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振り返ったら消えてしまうくらいに|掌編小説


彼の指先へ染み付いている煙草の匂いを感じたいと、喧騒が映える横断歩道の手前で立ち止まりゆっくりと瞼を閉じた。私は彼の記憶を辿りたい筈なのに、昨日同僚に言われた「前髪を切ったね。」とか、「口紅変えたね。」とか、彼にしか気付かれたくなかったことを他の人にサラッと言われてしまったことが頭の中を浮遊する。今はそんなジェネリックな言葉なんか欲しくないのに。彼だったら、もっとビビッドな言葉をくれる筈だと再度彼の記憶を辿っていると、冬の冷たい風が私の身体やら顔やらに付いている器官を撫でて通り過ぎていくから苛立ち、小さな舌打ちをした。すると横断歩道は青信号になったようで機械的な鳩の声がビルの渓谷へ鳴り響く。私は瞼をゆっくりと開けて横断歩道を渡り、職場へと向かった。職場へ到着してから仕事を淡々と熟して、ときには同僚と噂話や上司の悪口を言ったり、くだらないモラルを操縦しながら普段をやり過ごしている。

夕方になると定時には帰宅できそうにないので、コンビニで軽食を購入した。そこで何となくペットボトルの文章が目に入る。「循環をよくする」とか、「脂肪を減らす」とか、その言葉の羅列に眩暈がして、それと同時にやり場のない悲憤が心の片隅に巣食う。

ウソつき。

私は誰にも聞こえないように、ガラスケースへ並ぶペットボトルに呟いた。そして、そこに映る私の目は虚で、やけに暗く染まっている。それからサンドイッチと「緑茶」とだけ書いてあるペットボトルを取り出して、レジで会計を済まようとした。虚な視線で前を見ると、店員さんの後ろに煙草のショーケースが置いてあった。私は、

「27番とライターをお願いします。」

と、私の頭以外の細胞がそう口にしていた。店員さんは的確に27番にあるハイライトを取り出した。彼の吸っていた煙草のレトロでモダンなデザインが好きだった。それもレジ袋へ入れて会社まで歩いた。

夕方には職場の窓ガラスからオレンジ色の西日が見えたけれどそれは味気なく、隣のビルの人工的な光の点がよりリアルに感じられた。大きなビルは昼夜関係なく熱を帯びていて、その中では沢山のひとが生きている。

彼もその中のひとりだった。

ふいに出てきた真実と一緒に私の心の一部分を、ぐにゃりと練りこんでしまいたい衝動に襲われる。両手で自分の腕を包みそれを誤魔化して、職場へ戻る途中で喫煙室へと立ち寄った。そこから出てきたひととすれ違う際に、彼の匂いを感じた。ひっそりと立ち竦んで、そのひとの背中を追ってしまうのは自分が弱いからだ。そのひとは彼には似てもいないのに、急に胸が苦しくなる。そのひとの左手には「循環を良くする」と、書かれたペットボトルが見えた。彼がいつも健康のためだと飲んでいた飲料水。

ウソつき。

ひとは脆くて弱くて
すぐに死ぬじゃん。

小さく呟く声は震えていた。そのままの勢いで喫煙所へ入り、吸ったこともない煙草の封を開けて一本取り出し、ライターでそれに着火した。そしてフィルターに唇を付けて一気に吸い込み、深呼吸をする様に煙をゆっくりと排出する。煙草の先から拡がる紫煙は、白糸のように細くなり換気扇に吸い込まれていった。私の熱くなった感情を掻き消してくれる換気扇はゴーゴーと音を立てながら稼働している。

あれから三年が経つのに、私は総てを精算することなく、記憶という足枷をして生きている。しかし時薬と聞くけれど、その効能は残酷で徐々に浸透していきながら私の記憶を奪っていく。あんなに鮮明に思い出された彼の表情も仕草も匂いも、今となれば微かで朧げになっていてちょっと触れようものならば飛散してなくなる。それはちょうど指先にまとわりつく煙草の匂いのように、振り返ったらふと消えてしまうくらいに。彼が私の細胞から消滅していくのを肌で感じながら、静かに瞼を閉じた。


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