やんちゃなカクテル

 世界広しと言えど、彼ほど有名な男はそういない。それは額に3つ、うなじに3つの電子の目を持つからでも、赤い髪が燃えるように揺らいでいるからでも、体中の電子プリントを光らせているからでもない。あの難攻不落のヘブンズ刑務所を脱獄したからである。

 彼の名前はアズマ。警察に追われる身のはずだが、逃亡生活を送っているようには見えない。いつでも楽しいことを探し歩き、享楽的に生きている。にもかかわららず一向に捕まらない。

 なぜなら彼はアテナスの目を欺ける唯一の人間だからである。

 世界中に監視の目を光らせている政府アシストコンピューターのアテナスは世界中の人々の行動ログ管理を行っている。その行動ログ自体が個人のIDとなる。生まれてから現在までの全ての行動ログを把握する相手を出し抜くことは簡単ではない。

 だが、アズマはアテナスの持つ行動ログと誰かのログをすり替えることができた。すり替えてしまえばアテナスは別の人物を監視しているのと同じことになる。

 だからこうやって自由にウィスキーを飲むことだってできる。もっともアズマがカウンター席に座る小さなバーは、アテナスの管理外地区でしかも海底にある。バーテンはアリスという名のアンドロイドで脛に傷を持つ身だ。境遇はアズマと大して変わらない。

「お願いだから、ここで揉め事は起こさないでね」

 アリスが二杯目のウィスキーを注ぎながら言った。

「俺がいつ揉め事を起こした。いつも静かに飲んでいるだけだ」

「そうかしら。あなたは」

 アリスはそこで言葉を切ってしばし考えてから、

「やんちゃだから」

とつないだ。

 同意の意なのかふざけているのか、アズマが長い舌をダラリと出して笑った。

 アリスからすればここには『やんちゃ』でない客などほとんどこない。管理外地区というだけで真っ当な人間が来る場所ではない。それでも生活が成り立つ程度に客が来る。ただ時々厄介事を連れてくる客がいる。脱獄囚なんて厄介事そのものであるが、今の所アズマが問題を起こしたことはない。気だるいジャズボーカルの声と、何もない窓の外の海底。店にいるのはアズマと入り口近くに寝そべるグレイハウンドだけ。今日問題が起きる確立は低い。

 そう思っているところで転送エレベーターが誰かの到着を知らせるベルを鳴らした。

 オークの扉を押して入ってきたのは、短い髪にサングラスの女性。流行りのオーロラカラーのストレッチスーツはこのあたりでは目にしない。どちらかといえばビジネス街がよく似合う。

「いらっしゃい。ここには珍しいお客さんね」

「海が見たくて」

「ご注文は?」

「そうね」

 女性はカウンター席に座ると人差し指を頬に当ててからちらりとアズマを見た。

「おい」

 アズマがアリスに電子メモを飛ばしてきた。メモにはカクテルの名前が書いてある。女性にカクテルを振る舞いたいということらしい。

 アリスが女性の前に電子カクテルを差し出した。

「カシスソーダです。あちらの方から。受けますか?」

 アズマが女性を見て少年のように微笑む。複眼が光っている。差し詰め赤外線でボディラインでもチェックしているのだろう。

 女性もまたアズマを品定めするように見た。普通なら燃えるように揺れる赤い髪や電子プリントのヤクザな風貌は警戒するものだが、こんな場末のバーに来る女性にはやはり何かあるのかもしれない。女性は軽くうなずいた。

「いただくわ」

 カシスソーダのカクテル言葉は『魅力的』だ。

 女性はカシスソーダをひと口飲んでからグラスを戻した。そしてアリスに電子メモを飛ばした。

 アリスは眉を持ち上げた。アズマのどこが気に入ったのだろうか。

 アリスは女性からの返杯をアズマの前に置いた。カクテルはモヒートだ。カクテル言葉は『心の乾きを癒やして』。

 いよいよアズマの目が輝き出した。笑顔の端々に下心が見て取れる。モヒートを一気に飲み干して電子メモを飛ばす。注文のアキダクトが女性の前に出されるのと同時に隣の席に腰掛けた。

「たまには時の流れに身をまかせるのもいいだろう。俺はアズマ。君は?」

 女性が妖艶な笑みを返す。黒い瞳が魅惑的だ。

「ビマ」

「美しい魔女ってところか。怖い名前だな」

「そうかしら。次はキールを頼もうかしら」

「キール?」

「あなたに会いたくて仕方なかったの。最高のめぐり会いね」

 アズマが眉をひそめた。

 黒い瞳をアズマに向けたままビマの手が流れるように動いた瞬間、アズマの両手に手錠がは掛けられていた。個人特定型でアテナスと掛けた人間にしか開けられない。

「おい、なんだこりゃ。どういうつもりだお前」

「やっぱり次のカクテルはXYZにするわ。これでお終い」

 なるほど。全てを理解したアズマはにやりと笑った。だてに逃亡者をやっているわけではない。

「お前、デカか」

「私はフリーランスの保険調査員。まあ、言ってみれば賞金稼ぎね。それも腕利きの」

「確かにその見てくれには騙された。だがそれは出来ない相談だ。俺は用心深くてね」

「その手錠を壊そうって思っても無理よ。爆撃でも壊れない鍵のかかった部屋ってところね」

 ビマはXYZに手を伸ばそうとして目を見開いた。アズマの手に掛けたはずの手錠がいつの間にか自分の手に掛かっていた。

「そいつまでは俺の奢りだ。ゆっくり楽しむといい。そうだな、俺はもう一杯だけ飲んだら我が道を行くことにするよ。バーテン。ギムレットをくれ」

 アリスはギムレットを出しながら尋ねた。

「悪戯好きね。はい、ギムレット。長いお別れになるのかしら。ところであなたレイモンド・チャンドラーなんか読んだことあるの?」

「さあな。そんな昔のことは忘れちまった」

 アズマはギムレットを飲み干すと、あばよと手を振りながら出ていった。

「どうやって手錠を外したのかしら。これは私にしか外せないはずなのに」

「アズマは個人IDをすり替えられるのよ。つまり彼はあなたに、あなたは彼になった」

「ちょっと待って。じゃあ、今は私がアズマってこと? それじゃあ手錠が外せないじゃない」

「アテナスに頼むしか無いわね。もっとも信じてもらうまで時間がかかると思うけど。あなた本当に腕利きなの?」

 ビマはため息をつきながらカクテルを啜った。心にアズマの最後の言葉が残っていた。

「いつまでも美しく」

「素直な人」

 入口付近に陣取ったグレイハウンドが大きな欠伸をした。


          終



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