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〈シンガポール雑記帳〉その4

 タイ映画の新作ホラーがかかっているというので出かけてみた。
 
 筆者が仮住まいしているのは、中心部から地下鉄で30~40分ほどの郊外の住宅地で、最寄りの駅といってもそこから徒歩でさらに20分ほど歩いたところだ。地下鉄が地上に出てから15分ほど走ったあたりといえば、日本でもありがちなので少し感じがわかるだろうか。
 郊外の住宅地とはいえ、戸建ての区画は多少なりとも見受けられるものの、基本はいわゆる10階前後から20階前後あるいはそれより高層の集合住宅が群れをなし聳え立っている。つまり、いうところのHDB(Housing Development Board 公的機関による集合住宅)が多く、その周辺に民間のコンドミニアムがそこかしかこに建っている、そんな景色である。
 HDBは、国民に雇用と住居をゆきたらせるという、シンガポール独立以来リー・クアン・ユーが国是として取り組んできた政策の賜物でもあり、こんにち90%の国民が住む場所を確保できているといわれる状況を生み出した。
 
 とまれ、最寄りの地下鉄駅には、日本でもみられるようなモダンで小ぎれいなショッピングモールが隣接している。スターバックスなどのカフェ、フードコートやスーパーマーケット、それに衣服から生活雑貨などの専門店が立ち並んでいる。
 すぐ横にはその一昔前のモールが、その横にはさらにひと昔前といった色合いのモールが立っているのだが、どこもたくさん人が入っているのでそれぞれの魅力や特色があるのだろう。
 これらの建物の後ろ側には、古い商店街風の、屋台が所狭しとひしめく通りがある。物価高が叫ばれるシンガポールではあるが、この辺りの店を覗けば、Tシャツ3枚10S$(滞在時時点の為替レートは1S$=100円くらい。なので、1000円ほど)、バナナ一房2S$(200円ほど)とかで売っているので、ごく普通の庶民の暮らしぶりがうかがえる。繰り返しておくが、郊外の住宅地であって、治安はまったく悪くない辺りである。小ぎれいなモールのスターバックスではカフェラテが7S$弱(700円ほど)なので目と鼻の距離でこの価格差はなんなんだろうと少しびっくりする。
 
 その商店街の奥には、いわゆる庶民の屋外食堂(フードコートのようなもの)であるホーカーズがあり、昼時ともなれば溢れんばかりの人だ。筆者の印象では、香港や台湾の同じような食堂に比べ、屋外と屋内にも(こういう建物では一階部分が)ホールのように拡がった格好になっている。
 ラクサ(辛口豆乳スープ麺)やチキンライス(出汁で炊いたご飯に蒸した鶏肉がのっている)、ビーフ麺(コロコロ牛肉が入った濃い目のヌードルスープ)などをワイワイしゃべりながら食している。安くて旨いローカルフードを楽しめるのもこういうところだ。なんでも5S$(500円ほど)から8S$(800円ほど)くらいである。
 
 その奥へさらに歩いていった先に、小ぶりなモールがあってその3階に目当てのシネコンがある。
 シネコンのシステムは概ね日本あるいはアメリカや欧州と同じなようだったので、あまり困ることはなかった。オンラインでも予約できるが、上映時間に間に合うか分からなかったので、その場でチケットを買った。

 映画のラインナップはというと、いついってもだいたい、中国語(北京語)の映画が2本、ハリウッドのメジャー映画が2本、タミル語の映画が1本、タイ映画が1本、日本のアニメが3本、といった組み合わせだった。
 なんらかの割り当てでもあるのだろうかわからないが、いわゆる多文化主義がお国柄なので、面目躍如といった印象をまずは受けた。
 
 ではあるのだが、なんだか、スーッとお腹に落ちない感触でもあった。
  多文化主義といっても、響きのいいフレーズがふわふわしているように聞こえてしまう。ガイドブックや旅番組でも、そんな風なフレーズが飛び交っているし、筆者も、短期の観光旅行で訪れた際には、道を行き交う人々、カフェやレストランに集う人々の、肌の色、話されている言葉、さらには衣服やメイクなども、じつに多彩で目を奪われるばかりで、マルチカルチュラリズムとはこういうものなのかと感心していたりもした。
 だが、滞在期間を伸ばせば伸ばすほど、多文化主義といっても、これはなかなか一筋縄でないかないぞと思いはじめた。筆者だけだろうかと思っていたら、けっこうあちこちでいろんな声も聞いたりした。
 
