物流と職業と贈与についての考察(布施行の意味を見直す為に)
まず物流の必然は分業にある。貨幣が無くても物流は必要であり、信頼しあう場所では、家庭や村などのように贈与で十分に成り立つ。貨幣の力は信用が無い関係においても、モノやサービスの流通を可能にする特異性にあり、この特異性を作ったのが税(喜捨)だ!
と、MMTの「税が貨幣を駆動する」を踏まえた上で、貨幣論ではなく、物流論にチャレンジしたいと今、考えている。何故、人間のみがこれほど強力な物流を作り上げるに至ったのか?これを考えてみようと思う。
外部との流通において人類はポトラッチを始めた。贈与と返礼という奇妙な習慣である。その奇妙さは他者により多くの贈与を行い。より多くの贈与を行い得た方が優位であるという強迫観念である。
何故こんなことが起こったのか?注目するべきは人類は極めて長い時間物流を成立させ得る手段をおそらく『贈与以外持ち得て居なかった』点だ。文化人類学に従うのならば物々交換が成り立った社会が存在していないのだから、人類は贈与のみで長い期間物流を成り立たせてきたのだ。
これは自然界を考えれば理の当然だと断定できる。自然界ではモノを得る方法は2つしかない。自分自身で獲得するか、親などから与えてもらうかの2種類なのである。物々交換する野鳥など存在しないし、貨幣で肉を買うライオンなど存在しない。
特に未成熟に生まれ、長期間の保護と育成を必要される人間の場合。多くの贈与を受けなければ一人前に成れないし、多くの贈与をしないと子孫を継続できない。人類は他の生命より高い贈与本能を持っていなければ生命を存続できなかったのだ。
面白い説がある。人が何故、直立二足歩行したのか?
実はニホンザルでも両手でモノを持って二足歩行をする。おそらく人類はこれをとても頻繁に繰り返したのだろう。当たり前だ。他の動物より高い贈与本能を持ったサルは自分の子供の育成のために食料を持ち帰る必要があったからだ。
子供への贈与の必要性から、直立二足歩行を獲得し、他の動物とは比較に成らぬほど多くのモノを運ぶことが可能な物流動物が誕生したのである。直立二足歩行は巨大な脳(高い知能)と多種類の音を出せる喉(言語の習得の基盤)をも獲得した。
二足歩行する、多くの食料を運べる動物は、おそらく自分の子供だけで無く、近くの同族たちにもモノを渡しただろう。そのくらいモノを運べたし、協力して狩りをすることも多かっただろうからだ。
分業もそのコミニティで起こっていく。一番最初に起こった分業は(男女の文化差)ジェンダーであろうことは、論を待たないが、(ライオンですらジェンダーは存在するのだから)文化の高度化ともに得手不得手が生まれ、専業化が起こってくるからだ。
自分が出来ること、得意なことのみを行うだけで生きることが出来る。この状態を作ったのは自分が苦手なことをやってもらえるからだ。自分が出来ないことを相手に任せる。ココには信頼関係が存在しなければ成り立たない。
物流方法を贈与しか持って居なかったのだから、自分が行わなくても、他者から贈与が当然受けられるという強固な信用がなければ分業は絶対に成り立たないのだ。
分業によって人類は大きく生産性を高めただろうし、自分が得意なことだけをやるのだからストレスも大きく低減しただろう。分業(現在につながる職業)は強固な信頼関係の中で生まれ培われていったもののはずだ。
当然のことながら、この強固な信頼関係は全ての人類同士で一気に成り立つもののはずが無い。長い養育期間の中で贈与し贈与された関係の中でのみ成り立ち、それは家族や村といった一定の範囲が生まれる。
おそらく家族や村といった一定の範囲内の強固な信頼関係と、その外部に対する不信は人間の中で同時に生まれる。外部との接触は戦争という悲惨な関係も生み出しただろうし、外部に対する不信は、たぶん強固な信頼関係の裏返しとして絶対に無くなり得ないものなのだ。
ただ、僕たちは少なくとも貨幣経済以前には贈与という明らかな利他によって物流を成り立たせてきたし、分業する習慣である職業も贈与と信頼関係が無ければ成立しなかったはずだ。
現在、頭のおかしい主流派経済学の連中は、気が狂ったように企業に対し利潤追求(自利)を要求する。職業(分業)は利他と信用こそが発生の起源であるにもかかわらず、明確な誤りを強弁し、効率などという嘘によって信じがたいような格差社会を構築してしまっているのだ。
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