〈映画研究ユーザーズガイド〉     第6回 カラー

第6回 ジョシュア・ユミビ『動くカラー−−初期映画、大衆文化、モダニズム』(Rutgers University Press, 2012)

 映画の「カラー」をめぐっての論議が、映画研究においてやたらと盛んだ。
 数例だけあげておこう。欧州認知派のワレン・バックランドの『Film Studies: An Introduction』(Teach Yourself, 2004)でもカラーは重要なトピックのひとつになっている(邦訳『フィルム・スタディーズ入門 映画を学ぶ楽しみ』、前田茂・要真理子訳、晃洋書房、2007年)は、その刊行の早さは評価されるべきであるが、訳者が紹介するところとはやや異なって、バックランドの論述は、その明晰さとは裏腹に、最新の映画研究の成果をふんだんに盛り込んだ、相当複雑なものとなっている)。
 まったく異なる哲学上の方向をもつ、すなわち現象学的な(G・ドゥルーズ寄りではあるが)映画研究の代表的な成果のひとつともいえる『映画という効果(The Cinema Effect)』(MIT Press, 2004)』をものしたショーン・キュービットの授業に10年ほど前に出席した機会があったが、彼がカラーについて熱っぽく語っていたこと、また大学院生たちが熱っぽく聴き入っていたことを鮮明に記憶している。

 少し前までは、まるで逆だった。映画は光だ、画面こそ見なければならないと煽る映画批評家や映画研究者が、光は色が伴っているはずなのだが、不思議なほどにそれを口にすることは少なかった。色を抜きにした光など、抽象物にすぎない。赤は登場人物の心情を表しているなどという素朴なものから、これこれの比喩だとか象徴だとか、せいぜいがそんな具合だったのだ。だが、21世紀のこんにちにあっては、色について語ることができているかどうかが、批評であれ研究であれ、最先端の成果を踏まえることができているかどうかの、ちょっとしたリトマス試験紙になっている感さえある。
 
 前回までのこの備忘録に沿っていうと、こうもいえるだろう。
 作家概念が次第に溶解するにつれて、身体経験が前面に出はじめるものの、かといって素朴に技術決定論に依るわけにもいかない、それは前回までに確認してきたことでもある。
 カラーを論じる際も同じだ。技術的な水準での実現性に寄りすぎると作家による関与の度合いを語るのはむずかしくなる。他方で、作家(なり制作者いっぱん)による色の演出を論じようとすると、映画史への色の登場に関する技術やその操作、あるいは技巧に関する話題を看過することになる。そんな具合だ。結果、単純な技術経験論も、素朴な作家論も、これまで、カラーの問題を避けてきたところがあるのかもしれない−−そのほかの理論群も概ね変わるところがないのではあるが。
 乱暴を承知で、あえてこうもいっておこう。ここしばらく、内外の大学において「メディア」というその定義がかなり曖昧な言葉があちこちで跋扈している。が、へたをすると、ただあれこれの機械文化を強引に羅列し、大ざっぱに学術っぽい雰囲気で語ろうとするものがほとんどだ。「情報」といういう注意しないとこれまた大雑把な言葉と一緒になっていたりするとよけいに論はただ自堕落に拡散したりする。メディア考古学などというフレーズもあるが、映画のカラーについて分析している論考などまずお目にかかったことがない。
 こんにちにあって、メディア研究やら情報文化研究やらを、個別分野である映画研究がその密度と精巧さにおいて突き抜け、カラーを論じるための分析ツールがかなり磨き上げられてきているようなのだ。

