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湿地
アリスは店の入り口に苔が生えているのを見つけた。それは比較的温暖な地域の湿地に見られる苔の一種なのだが、こんな極寒の地でも生き延びる生命力に驚きを禁じえなかった。苔はその後雪に埋もれてしまった。
苔を眺める機会を失うと、店は時間が止まってしまった。暖炉には火が燃えていて、その前にはグレイハウンドのジョーンズが静かに横たわって温もりを独占している。パチパチと爆ぜる音以外に時間が流れていることを示す証拠はない。
ここはシベリア奥地の山の中腹、切り立った岩肌にへばりつくように建てられた山小屋で、アンドロイドのアリスが営むバーである。客は滅多に来ない。たまにやってくる客はなぜか厄介事を引き連れてきた。
そんな全てが凍りついたような小さな世界に変化が訪れた。
ある日アリスの許に一本のウィスキーが送られてきた。『ラガヴーリン16年』アイラモルトの巨人と言われるスコッチウィスキーだった。アイラモルト独特の情熱的ともいえるスモーキーな香りの中に甘味が潜んでいる逸品である。そのウィスキーを運んできたドローンの足にわずかに苔が付着していた。あの苔はここからやってきたのかと納得した。送り許はスコットランドのアイラ島。送り主には覚えがなかった。
それからしばらくして妙なことが起こるようになった。動体検知センサーには何の反応もないのだが、重力場を読み取るアリスの特殊な右目が、重力の僅かな変化を読み取るのだ。それはまるで雲のように捉え所がなく、霞のような儚さで消えていった。そんなことが何度か続いた。
やがてそれは明確な意思を持ってアリスを見つめるようになった。憎悪という意思を持って。
その憎悪には覚えがあった。アリスが裁判で無罪となった瞬間から決して消えることがなく向けられる憎悪。人殺しに向けられる掛け値なしの憎しみであった。それが今、アリスの店の中にある。
アリスは残霊剣を振った。残霊剣は人の意志というエネルギー場を斬ることができる。そして重力の変化はこのエネルギー場のせいだった。
だが、いくら残霊剣を振ってみても、そこにアリスが斬ることができる、人の意志というものは存在しなかった。やがてアリスを見つめる憎悪の視線は、アリスに疑問を残して消えていった。
手がかりはラガヴーリンしかない。アリスは手がかりを求めて封を切った。同時に前に感じたあの視線を強く感じた。ボトルを握る手から電気的な刺激が突き抜けていった。油断していた。ボトルには仕掛けがしてあった。何かがセキュリティを突破して侵入してきたのが分かった。いくつもの警告が表示され外敵侵入のエラーが発せられた。何かが身体の中を駆け巡り、やがてコアに居座ったのが分かった。
それは今、アリスの中でアリスの目の前に立っていた。見覚えがあった。アリスを憎悪してやまない警官。裁判でアリスが無実を勝ち取って以来ずっとアリスを狙い続けている警官。マッキーだった。
「久しぶりだな。この人殺し野郎」
「私は裁判で無罪を勝ち取ったわ。今更あなた方に恨まれるいわれはない」
「人殺しが無罪になることなんてない。あの裁判でアテナスは俺たち人間の心を測り損ねた。所詮機械は機械だ。だから俺たちは俺たちでお前を裁くことにした」
「あなたが今やっていることこそ罪よ。私のボディーから出ていって」
マッキーは気でも違ったかのように甲高い声で笑った。
「人殺し機械が罪を語るな。今すぐ俺がお前を裁いてやる」
マッキーの目が身開いた。途方もない憎悪が巨大な力となってアリスを押し潰し始めた。それはアリスが経験したことのない嵐のような力。アリスの意識は波に崩される砂の城のように、少しずつ確実に崩されていく。
