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わたしの兄です|小説 後編


ジーッとアラーム音が携帯から聞こえたそばから私は機能をオフにした。ため息のような吐息をひとつ零してからゆっくりと起き上がるとカーテンを開けた。薄く白い膜が張ったように総ての色彩は色褪せたように反映する。「ふあー。」と欠伸をしながら伸びをして昨日見た幼い頃の夢を数秒反芻した。あの頃の慎ましくも嫋やかな抽象画のような日々に鼻の奥がツンと痛むから私は上を向いて鼻を啜りそれを追いやった。

今から実家に帰るんや。

そう思うだけで淀んだ空気足元へ転がる。私は荷造りと身支度を整えて東京駅から新幹線へ乗った。そしていただきますの合掌をした後にキヨスクで買った缶ビールを飲みながらサンドイッチを食べた。

帰りたくない。

不意に湧き上がる本音を溶かすようにビールを飲み干して、サンドイッチを無心に食べたあと、ごちそうさまをして片付けて、パソコンを開き仕事をしていたらいつの間にか新大阪駅へ到着した。慌ててパソコンを片付けて荷物を持ち新幹線の出口まで続く列に並んで下車して広大な駅舎を歩きながらおかんへ、ラインしようと携帯を見ると


駅中の串カツ屋でおるよ。


と、おかんからラインが入っていた。マップで調べてそちらへ向かったら、ビールを片手にこちらへ向いて手を振っている。私は荷物を置いて椅子へ腰をかけると店員さんが「ぃらっしゃいっ!」と威勢よくおしぼりとお冷やを持って来てくれたらから、生中と串カツ大阪セットを頼んだ。

「小夜、元気そうで良かった。」

おかんは白髪が混ざった髪の毛を耳にかけながらそう言った。その手にはシミができていておかんの年齢を実感してしまい寂しさが込み上げてくる。

「うん。元気にしてる。」

その気持ちを隠すように私はにこりと微笑んだ。それからやってきた生中でおかんと乾杯すると、おかんは

「おとんが亡くなってもう一年が経つんやな。」

そう言うと、目元をハンカチ拭うような仕草をした。私はやってきた熱々の串カツを頬張り冷たいビールを飲んでから

「ほんまに早いな。」

と、呟いた。おとんは去年に心筋梗塞で亡くなった。頑丈で豪傑にできているとばかり思っていた父の身体は意外に脆く儚かった。そしてその死は母と私の心にポッカリと穴を開けた。ふたりで泣いては昔の話をしてまた泣いてを繰り返して少しずつ父の死を実感している。明日は父の一回忌だ。私と母は串カツを平らげて電車へ乗った。家に到着して荷物を置くと近所の大きなスーパーマーケットへ母と出かけた。そのときにやっと本音が零れ落ちる。

「兄ちゃんは最近どう?」

そう言うと、おかんは

「相変わらず、ボチボチやな。」

と、だけ言って俯いた。

兄ちゃんは私にしたら意地悪なままだったけれど、有名な難関高校へ入学して勉強に部活に励んでいた。その瞳の奥はキラキラと輝いていて、誰もがその将来を期待していた。しかし大学受験前から何かが崩壊し出した。それはビルが崩壊するような大きな事態ではなく、糸の束がプツプツと音を立てながら切れていくような地味な感じがした。そして兄ちゃんは事あるごとに母にキツく当たるようになったし、居間の壁は兄ちゃんの拳型の穴だらけになった。壁から土竜が出てきそうなほどに綺麗な丸い穴を隠すように、おかんはピカソの描いた絵画のポスターを貼った。そのことにおとんは

「あいつも苛々してるんやろう。」

と、怒ることをせず見守る道を選択した。今となってはそれが正しかったのかと訊かれたら間違いだったのかもしれない。その頃から兄ちゃんは部屋へ引きこもるようになった。食事は一日に二回、おかんが作って部屋の前に置いたり、お風呂は家族が寝静まった夜中に入ったりしていた。静かだが兄ちゃんは生きているという気配だけは感じていた。そのうちに兄ちゃんは自分の殻に閉じこもったまま周りを混乱させる要因になってしまった。ある日、兄ちゃんと廊下ですれ違ったらあの頃の活発な兄ちゃんとは違い、色白な手足はもやしのようにひょろ長く、申し訳ない程度に肢体へくっついているように見えて、髪の毛はボサボサになり瞳は虚だった。そのときに私は

あ、兄ちゃんが壊れた。

と、実感した。もうあほの歌を歌うことはないだろうし、私に意地悪をすることもないと悟った。けれど私は安堵するよりも不安が優った。

今、兄ちゃんの瞳の中には私は映ってない。いや、存在すらしてないんとちゃう?

