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あんたの手 あったかいな

母は子どもが嫌いだ。微妙とか苦手とかそんな生温いレベルでは無くて、嫌いなのだ。だから私が子どもの頃には遊んで貰ったこともないし、手を繋いで貰ったこともないし、触れて貰ったことなどなかった。絵本に登場する母親は子どもを

だいすき。

と言って抱きしめている。それを見るたびに腹の底辺りで哀しい気持ちが旋回していた。だから私は自分から行動を起こして母に抱きついたことがある。それは簡単だった。いつも祖父母や父にしているように自分より大きな大人に手を回してギュッとした。すると母は、

離して。

と、私を拒絶した。その言葉の破壊力たるや小さな手を一生懸命に伸ばした私は母の体温を感じる前に体を離して、母の居ない部屋へ移動すると熱の塊のような涙が次から次へと流れたことを憶えている。

離して。

と、冷淡に言われて傷付いた心を修復することはできずに、今も傷痕として存在している。それから母との間には見えないけれど底のない深い溝ができた。幼いながらも母には近寄らないし、触れないし、滅多に話さない、その三原則を厳守したのは、自分を守るためでもあった。だってこれ以上深く傷付きたくないから。そうしているうちにふたりの溝は深まるばかりで埋まることを知らずに、すれ違うばかりだった。私が高校生くらいの子どもと大人の境目くらいになると、母は自分から日常にあったことをポツリと話すようになったけれど、思春期の私はその発言に耳を傾けることをしなかった。幼い頃にできた傷痕は私の耳を口を固く塞いでいた。そんな母と私の間にはいつもパイプ役として祖父母や父がいて、私たちをなんとか繋ぎ止めていた。あるとき、父が私に

お母さんを赦してやりなさい。

と、唐突に言われたけれど、私は返事をすることも頷くことも出来なかった。

赦すってなんなん?

その声は私の器の中で転がり壁にぶち当たり反響し続けていた。私は赦すことをしないことで母と歪に繋がっていたのかもしれない。

そして家を離れて大人になると、母と物理的に距離を置けてどこかホッとしている自分に気が付いた。幼い頃にできた傷痕は消せないけれど母のことを考えなくて済むと思うと気持ちが楽になれた。そして

私は母に愛されてはいない。

そのことをしっかりと受け止めることができるようになったのも丁度その頃で、仕事に趣味に恋愛に一生懸命だったから母のことは忘れていられた。けれど、大好きだった祖父母や父が亡くなり、母との間にある歪な繋がりが露呈してヒリヒリと痛んだけれど、大切な人を亡くした喪失感や虚無感を共有することでその溝へ橋をかけることができた。大切な人たちは死してもなお、私たちのことを繋げようとし、心配しているのかもしれないと思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになった。そして心身共に痩せ細る母のことが気掛かりでもあったので、今まで視界の隅へ追いやっていた母との関係性を直視しようと決断して仕事を退職し実家へ帰ることにした。最初は何を話したらいいのかも解らない状態だった。そんな日常の中で私は事故に遭い死にかけた。そのときに退院してすぐに母が初めて私の手に触れたのだ。私はなぜか怖くなってその手をすぐさま引っ込めたけれど。そのときに思ったことが

何を今更。

と、思った。私は子どものときにそうして欲しかった。手を繋ぎそのあと優しく抱きしめて欲しかったのに。私の記憶は歩み寄ろうとする母を拒んだ。すると、母は

今までごめんな。
あんたの手
あったかいな。
あったかいし
やわらかい。

と言ってその目からは大粒のガラス玉のような涙が零れ落ちた。

こんなわたしの
むすめでいてくれて
ありがとう。

そう運転席で呟いて車を発車させる母の後ろ姿を見て私は、

うん。

とだけ返事をした。その母の言葉はクレバスのように裂けた溝へザーザーと音を立てて流れ込む。そのときに私は母から謝って欲しかったんだと気が付いた。生まれて初めての感情は擽ったくて堪らなかった。その言葉はやさしい塊となって私の器を駆け巡りその摩擦熱で体温は上昇する。あれから約二年の月日が経ったけれど、最近やっと母と娘らしくなってきたと思う。そして私たちはふっと息を吐けば消えてしまいそうな日常を大切にしながらひっそりと生きている。







#やさしさを感じた言葉

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