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仏教の認識論について1

仏教の認識論の代表といえるのは、唯識と中論だろう。厳密に言うと両者は異なるのだけれど、あくまで、ガウタマ・シッダールタ(仏様)の考え方(思考法)をさぐる作業の中で生まれたものなので根幹は同じものである。

僕がこれを完全に正しく理解できるはずも無いので、あくまで僕が分かる範囲で活用することしか出来ない。『如是我聞』の精神というか、それにすら達していない若輩だけれど、自分が出来る範囲で必死に活用してみようと思う。

仏教の認識論では現実(実体)そのものと認識はつながっていないと考える。それを『空』と表現するのが中論であり、認識そのものに限定して詳細な分析を行うのが唯識である。

もう一つ重要な概念として『縁起』というものがある。全ては動きである。あるいは認識は全て動きによってのみ知覚される、という考え方だ。例を出して説明しよう。

ここに石があったとする。この石を見た時(見識)に起きる現象とは何だろうか?

実の所、人間は光が無ければモノを見ることが出来ない。太陽や電球などによって発進された光の反射の波長を網膜が感じ取って、脳に送って、脳が認識して、初めてそこに石があると認識できる。光という動きと縁(つながり)を持って初めて石という存在を見識できるのだ。ただし、見識できたとしても、僕たちは石そのもの(実体)を理解した訳ではない。あくまでも石から反射された光という動きによって、石の見識が生じたのみなのだ。

これは触覚についても全く同じだ。石に触った時、僕の皮膚上の触点が刺激され、その信号(神経伝達物質)が脳に送られて、触識が生じる。石に触れるという動きと縁(つながり)をもって、石を触識できる。

音も同じだ。石がぶつかり合って生じた空気の振動を鼓膜が捕捉して、その信号(神経伝達物質)が脳に送られて音識が生じる。

石に対する、見識と触識と音識は、それをどれほど積み重ねてもあくまで石そのもの(実体)では無い。石から発出された動きと縁を持って、生じた識なのだ。いわば僕たちは識以外には持つことが出来ず(空である)、識はあくまで、石にまつわる動き(起)とつながって(縁)生じる。これが縁起と空の根本原理なのだ。

ところが、僕たちは石を一つの固定化されたモノだと認識しているし、他者と言葉で「あそこにある石とって」などと、会話することも出来る。こういった本来、動きによって生じた認識から、モノ化させた認識を作り出し、言語化させたりする。こういったモノ化させた認識作用や認識そのものを仏教では『色』と呼ぶ。

この石に関する作用の場面において『色即是空 空即是色』を言い換えると、モノ化された認識は正しく言えば動きによって生じた識のみなので実体そのものでは無い。動きによって生じた識は人の中でモノ化させた認識に変化する作用によって、言語化されたり人が取り扱うことが出来る。という解説も出来るだろう。







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