見出し画像

〈シンガポール雑記帳〉その5

 前置きが長くなってしまった。
 自宅近くのシネコンで、では何を見たのかというと、『Home for Rent』(ちょっとタイ語が解せないので、英語表記にしておくことをご容赦ねがいたい。ちなみに、筆者が観た際も英語表記で劇場にはかけられていた)である。
 監督は、2011年に『Laddar Land』でもって、タイの商業映画の興行成績を塗り変えたという鳴り物入りのSophon Sakdaphisitだ。下手なものではないだろうと期待が胸を踊らせた。
 異国の慣れぬ景色に刺激されて舞い上がっていたこともあったのだろうが、期待は良い方向に見事に裏切れることとなった。早い話、けっこうガツンときたのだ。もう二月ほどになるというのに、いくつものショットやシーンがいまも頭のなかをかめぐっている。
 カッコをつけていうなら、いったいどのようにしてこんな作品が出来上がっただろうという心地よい気分から、前回記したような、東南アジアの歴史本を漁るにいたったというほどなのである。

 スクリーンに映し出されたお話それ自体は、ただのホラーといえばただのホラーだ。
 語られていくのは、(大事な細部を隠した上で)小出ししておくと、こんな話である。娘を失った父の想い、娘を守る母の愛、まだ人生の途上で亡くなってしまった娘を貫く悔しさが入り乱れて、絡み合い、もつれあい、人間の業の深さや情念の激しさを浮かびがらせる、そんな物語なのである。
 そんな物語世界のなかで、恨み辛みをもった霊魂(のようなもの)が死後も異界で生き延びて、無念の強さからかこちらの世界に舞い戻ってきて、あれやこれやの厄介ごと(まあ、人を死に至らしめるほどのものなので、深刻な厄介事なのだが)を引き起こす、といった筋立てである。

 これだけを聞くと、なるほどねえ、おきまりのタイのホラー映画ですねえ、と漏らしたくなる向きもあるかもしれない。

 それはそうかもしれないのだが、その語り口がえらく技巧に富んでいることはともかくも記しておかねばならない。目も耳も、こころもからだも、かき回されっぱなしだったのだ。
 オープニングから10分ほどしたあたりからだろうか、ほぼひっきりなしに、おっーと怖い、あちゃー怖い、これは怖いと、エンディングまでそれこそジェットーコースターみたく、「怖さ」効果を次々と打ち出す技が目白押しの2時間だったのである。

 まず、音が怖い。オフスクリーンから響いてくるのが、登場人物の声やドアや車の放つ音はもちろん、祈祷の朗詠から鳥の啼き声までさまざまで、それらがいちいちなにがしかの不穏さを帯びていて、ハラハラしっぱなしなのだ。
 カメラワークだって怖い。意味深げにスローなパンやもったいつけたティルトが随所で利かされていて、画面に滑り込んでくるものは何なのかとヤな予感を掻き立てている。これもたまらない。
 もちろん、画面も怖い。映し出されている光景(とカメラの位置)はじつに周到に設計されていて、こちらの視線を惹きつけっぱなしだ。屋内でいえば、タンスの開き扉、隣の部屋へのドアの開け閉め、窓にたなびくカーテンの揺れ、屋外でいえば、塀の向こう側、壁に穿たれた窓、建物の物陰、数え上げればきりがない。いま見ている画面のなかに、見えていない何かが異物として映り込んでくるのではないかと不吉さが満載なのである。
 東南アジアのホラー映画でしばしば見かけられる、眼球のひっくり返りもちゃんと登場してくるので、いやはやいやはやと唸ってしまう。

 だが、その魅力は、技の知識とその使いこなしといった点を指摘するだけで尽きるわけではない。
 作品の語りの構成もまた、異世界の魂といったレベルを越えて此岸の人間が抱える愛憎の激しさのうちに「怖さ」をみとめてしまうほどに、丹念に作り込まれているのである。
 ほんの少しだけネタバレになってしまうが(それだけでも嫌な人は以下は読まないように)、筆者は、語りの構成がもたらす激しい愛憎の表現といった角度だけをいうなら、これは『ゴーン・ガール』(デビッド・フィンチャー、2014年)をさらに一捻りさせているなあと思わず漏らしたくらいである。
 と同時に、歳をとってどんどん涙腺がゆるくなってきていることもあるが、上映が終了しても頰が濡れてもいた。
 思考と感情、ともども、不覚にも翻弄されてしまっていたのである。