 ともあれ、あれやこれやの成果のなかで今回は、前回に言及した「動くイメージの諸技法(Techniques of the Moving Image)」叢書のうちの一冊をとりあげたい。大きく話題ともなった、ジョシュア・ユミビによる『動くカラー−−初期映画、大衆文化、モダニズム』(Rutgers University Press, 2012)である。
 あえていっておけば、初期映画におけるカラーの扱いをめぐるこの著作が、「ヴァナキュラー・モダニズム」に関わるミリアム・ハンセンによる仕事の決定的な影響のもとで書かれたことをユミビは隠していない。ガニングのアトラクション論も参考にしていると述べられてはいるものの、「けれども」という接続詞を用いた上で、ハンセンに依拠すると強調しているのである。(まあ、理論と歴史研究をダイナミックに連結させるここしばらくのシカゴ大学の環境のなせるわざかもしれない。)ハンセンの「sensory reflexive horizon」を鍵概念として引用し、さらには全編にわたって彼女の理論が陰に陽に活用されているのである。
 以下、この著作の立論を序章と第1章を中心に、再構成しておこう。
 
 序章はこうだ。
 第一に、カラー映画をめぐる事実関係について相当程度に抜本的な見直しがはかられている。単独というよりも、冒頭で触れたような近年の一群のカラー研究の成果も併せてという具合に解しておいた方がいいのだが、白黒映画からカラー映画という単線的な歴史観を根元から覆すような結論を導き出しているのだ。
 イタリアの収集家ダビッド・チュルコーニ(Davide Turconi)の断片フィルム(frame)のコレクションに所蔵されている数万に及ぶ主として初期映画資料や、また近年あちこちですすむ往時のフィルム素材メーカーや現像関連会社の記録資料などを精力的にリサーチした結果としてである。
 少しのぞいておくとこんな具合だ。往時の業界紙や新聞や雑誌を辿るとき、映画勃興期の1890年代から1920年代末あたりの映画の大半が、じつは程度の差はあれど、約8割がカラー映画であったという見込みが立つ。その数字に慎重に重ねて、確認した上記コレクションが蔵する23500に及ぶ数のフィルム断片を精査するなかで、ユミビはそれらの元本になっている作品群800本のうちの7割がカラー映画であったという数字を示すのである。むろんのこと、これらは、あくまで存在した文字資料や映画資料の一部ではないので確定的なことはいえないにせよ、相当程度、映画史はことの始めからカラー映画が溢れていたということはいえるだろう、そうユミビは結論づけている。
 白黒映画とカラー映画の区別は、したがって、歴史的推移を区別する分析概念ではありえないということだ。カラー映画は、その彩色工程が引き起こす劣化の度合いが激しく保存が困難であり、またその次第が十分に解き明かされないまま保存保守のアーカイビングがすすんだため、結果として、フィルム素材の劣化が少ない白黒映画がより多く残ることになったという事情があったため、歴史的見立てがぐらついたのではないかといわれている。
 逆に、サウンド技術の登場が、音を記録することができるようにするためにフィルム素材の組成が1920年代後半に大きく変化するにいたったこと、また、テクニカラーの登場の中でネガポジ転換などの作業効率化のためにフィルム素材の組成が変わったことも、それまでの彩色技術の継続を難しくした、そんな事情も残していく映画作品の選定に関係があったかもしれないという。100年経つかどうかに過ぎない過去についてであっても、下地となる諸条件が大きく変容すると、歴史理解はかくも変転することを示す好例であるかもしれない。
 この映画史理解の転換は、理論的にはなかなか大きな問題を生じせしめる。アンドレ・バザンが「完全映画をめぐる神話」で提示したのも、カラー映画の登場は、世界の完全なる再現という映画のリアリズムというミッションに沿うステージであるという見解だが、それがひっくり返ってしまうかもしれないのだ。
 