どうして意識が崩れるのかアリスには分からない。意識はエネルギーの流れであり、エネルギーはアリスの右目が捉えることができる形である。なのにこの憎悪には形がなくどこまでも強大だ。
「俺がどうするか知りたいか。 今からお前は自らを破壊するのだ。自分の手でコアを握り潰そうか。それとも銃で撃ち抜こうか。いや、いいことを思いついたぞ。崖下に頭からダイブしよう。真っ逆さまに落ちて潰れるんだ」
するとアリスのボディはアリスの意思とは無関係に歩き始めた。バーの扉を開き真っ直ぐに向かう先はヘリポート。その先は谷である。いくらアンドロイドでも頭から落ちればひとたまりもない。アリスは必死にボディを制御しようと試みた。だが、マッキーの憎悪は完全にボディを掌握していた。アリスにはなす術がなかった。
「お前は終りだ。無様に潰れたマネキンになるんだ」
アリスはふと思った。マッキーは今までアリスが斬ってきた思念や怨念とどこかが違う。何が違うのか。
「覚えているか。俺がお前の腹に杭を打ち込んだ時のことを」
それはアリスが騙されて誘き出され、マッキーたちに捕まった時のことだった。たまたまアリスがウィスキーを与えた浮浪者に助けられた。
「俺は裁判も見ていた。もし無罪になるようなら、その場で撃ち殺してやろうと思っていた。なのにお前は街のゴロツキを雇って逃げやがった。俺はその時誓った。必ずお前を追い詰めるとな」
ヘリポートまでやってきた。縁までは数メートルしかない。
「あなた本当にマッキーなの?」
「何だと? 俺がマッキーでなくて誰がマッキーなんだ。ふざけやがって」
なるほど。この頭に血が登りやすい特徴はマッキーに間違いない。それは決してマッキーの思念ではない。アリスは勘違いしていた。思念というのはもっとストレートでいて曖昧だ。そこには憎しみという概念しかなく、思い出はない。
「あなた、ただのデジタルクローンでしょう」
それはマッキーが己の意思をデジタル化しただけの存在だ。そしてデジタル空間で動きやすいようにマッキーの思考バックアップを与えられているのだろう。それはアリスの右目で見ることができる、人間たちの意識ではない。残霊剣で斬れるエネルギー場でもない。つまり、それはただのプログラムということだ。アリスが太刀打ちできないのはエネルギー場を相手にしていると思っていたからだ。相手がプログラムならばいくらでも対策はある。デジタルにはデジタルだ。
アリスは己の中にいくつかのウィルスを放った。コアが壊れなければそれでいい。
するとヘリポートの縁まで僅かのところで歩みが止まった。
つぎにアリスはドッグを放った。ドッグは不正プログラムをどこまでも追い詰めるプログラムだ。ドッグはすぐにアリスのメモリーエリアの中から不正なプログラムを見つけ出した。
「くそっ。このまま済むと思うな。俺はこれからもお前を追い詰めてやる」
「やって」
ドッグが一斉にマッキーに飛びかかった。鋭い牙がマッキーのデジタルクローンをずたずたに引き裂いていった。
そのころ、マッキー本人はスコットランドのリゾート地でウィスキーを飲んでいた。山々に囲まれた小さな村のレストランバーで、デッキの椅子に深く身を預けていた。もちろんグラスに注がれているのは『ラガヴーリン16年』だ。デッキからは壮大な山影と裾野に広がる湿地を眺めることができ、透き通った空気がウィスキーの味に一層甘味を加えていた。
「くそっ。見つかったか。まあいい。まだいくらでもチャンスはある」
マッキーはグラスの酒を飲み干すと右手を上げた。すると蝶ネクタイを閉めたアンドロイドウェイターがやってきた。
「同じものをもう一杯くれ」
「かしこまりました。あまり顔色が優れないようですが、何かお気に触ることでもありましたか?」
「いや。お前のせいではない。ちょっとしたゲームを落としてしまってな。やけくその一杯というわけだ」
「そうでしたか。それはお気の毒です」
