見出し画像

わたしの兄です|小説 前編

「今のところ、あほに付ける薬はないなあ。」

白衣を着た白髪頭の白原先生は舌圧子を置きながらそう言った後に、「ハハッ!」と笑った。私は鉄の味が残る口の中で舌をタンタン鳴らして唾をギュッと飲み込んだ。

「ほんなら、私のあほは永遠に治らへんのですか?」

唾がないカラカラのまま話をしたから、どうも妙なイントネーションになってしまったけれど、白原先生は「ウホン!」と、咳払いのような笑い声のような音を喉から絞り出した。

「小夜ちゃんはあほと違うよ。自分のことをあほと言うものじゃあないよ。」

先生の瞼は体育館にある舞台の上の方に付いている幕みたいに垂れ下がっている。その間から少しだけ白い膜が張ったような眼は真っ直ぐに私を射抜いた。私は一瞬で筋肉質な迫力に負けて言い淀むと、白原先生はまた「ウホンッ!」と咳払いのような笑い声のような音が身体から出た。私はその音で緊張していた身体をふっと解き放つように猫背になり、椅子の背もたれへ体重を移動した。消毒液の匂いが鼻を通り過ぎると白原先生は

「他に質問はない?」

と、猫を撫でるような柔らかい声音で尋ねてくれるから、私も甘えるように

「今日のところはないかな。」

と、告げた。そうしたら白原先生は大きくて分厚くて皺の深い掌を挙げるから、私は猫背をやめて椅子からスッと立ち上がりその掌目掛けてタッチをした。「パン!」とまあるいものが弾ける音がして、私は瞼がぶら下がる白原先生の眼を見つめて「ふふっ!」と一緒に笑った。そして「またね。」と、手を振ると、奈良の大仏にそっくりな顔をした看護師さんが私の背中を押して出口へ連れて行ってくれた。ドアを出て待合室へ行くとおかんがベンチへ座って小説を読んでいた。私はおかんに話しかけずにその横へ腰をかけて壁一面を埋め尽くす色褪せたポスターを見た。いつもと変わらずにそこにいる予防接種のポスターや難しい漢字を使った専門用語満載のポスターまで画鋲で貼られているけれど、下の方は千切れて人が通るたびに風に揺れていた。私は熱があるはずなのに体力も気力も至って平常で、症状といえば、少し咳き込むくらいだ。

「浅田小夜さん。」

受付の人が私を呼ぶけれど、おかんは小説から眼を離そうとせずにそのまま活字の中へ埋没しそうな勢いだったから私はおかんのカーディガンをちょいちょいと引っ張り合図した。それはこちらの世界とあちらの世界を繋ぐ糸のような役割で、こちらの世界へ引っ張られて戻って来たおかんは

「ふえ。どうした?」

と、素っ頓狂に言うから

「受付の人が呼んでる。」

と、こっそりおかんへ伝えた。するとおかんは慌てて鞄の中へ小説を突っ込んで肩紐を手に持ち受付へ猪突猛進するから、スリッパの音が「パンッパンッ!」と勢いよく光沢のある床を叩いた。私はその背中を追うように小走りで付いて行き、受付の木の台へ両手をかけて背伸びをし中を覗くと、受付の人も奈良の大仏みたいな顔でこちらをジロリと睨むから私は背伸びをやめて後ろを振り返りテレビを観た。そこには四角い中にサルの人形が木登りして「ああ、しんどい。」と呟いていてそれを指差しながら観ている赤ちゃんが可愛かった。そうしたら支払いを終わったおかんが

「はよ帰るで。」

と、言うから私は赤ちゃんから視線を玄関へ移してスリッパを脱ぎ靴に履き替えた。おかんは黒いパンプスを履く途中に自動ドアのセンサーに触れたのか、勝手にウィーンと扉が開いたから私は先に外へ出た。するとおかんは慌てて閉まりそうな自動ドアをすり抜けて外へ飛び出たけれど、その時、上手にツーステップを踏んで着地した。それが歌舞伎役者みたいで笑ってしまいそうだったけれど、ここで笑ったら怒られそうだったからグッと堪えて下を向いた。おかんの黒いパンプスは年季が入っていて白原先生の掌のような深い皺が入っている。足が地面を踏み締める度に、その皺がギュッと濃くなる。おかんは地球と繋がっているみたいに確実に着地しながら歩き、私はその後ろをスキップしながら家へ帰った。

