうなるの?」

「さあ。私という存在が全宇宙から消え去るかもしれないし、何も起きないかもしれない。そんなことは誰にもわかりません」

 何という危険な賭けか。もしかしたら全宇宙から存在が消えると宇宙間のシンクロニシティが崩れて崩壊が始まるかもしれない。

「アンドロイドとして生きていくなら意識転送すればいいじゃない」 

「アンドロイドとして存在するのと、意識転送されたアンドロイドとは全然違うことはあなたが一番よく理解しているでしょう」

 アリスは何も言い返せなかった。人間の意識と機械の意識はまるで別物だ。思考こそあれ、アンドロイドのそれは人間より石に近い。

「じゃあ。さようなら。後は頼みましたよ」

 バークレインはアリスの返事も待たずにブレーントリッパーの頂点を押した。するとカプセルの中で明滅する無数の光が強まりぐるぐると回転を始めた。同時にバークレイン自身が一瞬光を発したように見え、次の瞬間小さな光の粒となって宙に溶けるように分解を始めた。心の揺らぎが収束するということは人として存在する可能性が消えていくこと。それでも分解する間バークレインはアリスを見つめながらずっと微笑んでいた。

 最後の光の粒が宙に消えるとあたりは幕を引いたような暗さが残った。アリスの手にあるブレーントリッパーは元のように明滅を繰り返すだけに戻っていた。アリスはブレーントリッパーを握りしめると店を出て島の突端まで走った。そしてそれを真っ暗な海に向かって投げた。光はすぐに見えなくなった。アリスはバークレインとの記憶を全て消去した。

 そのアンドロイド工員はカウンター席の一番端に座っていた。視界のメニューを消すと、一番安いウィスキーをショットで下さいと言った。

「最近雇われたばかりで持ち合わせがあまりないのです」

 アリスはなんとなくその工員のことが気になった。だがなぜ気になるのかわからなかった。ただ、時々来て欲しいという意味を込めて『スーパーニッカ』の電子ウィスキーをショットで出してやった。

「お代はいいわ。私のおごりよ。お金ができたら時々飲みに来てちょうだい」

          終

『スーパーニッカ』はご存知の通りニッカのブレンデッド・ウィスキーです。値段の割りに馥郁たる香りの広がりはワンランク上のウィスキーにも劣りません。それもそのはず『スーパーニッカ』は竹鶴政孝が亡き妻リタの哀悼と感謝をこめて作り上げたウィスキーなのです。開発当時のボトルは皇室御用達のカガミクリスタルがひとつひとつ手吹きで作っていたそうです。なんとも贅沢なひと瓶ですね。

 竹鶴政孝のウィスキーに対する情熱は日本のウィスキー産業を大きく成長させる原動力となりました。同時に彼を支え続けた妻リタに対する想いも強かったのであろうということが想像できますね。

 そんな人の想いというものをSFというフィールドに持ち込めたらと思い書いたのが今回のお話です。男女の間では、もしあの時、ということはたくさんあると思います。それは私たちが一つの選択をした瞬間に消え去ってしまう可能性です。でもその選択の可能性は多元宇宙という形でどこかに存在するとしたらどうでしょうか。その選択を再び選ぶことができたなら。ちょっとその世界を覗き見してみたいと思いませんか。

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