 そうした語りは、ことのはじめから大団円に向かって出来事が順番に描き出されていくといったシンプルなストーリテリングでもって組み立てられているのではない。
 入りくみまくっているのだ。あちこちにフラッシュバックやフラッシュフォワードが織り込まれていて、物語を推しすすめる出来事の数々が放つ意味合いがどんどん変転せられていくのである。こうこうこういう展開だろうとタカをくくっていた筋立てが、隠れていた異なるコンテクストの群れが次から次からへと照らし出されていくので、観ている側はあややあややと解釈をすばやく更新していかざるをえなくなるのである。
 ひとつのシーンが複数のプロット展開とじつは交わっていたというストーリーテリング上の仕掛けがマクロにもミクロにも施されていて、観客の目と心を惹きつけてやまないといっておいてもいい。冒頭や中盤のショットやシーンが、後段あらわれる別のショットやシーンとつなげ直されたりずらされたりすることで、物語世界はその厚みと奥行きをいや増しに増していくのである。
 その上、だ。最後にはすべての伏線がキレイに回収されてしまう手さばきなので、観客は語りの巧みさを堪能できることとなっている。

 ざっくりいうと、以上のような仕上がりの作品である。
 これがタイのホラー映画のお決まり、ないし定番に沿ったものなのかどうかは、東南アジア映画に関してはまだまだアマチュアなのでわからない。で、ちょっと調べたり他の作品を観たりして、考えてみた。

 さしあたり、本棚に並んでいる四方田犬彦の『怪奇映画天国アジア』(白水社、2009年)を手にとってみた。
 四方田犬彦がこれまで書いてきた映画論には筆者も大きく影響を受けてきた。とりわけ『電影風雲』(白水社、1993年)はあの時点で日本人があそこまで論じきっていたというのは世界レベルではないかと感嘆もしたし、筆者が毎年台湾で集中講義をしていた5年ほどの間、『台湾の歓び』(岩波書店、2015年)は市街をうろつく際の格好の相棒だった。氏が、東南アジア映画について、それもホラーについて書いているというなら、避けるわけにはいかない。
 その著作は、タイ映画のホラーについて次のようなタイプを定番として論じている。
 すなわち、仏教の伝来による大規模な社会変動によって傍や地下に追いやられた土俗信仰が宿す想像力でもって語り出される霊魂の物語である。具体的にいえば、事物に宿る霊は「ピー」と名付けられているが、なかでも「ピー・タイ・ホン」は、分娩時に死亡した女性などの非業の死を遂げた者の霊だという。そして、男性に接近してはその内臓を食べてしまうと伝承されている。こうした話が発動する物語想像力がタイのホラー映画を理解する上では欠かせないのだと四方田は論じるのである。

 筆者が解するかぎりでは、こうした捉え方は、いわば、土地土地の精霊信仰に関わる想像力を人類学や宗教研究などを参考に深掘りして捉えた上で、それをテコにして、ホラー映画作品の物語世界の組み立てられ方をあきらかにするというものである。
 正直なところ、でも、こうした接近法は、今次とりあげた作品に対してどこまで有効なのかは、少し検討を要するのではないかと直観した。

