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何かわからないからドキドキするんだよ。

奔放だった緑が少し落ち着いたと感じる。夏には手足をグンと上下左右へ伸ばしていた草木も、冬に向けて身支度をしているように見えた。太い幹や葉は乾燥して少し細く固くなっているし、花は咲いて枯れて移ろうし。時は刻々と何か得体の知れないものを刻みながら進んでいく。と、俯瞰しながら道を歩くと、日常の細々した苛立ちや疑問から逃れることができる気がする。怠惰な視線で景色を眺めるわりにそれを純粋に享受して食んで消化する。その工程を繰り返す毎日。くだらない。

「楽しい!!」

世界がはじまるときの音みたいに元気な声を聞いて、マスクの下で自然と笑顔が生まれた。さっきまでくだらない、と思っていたのに、それを打ち消すくらいの声音だった。パッと声のする方を見ると、小学生低学年くらいの子どもたちがケンケンパをしていた。地面にまるを描いて、その上を軽やかに飛び跳ねている。私は近くにあったベンチへ腰掛けてアイスカフェラテを飲みながら、そのまるを目で追った。

ケンケンパ、ケンケンパ、ケンケンパッパ、ケンケンパ、ケンパ、ケンパ、ケンケンパッパ



いろんなバージョンのケンケンパがあって、その長く連なるまるの上を「あ、まちがえた!」とか、「むずかしい!」とか、楽しそうに飛び跳ねる子どもたち。その姿は、喜びで満ちた豊かな時間を生み出しているような気がした。私も心の中でケンケンパとつぶやきながら、まるから次のまるへ飛び跳ねた気分になると、くだらない、と思っていた毎日にやさしい風が吹いた。そうだ、私にもこういう時代があった。ただひたすら飛ぶことだけに集中して、地上から足を離す瞬間。頭の中は空っぽで、それが気持ちよくて。私はハッとした。そして、空っぽになる、っていう感覚を忘れていたことに気がついた。今までいろいろなことを経験しながら大人になって、成功して、挫折して、その繰り返しを生きる中でいつの間にか経験値というデータで体の中はいっぱいになっていた。溢れ出るデータに溺れそうになりながら、満身創痍で生きている私。蓄積された膨大なデータで形成されている私。経験則に従い生きている私。途端に私の中で流通する正しさをぶっ壊したくなった。すると、アイスカフェラテをズズズと飲み干す頃合いに、子どもたちはランドセルを背負って、まるのないところへケンケンパをしながら遠かっていく。それはまるで経験則から外れるような、異世界への境目をまたくような、気がした。その空間にひとり取り残された私は、そのまるの前まで移動してドキドキしながら呼吸を整えて、飛んだ。

ケンケンパ、ケンケンパ、ケンケンパッパ、ケンケンパ、ケンパ、ケンパ、ケンケンパッパ

空っぽになる。そのことすら意識せずに飛ぶことだけに集中する。バランスを崩しながらも最後のまるに両足をつけると、勢いをつけて何も描いていない地面へ一歩踏み出した。何かが変わる気がした。けれど、結局、いつもの自分だった。

何かわからないからドキドキするんだよ。

ふと、空っぽの頭にこの言葉が浮かんだ。私は素直に、そうだな、と腑に落ちて

「大人だってケンケンパして、ドキドキしたっていいじゃんか。」

と、マスクの中でつぶやくと、まるのないアスファルトの上を、歩きながらときどきこうして空っぽになることを決めて、空を見上げると平坦な空を鳥の群れが一生懸命に飛んでいた。








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