 次に、ユミビが事実として確認しているのは、初期映画におけるカラー技術は、主に「自然処理(natural process)」と「応用処理(applied process)」と括っておける二つのカテゴリーに分類できること、そして、後者はさらに4つに区分けされるというものである。
 「自然処理」とはいわゆる撮影時において自動的に処理されるものだ。レンズを通過する光をフィルターを通してなんらかの色を付け加えたり減じたりするという方法である。すでにフィルム製造会社が競っていたわけだが、「キネマカラー(Kinemacolor)」や「プリズマカラー(Prizmacolor)」といった技術だ−−先に触れたテクニカラーにはるかに先じている。
 「応用処理」は、すでに露光と現像が済んだ後のフィルム素材を人の手で加工するものである。そして、推測されるところでは、応用処理が自然処理をその分量において圧倒していたらしい。
 「応用処理」は概ね、「手彩色(hand coloring)」「素材着色(tinting)」「感光材料調色(toning)」「刷り込み(stenciling)」の4つの技術によっておこなわれていたという。それぞれ、詳細については原著に目を通していただくなり、また関連する文献などにあたっていただくとして、ごく簡単に次のように説明しておけるものだ(筆者の力の限界もあり、訳出が間違っているかもしれないことは断っておく)。

 「手彩色」は字面通り、現像されたフィルムに手作業で色を塗っていくというものである。
 「フィルム素材着色」は、逆に現像前の段階でフィルム素材を、特定の色合いの溶液に浸すことで着色し、その色付けされたフィルム素材でもって撮影をおこない、その上で現像をおこなう、という方法のものである。推察できるように、この場合、撮影の際に露光が強かった部分、たとえば、空などは強く当該の色があらわれ、逆に露光が弱かった部分は濃く黒い色合いになるといった特徴がある。強調しておくべきは、この段階で、工場での工程にのせることが一定程度可能になったということであり、スケールが一気に拡大しもしたということだ。
 「感光材調色」は、フィルム素材に付着させている感光材料(当時は銀塩)に色素を付着させることで、「着色」とは異なったトーンを実現させる方法だ。すなわち、露光による感光材料の化学反応によって色が出現するので、結果、「着色」とは異なって、露光の差による濃淡がより細やかに上映の際に浮かび上がるという特徴をもつことになる。
 最後に「刷り込み」であるが、これは、フィルム素材に付着した感光素材を部分的に削っていき、そこに色素を流し込むことで実現する彩色であるといっておくことができる。

 このような簡単な説明でも、これら「手彩色」「素材着色」「感光材調色」「刷り込み」のカラー技術にはそれぞれ、得意、不得意があったことは容易にみてとれるところだろう。また、ネガポジ変換作業、投影設備安定性、フィルム素材組成などなどから、取り扱うフィルム素材の製造、撮影、現像、編集、配給、興行に関わる多数の段階で、さまざまな利害関係者がいたのが実際であったようだ。つまるところ、そのような事情から、4つの技術には流行り廃れが多少あったことはあったようだが、概して1890年代から1920年代末まで、4つとも制作現場では活用しうる選択肢であったという。
 映画制作者は、映画を制作するにあたってどの技術を用いるかについて複数の選択肢があったわけで、自らがどのような映像を実現したいかによって、関係する上記のような部署は企業と調整しながら、選び取っていくという環境だったのである。やや比喩的にいうと、抽象的な色というよりも、色を実現する技術、さらにその加工や組み合わせの技法などが、制作者たちのパレットの上に並んでいたのである。

 そればかりではない。
 当時すでに、青色は均衡を表わすとか赤色は情熱を表わすだとかといった俗流心理学から、ルドルフ・アルンハイムやヒューゴ・ミュンスターグなどの洗練されたイメージ論にいたるまで活発な思考が世間で流通しており、コアなファンや映画通により、映画批評も過去や同時代の作品について多くの言葉が発されてもいた。そうした世間に出回る、映画制作者が耳にもすれば読みもする言説群があり、そのなかでも、「カラー」についての言葉はかなり目立つものであったようだ。
 そうした上でなされる技術の選択や配色の演出においては、必ずしも物語の展開の本当らしさ(verisimilitude)をめぐるものであれ世界の姿の記録性という意味合いであれ、リアリズムの美学が中心軸にあったというわけではなかったようだ。とはいえ、スペクタキュラーな華やかさこそを寿ぐというものばかりでもなかったというところがむずかしいところで、つまりは、映画が実現する色彩の新しい実現を目にし、観客は多彩な方向で驚き、感動し、耽溺していたようだとユミビは述べている。大づかみにいえば、人びとにとって、カラーはそれ自体が、映画体験におけるひとつの大きな関心になっていたようなのである。
 1935年、すなわち、テクニカラーが登場するのしないのといった段階までには、多くの観客はカラー映画の多彩な相貌にワクワクする、そうした「色彩意識」というものが出来し言語化されるほどになっていたのである(Natalie Kalmus "Color Consciousness"、1935)。
 制作者側からみれば、技術的諸条件、制作者の意図、さらには映画をめぐる言説が交差し、その選択肢の渦のなかで、個々の作品が向かう先が見定められ、かたちと色になっていったということだ。