 詳しくいえば、こういうことだ。
 もちろん、近年であっても、「ピー・タイ・ホン」物はまだまだ作られている。
 たとえば、『呪いのキス』(シッティシリ・モンコンシリ、2019年)などは、まさしく四方田がいう「ピー・タイ・ホン」の系譜に連なるものだといえるだろう。若い娘が運悪くたちのよくない霊にとり憑かれてしまい、挙句、愛しい相手でもある幼馴染までもを自らが知らぬ間に襲いその内臓を食べかねないというストーリーなのである。
 とはいえ、なのだ。この作品であってもじつのところ、主人公二人との間にロマンスが芽生えることになるきっかけは、都会と田舎の間での移動によるところが大きい。
 土地が宿す霊魂の登場そして拡散もまたじつのところ別の移動の行為が要因になっている。移動する集団が、一種の感染のような仕方で憑依を拡散させていくのである。
 そうして、主人公の女性に取り憑いた霊の悪行は、そんなロマンスを阻むものとしてこそ描き出されており、もっといえば、それに抗する二人の結びつきがだからこそ、ロマンティックな悲恋として浮かび上がるようになっているのである。
 都会と地方の間をひとびとが行き来することが、共同体とその土地が宿す無意識の想像力を軋ませるものとなっているとさえいえるかもしれない。ひとびとの移動、そして霊魂の移動こそが、物語を押しすすめるエンジンとなっているのである。

 『Home for Rent』に戻っていうと、後者の物語設定の軸がより前景化しているのではないかと強く思われる。
 端的にいえば、タイトルからも察せられるように、引越し、家の売却、賃貸といった経過が引き起こす人々の接触が、予期せぬ出来事をあとからあとから引き起こしていくことになっているのである。
 そもそも、『Laddar Land』もそういう設定の物語だ。
 あえて付け加えておくと、2017年以降ちょっとした映画ブームが巻き起こっているともいわれるインドネシアも同じ趣向のものが少なくないように思われる––日本でも話題になった『マルリナの明日』(モーリー・スリヤ、2017年)は、ホラーではないものの首なし死体が不意に画面に映り込む点もびっくりする作品で、お話は移動、移動、移動の連続である。

 重ねていえば、『Home for Rent』にあっては、絢爛たる技巧の数々は、香港、韓国、日本のホラー映画が生み出してきたものを上手に活用している感触が強い。いまや、映画の表現方法もまた、やすやすと国境を跨いで移動し、自らの可能性をどんどん花開かせているのである。
 ひとびとが、またモノが、移動するからこそ、複数のプロットが要請されるのであり、それらの交差やすれ違いや衝突がドラマを生んでいるのだ。これと共振するかのように、形態面でも、技巧やスタイルもあちこちから軽やかに移動せられ活用され、厚みのある絢爛なスクリーンによるストーリーテリングが実現されているのである。

 筆者は 『Home for Rent』をそんな具合に受けてとめてみたのである。
 そうであるので、がっつりいえば、筆者としては、国別ないし地域別の文化学、あるいは土地土地の共同体の想像力のメカニズムを記述しようとする文化人類学の発想では、タイ映画のホラーを捉えることが難しくなってきているとも思ったりする。
 いや、タイ映画のみならず、東南アジアが近年世に送り出している映画作品の数々を捉えることはできないのではないかとさえ思えてくる。

 タイ映画でいえば、韓国との合作になるが、『女神の継承』(バンジョン・ピサンタナクーン、2019年)は、共同体信仰を前面に打ち出してつくられたものだが、筆者にはあまりいただけなかった。
 文化人類学のエスノグラフィーのように古くからの儀礼や信仰の丁寧な再現がなされているところは、そうした分野に関心のある向きには面白いものなのかもしれないが、ホラー映画としては、単純にドギツイというかグロテスクな対象物がこれでもこれでもかと押し込められているだけのショットが多く、えげつなさは感じられても、怖いという感覚に襲われることはなかった。
 語られる物語のプロットの展開は単調で、ドキドキ感はあまり掻き立てられることはなかった。移動の時代に、定住型文化の信仰の恐ろしさという発想に頼りすぎているようにみえたからかもしれない。技巧は、合作の割には、素朴なものが大半だったように思える。面白いはずの映画を人類学者や地域研究専門家が解説するときの薄味感がぬぐえなかったといえばいいすぎだろうか。

