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梅の花がほころぶ頃

君ならで誰にか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る  友則

私は梅の花が嫌いです。
毎年、立春が過ぎて、儚げな甘い梅の香りがあたりに漂いはじめると、なんともいいようない暗澹とした気持ちになります。
あの春の到来を告げる微かな甘い梅の香が、忌まわしい記憶を呼び起こすからです。

これからお話するのは今から二十年前、私が小学四年生の頃の体験談です。最初にお断りしておきますと、誰もが納得するようなオチのある話ではありません。そんなつかみどころのない話にもかかわらず、あの体験の記憶は鍋の底のシミように、私の心の奥底の片隅に今もこびりついており、梅がほのかに薫る季節になると、いやが応にも私を陰鬱にさせるのです。

当時、京香ちゃんというとても可愛らしいクラスメートがいました。
パッチリと澄んだ瞳に、水晶のような透明感のある肌。京香ちゃんは、幼いながらも今まさに蕾を開こうとする桃の花のような華やかな雰囲気の女の子でした。
性格も明るく快活で誰隔てなく接するため、当然クラスでも男女ともに人気がありました。私は幼い頃から、自分の容姿に自信がなく、見た目の良い子の前では気後れしてしまい、うまく立ち回れないことが多々あったのですが、京香ちゃんに対してはほとんどそのような負い目を感じることもなく、ごく自然に接することができたのです。おそらく、京香ちゃんが明るい性格でありながら、けっしてでしゃばるようなタイプではなく、自身の外見を鼻にかけるようなところが全くなかったからだと思います。

というより、京香ちゃんは自分の容姿に対して多少の居心地の悪さを感じている節さえありました。周りから「京香ちゃんなら絶対芸能人になれるよー」などと囃し立てられると、「いやいや無理だってー」とケラケラと笑いながら否定していましたが、その弾けるような笑顔のなかに、どこか決まりの悪そうな暗い影が見え隠れしていたのでした。そのことは周囲にもある程度は知られており、実際、「本人からすると、いつもかわいいかわいいって言われるのも嫌なのかもね」と友達と噂していたことを覚えています。

年が明けて三学期のはじめのことでした。始業式を終えた次の日、恒例の席替えがありました。席替えの方法は覚えておりませんが、私は窓際の真中の席に決まりました。そして私の前の席はくだんの京香ちゃんでした。私は日頃からできることなら彼女ともっと仲良くなりたいと望んでいましたから、この席順は願ったりかなったりでした。そんな私の気持ちを察するように、京香ちゃんは「なんか、のりちゃんと近い席になるような気がしてたんだよねー」とか「これからいっぱいおしゃべりできるね」と嬉しそうに言ってくれました。実際は席が近くになっても、彼女とそれほどお喋りする機会が多くなったわけではありませんでした。というのも、人気者の彼女は休み時間になると、たくさんのクラスメートに囲まれていて私と彼女が二人だけで話をするようなシチュエーションはほとんどなかったからです。それでも今まで以上に学校生活は楽しいものになりました。
私は授業中に、窓からの光を受けて鏡のように輝く京香ちゃんの黒髪を背後からよく眺めていました。髪質が硬く縮毛の私は、彼女の絹糸のような黒髪に秘かに憧れていたのです。そんなとき、背後から気配を感じるのか、彼女が振り返り、私の視線とぶつかることがしばしばありました。私が気恥ずかしさから、はにかみながら微笑むと、彼女も合わせて白い歯をこぼしました。そして訳もなく二人で授業中にクスクス忍笑いをしては、先生によく注意されたものでした。このようなあるかなきかの些細なつながりであっても私を幸福にさせるには十分だったのです。