 カラー映画をめぐる歴史はかくも複雑で、かくも興味深い。単純な技術決定論ではなかなか対処できないほどだ。いや、事態はさらに込み入っていたかもしれない。
 たとえば、D・ボードウェルら認知派がいうように、古典的な語りのシステムに資するよう、色彩が選択され設計され、スクリーン上に実現させられていたとは到底いえないほど、映画のカラーに観客は多面的に熱狂していたことを各種資料は伝えている。むしろ、近年の現象学的映画研究者、たとえばV・ソブチャックやL・マークスが着目しているような、映画経験における身体性の厚み、視覚のみに還元できない多感覚の次元に関わる身体性の厚みに関わる事態こそが、1920年代末の映画をめぐる現実のなかで出来していたのではないかとユミビは指摘している。もっといえば、かつてはW・ベンヤミンが、こんにちにあっては、T・イーグルトンが注視する、イメージの身体性の問題こそが、20世紀前半のカラーを見定めるのに必要だろうと論じているのである。

 いささか抽象的な言辞を弄しているように聞こえてしまったかもしれない。
 わかりやすい例としてユミビがあげているのは、ヒッチコックの『めまい』においてマデリンが最初に登場するレストランのシーンである。ヴェルヴェット色に飾られた壁を背景に、緑色のショールを羽織りテーブルについているマデリンの後ろ姿が映されるシーンである。ここで映し出されているのは、光学的な意味合いでの奥行きというよりも、過激なまでの平べったさであるが、と同時にスクリーン上で補色関係のなかの赤と緑の競演を伴っているだろう。スクリーンの像に対する、独特な体感上の距離感が実現しているのである。
 これはどういう具合に説明しうるのか。

 ユミビ自身は、これを「投影上の次元(projective dimensionality)」ないし「投影上の奥行き(projective depth)」という用語をあて、この著書での中心の問題系として前景化している。
 この問題系についてユミビは、主に第1章「近代における色の群れ(The Colors of Modernity)」でやや踏み込んで論じている。そのなかで彼は、時代ごとの思考様式の軸となった色をめぐる考えや思考の変遷を概括的に辿っている。

 第一に、映画という装置の登場には、色をめぐる様々な考え(着想や概念、ないし理論)が決定的に不可欠であったことが確認される。この議論は簡単で詳細は省くが、コマ送りのフィルムを投影することが運動のイメージを実現するというのは、いわゆる残像(after image)現象についての科学的また工学的な探求が関わっていたことはよく知られていることだ。そして、その前段階でフェナキストスコープやらゾーエトロープやら前映画装置が試みられもしていたというのが初期映画研究のいわば常識だ。すでに触れたように光などというものが抽象的に存在しているのではなく、色と形を伴って具体的に現象するのであることを思えば、色こそが残像現象を探求する際の要めのエレメントであったということができるのである。とはいえ、探求でも実践でも名を馳せたJ・プラトーのフェナキストスコープが鮮やかに彩色されていることに触れた技術経験論やメディア考古学研究がどれほどあっただろう。
 第二に、19世紀においては、人びとにとって立ち現れた色という現象は、主に三つに脈絡を視野に収めておくことが大切であるという論点をユミビはあげてもいる。すなわち、