 たとえば、である。
 前回に触れた論文集『Asian Aesthetics』の編者は、東南アジアはヒンズー教、仏教、イスラム教が古くから普及していてそのなかから捉える必要があると述べているのだが、少し辛口でいえば、宗教から美的実践を捉えるという問題意識が強すぎるのではないか。シンガポールを歩いていると、宗教の場面と、生活の場の空気感となかなか違うようにも思えたからである。
 地下鉄やバスに乗っていると、英語や中国語の表記が随所に認められるが、駅の名前には相当数、マレー語が用いられている。近年はおしゃれ系やアート系の若者が集まる「チョンバル(Thong Bahru)」、前々回と前回にも触れた「ブギス(Bugis)」、さらには植物園があったりもする高級住宅地の「ブキテマ(Bukit Merah)」、オフィスも飲食店も多く日系関連のお店も多い「Tanjon Pagar」などなど。
 スターバックスのカフェラテよりも格段に安い、おおよそ3分の1くらいでコーヒーが飲めるToast BoxやYa Kun Kayaを筆者はよく使う。ナショナル・ライブラリーで本を読むのに疲れたら、近くにあるブギスのToast Boxで「Kopi」でリフレッシュするのが日課のようになっている。これもまたマレー語である。そもそも、コンデンスミルクがたっぷり入ったコーヒーは、シンガポールだけでなくインドネシアやマレーシアでも親しまれているものだ。あえていえば、こういうカフェにいる人は、どうみても、マレー人だけではないし、イスラム教の人ばかりではない。
 生活に密着するインフラではマレー語がけっこう多いのだ。マレー人は人口の14%に過ぎないので、ちょっとびっくりする。そもそも昔は、マレー人口はもっともっと多かったともいわれている。
 宗教だけではなかなか一筋縄では理解できない感触が強いのである。
 
 1963年にマレーシアと合併し直後、悲惨を極めた虐殺があちこちで生じたが、2年後のふたたび分離独立するといった帰結を迎える。中国人が少数派でマレー人が多数派のマレーシアと、マレー人が少数派で中国人が多数派の間では、期待された融和がすすまなかった、すすまないどころか最悪の結果となったのだ。
 この厳しい経験を忘れないために、人種的な争いが二度とおきないようにという願いを込めた祝日までもが定められている。それだけをみても、人種的多様性の実現は、美辞麗句のなかで出来上がったものとは到底いえないものだろう。
 
 と、オンラインでいろいろ調べてみたが、調べ方が下手なのか、通りいっぺんのことしか出てこないので、ナショナル・ライブラリーの東南アジア研究書のコーナーで調べてみた。小一ヶ月ほどかかったが、5つほどの研究書を飛ばし読みしてみた。少しずつ刊行時期が違うことがあるのか、時期によって捉え方が変化してきているようにもみえて、興味深いものだった。
 