 ところで、筆者が日々通う大学図書館では、受付オフィスでインド系の女性とイスラム衣装の人と中華系の女性がごく当たり前のようにそれぞれ机に向き合い一緒に仕事をしていて、入れ替わり立ち替わり、頼りなくウロウロする筆者を助けてくれている。
 そんな生活を送っていると、個別の共同体が宿す文化的特質(想像力)–−たとえ、それが宗教的想像力であってもだ––という切り口は、映画も含め土地土地で目撃することのできる文化現象に対する接近法としてカウントできるのだろうかと訝しくなってくる。
 マルチカルチュラリズムを国是とするシンガポールにいるのだからそういう感じ方になっているのではというのはもちろんある(よく知られているように、シンガポールの小学校では「人種、言語、宗教にかかわりなく、わたしたちは、市民である」というフレーズが朗唱される)。
 けれども、前回論じた、東南アジア全体を扱う文献の最近のものは、人類学的な共同体分析を軸にした視点というよりも、移動と交流の地域であることにこそ焦点を合わせている。社会のあり方そのものが、移動することが当たり前となってきているいう分析なのである。

 突っ込んでいっておくならば、もともと移動や動態がデファクト・スタンダードだったこの地域は、植民地支配の時期や、第二次大戦後に成立した国民国家創設の時期などは、文化社会学や文化人類学の着想でアプローチすることの有効性を一定程度許すようなところがあったのかもしれない。
 だが、アジアに関わる「地域研究」というシロモノが、戦後アメリカ合衆国で冷戦構造を背景としながらの外交政策を大学カリキュラムに反映するなかで登場したという推移は、すでにあちこちで指摘されているところなのだ。畢竟、冷戦の終焉とともに、社会や文化をスタティックな実在物とみなす地域研究は位置付けが問われ直され始め、地政学という力学的な観測が要求される分野が急速に勢いを増している。
 人類学自体、移動や動態性に注目するようになっている。ほかでもない東南アジア研究者として世界でも屈指の人類学者である(日本の人文学や社会学あたりでは、B・アンダーソンの『想像の共同体』の訳者としても知られる)白石隆氏の仕事をめぐって東南アジアの研究者たちが献じた文章を集めた本でも、焦点が合わされているキーワードは、「in motion」である。
 
 冷戦終焉後の「グローバリゼイション」がすすむ、いいかえれば、旧第三世界、旧第二世界に新たなる経済的植民地化のような露骨な侵食がすすむこんにちにあっては、わたしたちの思考自体、再フォーマット化されなくてはいけないのかもしれない。
 だとすれば、欧米と日本を比較する視座だけではなく、東南アジアあるいアジア全体にわたって視野を広げることは悪くないかもしれない。国境を越えるヒトとモノの流動についての向き合い方をアップデートすることができるきっかけをそこここに見い出すことができるかもしれないからだ。

 むろんのこと、国際政治学者ではないのだから偉そうな言い方はできない。けれども、映画ひとつ観るのでも、土地土地で生きるひとびとの想像力と思考が塗りこめられていることはまちがいなく、慎重を期すべきなのはまちがいないところだろう。
 生活者が住まう土地土地には、想像力が宿ってまいるし、また多彩な思考ももちろん作動している。外部から旅行者や観察者が眺めた「生活様式」だけでは、なにもわからないだろう。けっこうな構えが求められるはずなのだ。

 これでも謙虚にいってみたつもりだが、かったるくなってきた。えらそうなトーンであることを承知の上で、こうもいっておきたい。
 映画こそが、そうした状況を見えるものにしてくれる手練手管を鍛えてきた表現ジャンルかもしれない、のだ。
 目の前に見えている世界を、思考をもって改めて眺め直す作業こそが撮影だ。それに分析的感性をもってどう繋いでいくかと四苦八苦する作業が編集なのだ。さらには、それを見た観客の思考がフィードバックされ折り重なっていくことになる。記録などという営為とは厚みが数段異なるのだ。思惟、しかも言語だけでなく視覚と聴覚を幾重に作動させた思惟こそが、良質な映画作品となってこの世に現れるのである。

 東南アジアでは、抑圧されていた流動のエネルギーの蠢きが、改めて回帰してきているのだ。そんな景色をいったい他のどんな表現媒体が見える聴こえるものにしてくれるというのだろうか。
 じっさい、それくらいの構えがないと、『ミー・ポック・マン』(エリック・クー、1995年)以降のシンガポール映画に向き合うことができないのではないだろうか。

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?