  ・残像などを中心とした生理学研究
  ・工場生産による生活圏を彩る大衆文化の諸相
  ・カンディンスキーなどの色に関わるモダニズム芸術

 この三つの脈絡が絡み合い、入り乱れて、19世紀社会(西洋だが)に多彩な色を施していたとユミビは述べている。

 そうした絡み合いや入り乱れをさらに取り囲んでいたのは、色を操作しようとする探究心であり、色とは何かという問いかけであり、それらをめぐる影響力をもった思考であろう。これにかかわって、時代の思考様式はおおよそ三つの段階をもって変遷していたとユミビはいう。カントそしてゲーテ、そしてベンヤミンという流れだ。
 まず、カントであるが、積極的に色が論じられているのは1790年の『判断力批判』である。芸術学の領域ではよく知られているように、カントはそこで、美は形からこそ生まれると断じている。色などというものはcharmを与えるだけであり、言うなれば二次的な位置づけでしかなく、なんとなれば、形をめぐる理性から抑制さえされるべきものだという格好になっているだろう。
 (むろん、ここでのユミビのカント解釈はあまりにシンプルであるとクレームをつけることは可能だ。とはいえ、これはカント哲学研究の仕事ではない。本人も断っているように、J・クレーリーが『観察者の系譜』で描き出した視覚論的思考の歴史チャートにひとまずは乗っかっていることを付け加えておこう。とまれ、一応、筆者の手元にある文献(『カント全集8 判断力批判(上)』、岩波書店、1999年)の185頁あたりの論点ではないかと思われる。)
 興味深いのは、制作現場ではこうしたカント的考えは根強く残ったという。一例をあげれば、1928年当時すでに大監督であったセシル・B・デミルは、映画作品において色づけは控えめになされるべきであり、さもなければ、観客は物語の筋がわからなくなる、そうした弁をしたという記録が残っているようだ。
 カントの著作からちょうど20年ほどして、すなわち、1810年にはゲーテによる「色理論」が発表されている。切り詰めていえば、そこで主張されているのは、色の情動的力能についての積極的な評価である。外側の世界の色彩が光学的に目に届くという色理解は適切ではないというものだ。ゲーテは、カメラ・オブスキュラで実験をおこない、ひとは、赤色のあとに青色の残像を知覚し、青色の光のあとに赤色の残像を知覚するというデータを獲得している。すなわち、刺激を受けた際、人間はその知覚の仕組みにおいて、つまり自らのうちに補色を生成するという結論を導き出すのである。知覚という身体メカニズムにおいてこそ色は現象するという考えを打ち出すわけである。
 こうした色を始めとする感覚の刺激の受け止めを一種の外側からの侵入として受け止め身体がそれに反応を起こすという考え方は、ベンヤミンにも受け継がれているとユミビはいう。ベンヤミンは、フロイトが「快感原則の彼岸」において論じた「刺激保護(stimulus shield)」という論も組み込み、いわば刺激−反応というメカニズムを身体のうちに見出すのだ。色を含めた視覚経験において、前世紀末あたりから一部で盛んに言及されるベンヤミンの「触覚的視覚」とは、まさにこのメカニズムおいてこそ捉えられるべきであるということになる。色は、身体を襲うのである。
 こうした経緯の中で19世紀末から20世紀はじめにおいては、色の知覚の鍛錬にかかわって、子どもたちへさまざまな教育プログラムが試みられもしていたとユミビは論じている。

 先に触れた、『めまい』におけるヴェルヴェットとグリーンの織り合わせが生む、過剰な平べったさと、にもかかわらず、突き刺してくるけばだつ色の競演もまた、少し時代は下ることも勘案しつつ、こうしたベンヤミンの議論を脇においてこそ、その演出を適切に把握することができるのかもしれない。

 現代におけるカラーをめぐる研究の厚みと深みの一端を覗くことのできる出色の書物であるといっていいだろう。


Joshua Yumibe, Moving Color -Early Film, Mass Culture Modernismhttps://www.rutgersuniversitypress.org/moving-color/9780813552972


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