 一冊目は、1989年に初版が出ているUCLA教授D.R.SarDesaiによる、ちょっと分厚い『Southeast Asia: Past & Present』(Westview, 1989)だ。こんにちにいたるまで何回も版を重ねているようで、たぶん、東南アジア地域研究の教科書的な定番なのだろう。
 自然環境上の特性を抑えた上で稲作を中心とした農業から生活や社会、文化が発生したという記述からはじまっている。そんななかで、大小さまざまな共同体が作られていったという具合だ。やがていくつかの王朝の盛衰があり、世界史上の近代の時期に入ると西洋列強による植民地化が大規模にすすむ。20世紀を迎え、さらには第二次大戦をくぐり抜け、その終焉ののち、独立国家が誕生し、多少の変動はあったものの現在のような東南アジアの地図となった。そういう推移が駆け足で辿られる。
 そうであるので、多文化といったものも、王朝以前の多彩な共同体、王朝の領土の拡大や縮小による混ざり合い、さらに、ポルトガル、オランダ、イギリス、アメリカ、日本などの国々が19世紀後半から20世紀前半にかけて植民地化していった経緯、といくつかのステージを経るなかでの帰結といった組み立ての記述となっている。
 筆者の興味を引いたのは、こうした歴史のスケッチを前提としつつも、20世紀はじめくらいから各国に勃興した国民意識について、その自立思想を尊重するという仕方で論じられている向きが濃厚であるところだ。
 背景としてはざっくりいえば二点が強調されていた。
 第一には、エリート階級の一部が欧米の教育をよくも悪くも受けるなかで、平等や人権を含めた近代思想を学んでいったことが強調されている。なので、ラッフルズ卿が牽引した大英帝国の植民地政策の方が、オランダによるドライな統治よりもずいぶん、西洋近代思想の良いところが取り入れられていたとみなしていたりする。
 第二には、日本による日露戦争の勝利および第二次世界大戦初期における日本軍による西洋列強の駆逐が、植民状況における決定論的な世界観(平たくいえば、世の中はこういうものなのだといった決定論的世界観といえばいいだろうか)を乗り越えていくきっかけになったという点が強調されていた。(慎重にいっておけば、日本の占領はその初期を過ぎたあと、西洋列強と同じ穴のムジナという受け止めになっていたことも記載されている。)
 そんなこんなで、東南アジア諸国には、独立と自由を尊んだ統治システムが次第に整っていったという流れが全体として見通されている論構成となっているふうなのである。
 乱暴を承知でいえば、刊行時期からいっても、おそらくは冷戦終焉の前段階で準備されたのだろう。 ASEAN連合も含め東側に対する対抗という国際関係戦略上の方向づけが抜けていないような、これからもなお注意していくべきといったような、そんな感触を筆者はもった。
 ざっくりになるが、冷戦期にあっては、北部の国々は東側諸国に近く南側の国々は西側寄りといった具合でもあったことは知られているところだ。であるので、終焉期が近づいていてもなお、南側(つまりASAN諸国を中心に)、自由と独立が評価されていくのはなるほどなというところではないかと感じたのである。その土壌ないし素地としての多文化であり多人種という理解のようにみえた。
 これは前提中の前提だが、「東南アジア」という名称自体、西洋列強の「東インド」(オランダ、イギリス)や「インドシナ」(フランス)といった呼称の流れのなかでこしられたものにすぎないわけだが、その辺りも含め包含する論述のように映った。
 
 翌1990年に出版されたものとなると早くもずいぶん印象が違った。
ロンドン大学SOAS校のジョナサン・リッグズが著者である『Southeast Asia: A Region in Transition』(Unwin Hyman, 1991)ではいささか違った方向での観察となっていたのである。
 自然環境の特性から生活文化の特徴といった基盤をおさえ論述を起こしているのはこの書物も同じだ。またその後の植民地化の過程が地域を区分けし、ひいては統治の単位を構成し、といった具合の経緯が確認され、そうした経緯を背負った上で各国の現代史が展開しているというのも先のものと似通っている。
 とはいえ、この著作の興味深い点は、この地域の国々が1970年代以降、経済成長をめざましく遂げていることを注視することが本の要になっているのである。
 やや穿ったいい方をすれば、出版が1990年なので冷戦終焉プロセスとほぼ重なっていて、統治体制の軸よりも経済発展の軸こそがより積極的に扱われているのだろうという印象をもったのである
 第二次対戦後の独立以降、国外からの輸入商品には高い関税をかけて国内産業を保護するという政策をとることで各国は成長した。なのだが、1970年あたり、シンガポールが先駆けて加工品の積極的な輸出政策に転換したことには一段と強い強調点が付されている。そこから、新興国(NIC)としてのポテンシャルの道筋が準備されていったのだという具合にだ。
 そのような論方向ではあるものの、人種的多様性については、経済活動の活力、もっといえば、多様性が実現されていることこそが、この地域における各国のアインデンティとなっているというような、なんだかよくわかんない説明となっていた。
 さらに興味深いのは、国家の機能の強調だ。
 共産主義とは明確に区分けされうるものとしての、国家のコントロールが利いた資本主義経済運営の有り様に強調点が敷かれていたからだ。端的にいえば、技術と賃金のきめこまやかな政策による国内労働市場の制御、またそれに準じた移民労働者の入念な調整に関わる管理が、1970年代以降のシンガポールの経済発展をもたらしたという論点が打ち出されていたのだ。つまり、経済をハードに目指す際には、こうした制御と管理においては宗教や人種がさしあたり制限の対象にされる必要はないという状況、を実現していたのである。
 