そう思うと底のない恐怖が襲ってきた。私は部屋のベッドへ潜り込んで小さく泣いて夜をやり過ごした。その次の日、学校から帰宅したら、兄ちゃんは居間の壁へまた穴をひとつ増やしていた。それは兄ちゃんの存在証明のようにポカリと穴が空いている。私はその穴を見ていると悲しい色をした怒りがふつふつと湧いてきた。しかしどうしようもなかった。それに勉強に部活に友達に恋に忙しかった私はそのことから目を逸らすようになった。私は辞書で引きこもりを引こうとしたけれど、その手を止めた。そうしてしまえば兄ちゃんが一生あの洞穴のような部屋から出てこれないかもしれないと思ったから。それから私が高校を卒業して大学へ進学するために上京してそのまま就職した。兄ちゃんが引きこもって十年が経った。もう居間の穴は増えることは無いけれど、逆に存在証明すら残さない兄ちゃんが気がかりでもあった。そんな中、おとんは亡くなった。兄ちゃんはおとんのお通夜に長い髪の毛を結えて黒のTシャツにジーンズ姿でやってきたと思ったら、お棺の中へ手紙を入れてそのまま姿を消して葬儀に出席することはなかった。私が見たのはそれが最後の兄ちゃんの姿だった。あれから一年間、兄ちゃんは洞穴のような部屋で土竜のように、ひっそりと生きているのだろうか。不意に母の足元を見ると、黒のパンプスではなく、黒いスニーカーになっていた。いつの間にか年を重ねたおかんは少し背中が曲がったようなに目に映る。

「おかん、東京で一緒に住まへん?」

と、言うとおかんは見上げるように私の顔を見て

「ありがとう。けれど、たかしひとりで置いてはおけんから。」

と、ポツリと孤独が滲むような声音で囁いた。その言葉に胸の奥がギュッと締め付けられて私は返事すらできなかった。物音すらしない静かな家へ到着すると私は居間を見渡した。壁には色褪せたピカソの描いた絵画のポスターが所狭しと並んでいる。『浜辺の母子像』『ドラ・マールと猫』『泣く女』『人生』『詩人』『夢見る人』『ドン・キホーテ』。この居間で展覧会が出来そうなほど、名作が並んでいて、その下にはひっそりと兄ちゃんが開けた穴が呼吸をしている。私は画鋲を外してその穴を久しぶりに見た。それは「オレはここにいる!」と絶叫しているように思える。

兄ちゃんも苦しいねんな。

そう思うとやるせなくなった。台所からおかんの気配を感じたので、私は慌てて画鋲を元の位置へ戻し、テーブルを片付けているフリをした。そうしたら、おかんが居間を通って仏間に入っていき、果物をお供えしているから、私はその横へ座り線香を上げた。

「明日は誰にも声かけてへんし、私らとお坊さんひとりだけやから。」

おかんは親戚を呼ぶといつも兄ちゃんの話になるから声をかけなかったのだろう。おとんの葬式の時にもハゲのおっさんが

「たかしは昔は優秀やったのに今はあかんな。」

と、言うから私は

「あのー、すいません、お宅どちらさんですか?うちの家のこと言うてはりますけど、税金払ってくれてるんですか?養ってくれてはるんですか?私は常識のない人は嫌いです。帰ってください。」

と、冷静に言ったらそのハゲのおっさんは顔を真っ赤にして怒ってちょっと何を言っているのかわからないまま帰って行った。私はおかんに怒られると思ったけれど

「あー、スッキリしたわー。おとんも笑ってるわ。」

と、爽快な顔をしながらおとんの遺影を見ていた。何故かわからないけれど、兄ちゃんのことをあほにされると無性に腹が立った自分に驚いた。

夕食ができたので二階の兄ちゃんの部屋まで持って行き声をかけた。

「兄ちゃん、小夜やで。今日帰って来たから。明日おとんの一回忌やから、気が向いたらおいでや。」

そう言うと、兄ちゃんの部屋の中から何かがカタンと鳴った。それが返事の代わりかもしれないと思い、私は階段を下りた。

次の日、おとんの一回忌が終わるとおかんとビールを飲みながら昔の話をして、ふたりで笑い合った。そして翌朝、覚めたけれど、夏の暑さのせいか寝汗をかいていた。台所へ行くと悪寒がするから熱を測ったら高熱で、それを見た瞬間に私の意識は遠のいた。気が付くとぼんやりと白い天井に白い壁の部屋のベッドの上だった。懐かしい消毒液の匂いが鼻を掠める。すると私が覚醒したことに気が付いた母は、