「あほの小夜が風邪ひいた!あほやのに風邪ひいた!」

家に帰ると居間でゲームをしていた兄ちゃんが私のことをまたあほと言う。「あほとちゃうわ!」と、言いたいところだけれど、私は先程の笑いを堪えるのと同じ要領で下を向いて怒りを抑えた。兄ちゃんに反論すれば叩かれそうやし、もっと酷いことを言ってくるに違いない。私は「ふん!」と鼻息で威嚇してダイニングの椅子へ腰掛けたら

「♪あほ!あほ!あほの小夜!あほ!あほ!あほの小夜!」

と、兄ちゃんはアホの坂田のテーマソングを替え歌して私をあほにする。「ほんまに意地悪いやっちゃなあ。」とため息が漏れてそれがコロコロと転がっていく。するとおかんが「たかし!静かにしなさい。」と、兄ちゃんを窘めて私の前に水の入ったグラスを置いた。

「小夜はお薬飲んだらベッドで横になりなさい。」

おかんはエプロンの紐を後ろで結びながらそう言って木で出来た妙に光沢のある、まあるい数珠の暖簾を潜ると同時にそれはジャラジャラと音が鳴り、おかんの姿をうやむやにする。私は急いで薬を飲み干し、おかんのいる台所へ行きグラスを流し台へ置いて二階へ上がったら、階下から薄らと「♪あほ!あほ!あほの小夜!」と、聴こえたから自分の部屋のドアを閉める時にドンッと大きな音を鳴らして威嚇した。私にはそんなことしかできない。自分の無力さがイタくてヒリヒリとする。

兄ちゃんは私が物心ついた頃から意地悪だった。サンタさんに貰ったロングヘアが艶やかなリカちゃん人形もその次の日には角刈りになっていたし、誕生日に貰ったユニコーンの人形の美しい紫色の立髪も角刈りになっていたし、私の前髪も短く切り揃えて角刈りにしようとしたし、何でも私からジグザグに刈り取り嫌な気持ちにさせる名人だと思う。私が「やめて!」と叫べばそれが兄ちゃんの中に燃える松明に油を注ぐのか、「へへっ!」と笑いながら余計に度を越して悪さをする人なのだ。それに耐えかねて私が泣こうものなら、

「あ!あほの小夜が泣いた!ハハッ!♪あほ!あほ!あほの小夜!」

と、替え歌を歌い始めるから最近私は泣かなくなった。泣けば兄ちゃんが喜ぶから私は何があっても泣かないと心に誓ったのだ。私は知らない間に布団をグッと握りしめていた。それは私の中に溜まった赤い怒りや黒い苦しみや青い悔しさがふるふると込み上げてくるもので、布団が千切れるくらいに握り潰した。そして

「私はあほとちゃう。」

と、呟くと熱い塊が目尻から零れ落ちてこめかみを濡らす。慌てて起き上がりティッシュで涙を拭いて鼻水を擤んだら咳が三つ出て額を触ると燃えるように熱くて少し悪寒もするから布団に身体を包み込んで眼を瞑ると次に眼を開けたら、いつの間に夕方になっていた。起きてすぐに咳が出たけれど、額の熱は少しマシになっていて、私は椅子の背にかけていたカーディガンを羽織って階段を下りた。そうしたらおかんが

「熱の具合はどう?今ご飯準備するからね。」

と、まあるい数珠の暖簾から顔だけ出して言い終わるとまた引っ込めた。それはゲームセンターにあるワニワニパニックみたいで可愛いかった。

居間に行くと兄ちゃんの姿はなくて金魚の水槽のサーキュレーターの音がジーっと鳴っている。私は金魚に餌を与えてからテレビを点けるてボーっと観ていたら、背後から

「あほ小夜。風邪がうつるから向こういけや。」

と、乱暴に言うから私は兄ちゃんをキッと睨んだ。すると兄ちゃんは私の頭をパチンと叩いた。私は不意に「イタッ!」と声が出てジンジンと痛む頭を摩りながら、

「おかん!兄ちゃんが頭叩いた!」

と、告げ口しながら台所へ向かうと、兄ちゃんは居間から

「このチクリ野郎!あほ小夜!」

と、また私に酷いことを言ってくるけれど、それを遮るようにおかんは

「たかし!いい加減にしなさい!」

と、怒ってくれた。友達の百合ちゃんちの兄ちゃんはめちゃくちゃ優しいのに、どうして私の兄ちゃんはこんなに性格が悪いのだろうかといつも思う。一層のこと消えてくれたらいいのにと思うことさえある。そうすればこんなに哀しい気持ちになることも無いのだと思いながら、私はおかんに抱きついた。