 シンガポール国内の一群の研究者––Rudolfo C. Serverino (東南アジア研究所)、Elspeth Thomson (シンガポール国立大学エネルギー研究所)、Mark Honk (東南アジア研究所)––による共編著『Southeast in a New era: Ten Countries, One Region in Asean)』(Institute of Southeast Asian Studies, Singapore, 2010)は、今世紀に入って既に10年を経過して時点での比較的新しい論文集では、上記のような、統治体制の展開と経済活動の整備といった二つの軸をうまく合体させ、その上で、今後の発展の可能性を探るとい論構えになっている。おそらくは、これが、いま現在、まず基本的な自己理解なのだろうと思われる。
 
 他方で、興味深いことだが、そうした基本的な自己理解には、同時に様々な課題もあるということを指摘されているようだ。
 たとえば、Sree Kumar とSharon Siddiqueによる『Southeast Asia: The Diversity Dillemma:How Intra-regional Contradictions and External Forces Are Shaping Southeast Asia Today』(Select Publishing, 2008)。
 この論文集のユニークなところは、移動や交流、いわば人種や文化の移動の回路こそが、東南アジアの特質を形作っているとしている点だろう。
 人種にせよ文化にせよではあるのだが、もっといえば、宗教の信仰についても、そうしたダイナミックな移動や交流のなか推移しているように捉えている。また、19世末から20世紀はじめから勃興した国民意識についても、そうした人々の移動と交流のなかで推移しているという点を強調している。
 そうであるので、宗教意識にすべてを還元するとか、国民意識にすべてを帰するとか、人種にほかのあらゆる事柄の原因を求めるとか、といった論立てにはなっていない。むしろ、宗教、人種、国民意識が絡みあい、もつれあいながら、東南アジアと呼ばれてきた地域の政治、経済、生活と文化は推移してきたという観察になっているのである。
 もっといえば、第二世界対戦後の国家体制においても、そうした三つの契機を巧みに操縦することで運営がなされてきたとされている。
 むろんのこと、北側がインドと中国という大国に挟まれているという地政学的な位置、歴史的には西洋列強が植民者として乗り込んできたという経験をはじめ、外圧(external forces)にどう対応するのかということが長い間取り組まれてきたという経験値からの「巧みに操縦する」という知恵が備わらざるをえなかったという分析である。(ちなみに、この著者では、日本は、占領の経緯やその残照もさることながら、現在でのそのポップカルチャーの人気ぶりにこの脈絡で焦点があわされ一章が費やされているのはなんとも興味深いところであった。)
 ときに、国民意識(少なからずの場合、市民なるものの法や行政上の制度的位置付け)に軸足を置くことで、宗教意識や人種的アイデンティの過剰なブレを制御するとか、ときに人種を一定程度前景に押し出すことで行政上の管理をすすめるといった具合にだ。
 
 2017年に刊行されかなり世界中で話題となった、ジャーナリストMichael Vatikiotisが書いた『Blood and Silk: Power and Conflict in Modern Southeast Asia』(Weidenfeld&Nicolson, 2018)は、まさにこうした宗教、人種、国民意識の絡み合いともつれあいの巧みな操縦が、近年、少なからず軋みはじめているのではないかと観測した著書である。第二版では、著者はそれみた事かと、近年(シンガポールは別として)東南アジアの少なからずに国のあちこちで起きている騒動や暴動について指摘している。
 
 東南アジアにおける多文化主義、多人種主義は、以上の5冊をみても、なかなかややこしいなというのが筆者の素朴な実感である。
 
 さて、日本人は、どういう顔をしてコーヒーを飲み、どういう姿勢で映画をみればよいのだろうと、頭でっかちの研究者は気圧されそうになってしまった。
 
 
 

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