「先生ー!先生!娘が目覚めました!」

と叫んでいる。おかんは混乱する私に説明してくれた。

「たかしがな、小夜が倒れた音聞いて駆けつけてくれてん。ほんでな、小夜を抱き抱えて白原診療所へ連れて来てん。」

と、涙ながらに言っていたら、その後ろに白衣を着た先生が立っていて、私の知っている白原先生ではなかった。私が驚いていると、先生は

「たぶん熱と過労のせいだと思いますが、一度、大きな病院で検査してください。」

と、仰るから、私は

「あの、白原先生はお元気ですか?」

と、尋ねると、先生は

「私の祖父は元気にしています。今年で90歳になりました。」

と、仰った。私は懐かしさで胸が熱くなり涙が零れそうになった。あの頃、なんでも質問する私を嫌な顔せずに総て応えてくれた白原先生。そのことを先生に伝えると、「うふふ。」と笑った後に、「そうですか。そのお話が聞けて良かった。」と仰った。そして私は会計を済ませてその足で総合病院へ向かった。救急外来の人は少なく、検査も午前中に終えて、その結果を病院の長いベンチに腰掛けて待っていた。私はおかんに

「兄ちゃんが…兄ちゃんが私を白原診療所まで運んでくれたん?」

と、訊くとおかんは「うん。」とだけ言ってそのあとハンカチで目元を拭った。それからこう言った。

「あんなに部屋から出えへんかったのに、大声で私を呼んでから診療所へ運んで、さっきの先生にな、"僕の妹なんです!助けてください!!"って言うて。たかしは小夜が目覚めるまでそばに居ってんで。」

おかんはそう言いながら泣いていた。

「浅田小夜さーん。」

と、看護師さんが呼んでいるから私は診察室へ入り検査結果を確認した。

「検査結果は特に異常がありませんから、熱と、過労でしょう。解熱剤を出しておきます。」

と、あっさりしたものだった。廊下で待つ母は心配していたけれど、検査結果を聞くとほっと胸を撫で下ろしていた。そして私たちはタクシーで家へ帰った。私は玄関を開けてその足で二階へ行った。そして

「兄ちゃん、開けて。」

と言うと、少ししてから鍵が開く音が聞こえてドアがスーッと開いた。そこには兄ちゃんが立っていた。そして私は何も言わずに兄ちゃんを抱きしめた。兄ちゃんは抵抗したけれど私はそれを無視して抱きしめた。

「兄ちゃん!私はいつまでも兄ちゃんの妹や!角刈りにされたリカちゃん人形も、ユニコーンの人形も、私の前髪のことも、恨んでるし腹立つけれど、私はこれから兄ちゃんと向き合うって勝手に決めてん。だから私と東京へ行こう!これは逃げじゃない。挑戦するねん。人はな、何回でも挑戦してもいいねんで。だから仏壇のおとんとおかんと一緒に東京へ行こう!」

自分でも何を言っているのかわからなかった。すると抵抗していた兄ちゃんから「ううっ。」と声が漏れた。私は身体を離すと兄ちゃんは泣いていた。大きな瞳からポロポロと涙が零れ落ちる。ゆっくりと蹲み込んだ兄ちゃんは泣きながら私を見つめて

「あほ小夜。」

と、だけ呟いた。その声は涙に潤んでイントネーションが可笑しかったけれど、私は

兄ちゃんが帰ってきた。

と、思った。ティッシュで涙を拭いた兄ちゃんは部屋から出て来ると、おかんのところへ行き辿々しい言葉で今までの感謝を口にした。そして

「おかん、小夜。オレは変わりたいねん。だから東京に行ってもええか?」

と、小さな声で呟いた。私たちは「うん。」と頷いて微笑んだ。それから私たちはこれからのことを話した。兄ちゃんの中では、これから切れた糸を繋ぐような細かな作業が必要だけれど、慌てることはないと思った。ゆっくりでいいから兄ちゃんは兄ちゃんの足でしっかり立てるように私たちは隣でサポートしようと思えた。

「小夜。なんでそこまで心配してくれるんや?」

と、兄ちゃんが呟いたから私は

「私の兄ちゃんやからやん。」

と、言うと、おかんも「うんうん。」と頷いて微笑んだ。そして私は昔、辞書で引いた家族という言葉を思い出す。


【家族】
同じ家に住み生活を共にする、配偶者および血縁の人々。


それには言葉が足りないような気がするから、私は心の中でそっと


【家族】
同じ家に住み生活を共にする、配偶者および血縁の人々。そして絆で繋がる人々。


と、付け加えた。

三人で話してひと段落がついたら、兄ちゃんは急に

「ありがとう。」

と、呟いて十年ぶりに微笑んだ。








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