「小夜、もうすぐでご飯できるからね。」

おかんは私の頭を撫でてくれた。少し汗ばんだ掌は柔らかくて玉ねぎの匂いがした。私はフライパンの中を覗くとハンバーグだった。嬉しくて足をバタバタさせたら

「こら、そこで暴れたらあかんよ。」

と、おかんに窘められたから、そっとその匂いを吸い込んで出来上がるのを待った。そうしたら、玄関の方から「ただいまー。」と、おとんの声が聞こえたから私は慌てて「おかえりー!」とそちらへ向かった。おとんは私の頭を撫でてまた「ただいま。」と優しい声音で呟いた。おとんが

「病院どうやった?」

と、聞くから白原先生に質問したことを言うと、

「あはは!何でそんなこと訊くねん。小夜は賢いよ。」

と、笑った後に豪快に嗽をはじめた。おとんはガラガラガラと喉を鳴らして嗽をした後に手を洗ってダイニングテーブルへ向かうとハンバーグが湯気を纏って四つ並んでいた。おとんは椅子に腰掛けて兄ちゃんを呼んだら、すぐに返事をしてやってきた。兄ちゃんはおとんがいる前では絶対に意地悪なことを言わないのは、おとんが怖いからだ。一度こっぴどく叱られて、それ以来おとんの前では私に意地悪をしなくなった。兄ちゃんは大人しく行儀良く椅子へ座り、ジッとしている。おかんがやってきて椅子へ座ると、おとんが

「それじゃあ、いただきます。」

と、合掌して言うと、私たちもそれに倣っていただきますをした。

「命をいただいて自分は生きているんやから、きちんと感謝するんやで。」

と、おとんは教えてくれたから、私はいつも厳かな心でいただきますをしている。この時ばかりは兄ちゃんもふざけることなく合掌しながら頭を下げているから、私は脇を擽るような笑いが沸いてきたけれど、グッと唾を飲み込んで我慢した。おとんは仕事の話をおかんとしていて、ノウキがどうたらこうたら言うから、私は

「ノウキって漢字教えて。」

と、言うとおとんは目尻に皺を作って

「糸辺に内外の内に、期間の期や。また辞書で調べるんか?小夜はかしこやな。」

と、言うから私は「うん。」と返事をした。私の趣味は言葉の意味を辞書で調べることで、まだ学校で習っていない言葉も辞書で調べてそれを自由帳へ記入している。今日は「納期」を辞書で調べて自由帳へ記入しなければならない。私は丁寧にごちそうさまをした後に薬を飲んで、歯磨きを済ませて二階の部屋に戻り照明を点けて机の上に飾ってある辞書を開き意味を調べた。そして記入しながら覚えるように音読した。今までそうやっていろいろな言葉の意味を覚えてきた。自分の名前である【小】も【夜】も辞書で調べると言葉で説明してくれる。前に兄ちゃんの名前も調べたら


【崇】スウ ス・シュウ・たっとい・たっとぶ・あがめる 
1気高くたっとい。「崇高」 
2たっとぶ。あがめる。「崇敬・崇拝・崇仏・尊崇」


と兎に角、気高く崇められることが好きな言葉らしい。兄ちゃんにぴったりの言葉だとどこか腑に落ちて、そこへ赤鉛筆でマークしたことがある。そのことが良い勉強になっているのだろう、国語のテストはいつも100点を取っている。それは嬉しいことなのだけれど、兄ちゃんはいつも勉強もせずにゲームばかりしているくせに、国語も算数も社会も理科も体育も音楽もテストの点数は良くて凄く悔しい。けれど、図工が苦手みたいで兄ちゃんの書いた自画像は腕の関節が三箇所あるし、唇はタコみたいに尖っているし、何より髪型が角刈りになっている。「どんだけ、角刈りが好きやねん。」と言いたくなるくらいにその絵は壊滅的だ。本人もそのことに気が付いているらしくて、

「オレ様はピカソになる!」

と、どっかの海賊王を目指す少年が言うみたいな声を出した。ピカソが描いためちゃくちゃな抽象画を目指しているらしいけれど、ピカソは写実画も描けることを私は最近図書館で調べて知った。

「やっぱり兄ちゃんは気高くたっとい奴や。」

と、項垂れたことを憶えている。名前はその人自身を反映していて、水深の深いところで繋がっているのかもしれない。そして私は、自由帳をパラパラとめくると、あるところでページが止まった。


【家族】
同じ家に住み生活を共にする、配偶者および血縁の人々。


この小さい箱のような家の中には、体格がよく明るいおとんと、優しく少し太ったおかんと、ものすっっっごい意地悪な兄ちゃんと、私が家族として構成していると思うと、人肌くらいの温度の柔らかいものが胸の奥を這うように動く。この感情の名前を知らないから辞書も引けなくて、私は机からベッドへ移動してゆっくりと瞼を閉じた。




後編へ続く






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?