ウェイターはさも残念といった顔をしてから注文の酒を取りに店内に入っていった。戻ってきた時ウェイターはグラスと一緒にラガヴーリンのボトルを持っていた。
「ああ、ありがとう。しかしここの景色は本当に最高だな」
「ええ、そうですね」
いいながらウェイターはボトルをマッキーの頭の上で逆さにした。流れ出るウィスキーが頭を濡らす。
「うわ。何をしやがる。このポンコツめ」
ウィエターはボトルで顔を殴りつけたうえに、デッキに転がったマッキーに馬乗りになり喉を締め上げた。
「生き霊に見せかけてデジタルクローンを送りつけてくるなんて、ずいぶんと手の込んだことするじゃない」
その声がアリスのものだと分かると、マッキーの顔から血の気が失せた。
「くそ。はなしやがれ。人殺しめ。俺もこうやって殺すのか?」
ウィエターはにやりと笑った。そしてマッキーをデッキから投げ落とした。デッキの外は湿地になっている。足がつく場所もあれば、底無しの場所もある。あとは運次第だ。だが、マッキーは運が悪かった。少しずつではあるが、マッキーの体は湿地に飲まれ始めた。
「助けてくれ。こんな死に方は嫌だ」
すぐ脇にウィエターが飛び降りた。ウェイターはマッキーの喉を掴んだ。
「どんな死に様になるかはあなた次第よ」
「ふざけるな。人殺しめ。くたばれ」
「このウェイターの体重は100キログラムちょっと。あなたを沈めるのに役立ちそうね」
ウェイターがマッキーに抱きついた。すると沈むのが早まった。
「やめてくれ」
「二度と私にまとわりつかないと約束しなさい」
「分かった。約束する。助けてくれ」
ウェイターは答えない。
「何してる。水が口元まで来てるぞ」
ウェイターが笑顔で言った。ウェイター自身の声だった。
「何かお手伝いできることがありますか?」
アリスはウェイターがマッキーを助けるのを見届けると完全に意識を自分のボディーに戻した。すぐ目の前には谷が広がっている。こんな状況の時人間は落ちてしまいたいと思うのだろうか。店の入り口でジョーンズが不安げに見つめていた。アリスは谷に背を向けると店に戻り、ジョーンズの頭をなでてやった。そして人間の意識というのはどこかウィスキーの味わいに似ていると思った。ところどころに底なしの湿地が潜んでいる。
終
おまけのティスティングノート
『ラガヴーリン16年』は代表的なアイラモルトの一つです。アイラの3兄弟と呼ばれる『アードベッグ』、『ラフロイグ』にならんでアイラモルト独特のスモーキーな味わいが人気です。ただし癖が強すぎる味わいには賛否両論あり、一口でハマる人もいれば、二度と飲まないという人もいるようです。そんな3兄弟も少しずつ特徴が違うところがありそれぞれの個性を比べてみるのも楽しいでしょう。
本作に出てくる警官マッキーの名は『ラガヴーリン』を世に広めた、ピーター・マッキーから拝借しました。もちろんピーター・マッキーは本作の警官のような人物ではなく、非常に精力的にウィスキー産業を発展させた素晴らしい人物だったようです。仕事に明け暮れる彼を見て、人々はレストレスピーターと呼んだそうです。そんな彼の功績により『ホワイトホース』のキーモルトとなった『ラガヴーリン』は一気に注目されるようになったそうです。
スコッチの名前はゲール語が元になっているものがありますが、『ラガヴーリン』もその一つで「水車のある窪地、湿地」といった意味合いがあるそうです。いろいろ悩んだのですが「窪地」だといまひとつインパクトに欠けるので「湿地」という意味を使わせてもらいました。また、北欧の警察小説『湿地』のイメージも少しだけ盛り込めればと思いましたが、あのアイスランド独特の暗さを表現するのはちょっとハードルが高かったです。
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