二月が過ぎて、ちょうど私の住む地方では梅のつぼみがほころび始めた頃でした。
その日、私はいつものように七時半過ぎに学校に着きました。私の両親は共働きであり、二人とも毎朝七時十五分頃に出かけるため、私と中学生の兄も一緒に家を出るのが日課だったのです。その時間に家を出ると、ちょうど校門の解錠時間である七時半前後に学校に到着するのでした。こんなに早い時間に登校している児童はほとんどいません。そんなわけで、私は毎朝一番ノリで教室に入るのを常としていました。私は早朝の誰もいない教室が嫌いではありませんでした。まだ誰の息にも汚されていない清らかな空気に満たされた教室。その静かで優雅な一人のわずかな時間を特に何をするわけでもなく、朝の新鮮な匂いかぎながら自分の席に座って過ごすことが好きだったのです。いつもそうするように、教室の引き戸を勢いよく開けた私はふと足を止めました。誰もいないはずの教室に少女がひとりぽつんと席に座っていたのです。一瞬私は誰かわからず戸惑いましたが、座っている席の位置からもそれが京香ちゃんであることは明らかでした。
「あれー京香ちゃん!」
私は後ろから思わず声をかけました。
「どうしたの?今日は早いねー」
私は棚にランドセルを置くのも忘れて、窓際の自分の席に、つまりは彼女の方へ飛んでいきました。思いもよらず教室に京香ちゃんがいたことで、若干テンションがあがっていたのだと思います。席に近づくと、彼女は机になにかノートようなものを広げていました。何だろうと背後から覗き込むと、それは学級日誌だとわかりました。
「学級日誌書いてるんだー、それって結構面倒くさいよねー」
そう言いながら、私は妙だなと思いました。
順番からいって、その日の日直当番は彼女だったのですが、学級日誌はこんな早朝に学校に来て書くものではないからです。
私は窓を背にして彼女の机の横に立ちました。パタン!と唐突に日誌は閉ざされました。それはまるで、見知らぬ人に部屋を覗かれ、反射的にカーテンを閉めるかのような拒絶に満ちていました。私はそのとき何かおかしいと気づきました。誰もいない教室で学級日誌を書いていること自体が妙ですが、それよりも、彼女自身がどこかいつもと違ってみえたのです。窓から射し込む朝日を浴びた彼女は、金色に髪を煌めかせていました。そして、眩い光の中で真珠貝のように真白に照り返る小さな顔をのぞかせていました。その姿は、ブロンドの髪の妖精ようにも、等身大のビスクドールのようにもみえました。言い換えれば、この世の生の秩序には属さぬ異形のものに思えたのです。
「きょ、京香ちゃん?」
私の声は慄えていました。はじめて、彼女はこちらを向きました。まるで何者かが人形の頭を無理に横に向かせたような不自然な動きでした。彼女は無言のまま私を見つめていました。いいえ、視線こそ私に向けていましたが、私を見てはいませんでした。彼女は、あたかも私を透かして窓の向こうの遥か彼方を見つめているようでした。それは、どことなく盲人の視線にも似ていました。キラキラと美しく輝く大きな瞳、白い陶器にはめ込まれたビー玉のような生気のない瞳。
まるで得体のしれないものを前にしたかのような恐怖に襲われて、口の中が急激に乾いていくのを感じました。
私は誰を、何を目の前にしているのだろう?
逃げ出したい衝動に駆られましたが、なぜか氷のように凝固して体が動きません。
不意に京香ちゃんは私に学級日誌を差し出しました。それは操り人形のようないかがわしい動きに見えました。
「はい、どうぞ」
彼女がはじめてそう口を聞きました。腹話術のような調子のはずれたその声に私は眩暈を覚えました。
私がどうしていいかわからず、躊躇していると、彼女は再びパクパクと口を動かしてこう言いました。
「終わったの。もう全部終わったの」
私はほとんど泣き出そうでした。
そこへ突然、教室の戸が乱暴に開きました。と同時に背の低い男子が入ってきました。彼は毎日私の次に登校している男子生徒でした。男子生徒はボロボロのランドセルを自分の席に投げ置くと、私たちに訝しげに一瞥をくれただけで、そのまま教室を出て行ってしまいました。
咄嗟に掠めるように彼女から日誌を受け取り、急いで自分の机の引き出しにしまうと、「お手洗い行ってくる」と言い捨てて、私は逃げるようにその場を後にしました。

その日、それから京香ちゃんと会話をしたかどうか覚えておりません。その日の彼女もいつもと少しも変わったところはありませんでした。つまり、クラスメートと談笑したり、手を挙げて先生に質問したりと、普段と少しも変わらない明るくて可愛らしい女の子に戻っていました。
釈然としないモヤモヤ感は残っていましたが、クラスメートたちと戯れ合う彼女を見て、今朝様子がおかしかったのは、慣れない早起きでただぼうっとしてただけなのかもしれないと思うようになりました。
にもかかわらず、私はなぜか気分がすぐれず憂鬱でした。朝起きたときは何ともなかったのですが、一時間目の授業が始まる頃から少しづつ気分が塞いできて、三時間目が終わった頃には、明らかに心身ともに不調をきたしていました。これといった理由は思いあたりませんでした。言うなれば、鵺のような不吉ななにかかが差し迫っているにもかかわらず、それが何なのかわからず、どうすることもできない焦燥感と不安に絶えず苛まれているような気分でした。それは小学四年生の私にはとても耐えられるような仕打ちではありませんでした。四時間目の図画工作の授業が始まる頃には私は立っているのもおぼつかないほど弱りきっていました。この日の図工の授業はみんなで屋上にあがって立山連峰を写生する予定になっていました。
クラスメートがぞろぞろとスケッチブックを持って教室を出ていくなか私の異変に気付いた誰かが先生に報告して、私は保健室に連れて行かれることになりました。先生に介抱されながら、保健室に向かう際に、階段を登っていく京香ちゃんを見かけました。彼女は一人でした。
私はなぜかとても悲しい気持ちになりました。私はどういうわけか、彼女が一人ぼっちの捨て子のように思えたのです。ライトピンクのブルゾンを着た京香ちゃんは私には気付かず屋上へと続く階段を登っていってしまいました。彼女の姿が見えなくなっても淋しげな足音だけが響いていました。

その後、私は結局早退することになりました。保健室でしばらく休んでいましたが、顔色がよくないということで、保健の先生の指示で帰宅することになったのです。私の両親は厳しく、余程のことでないかぎり、早退など許さない人達でしたので、多少のためらいもありましたが、先生の指示にしたがって大人しく帰ることにしました。今思えば、無理にでも早退を拒んで、もう少し保健室で休んでいれば、あんな恐ろしい場面に出くわすこともなかったのかもしれません。

私は下駄箱で靴を履き替えて校舎を出ました。校庭には誰もいませんでした。不思議なほど静かでした。私は裏門へと続く校舎に沿った通路を歩いていました。通路に沿って創立何十周年かを記念して植えられた梅の木が、白い可憐な花びらをふるわせていました。一際立派な臥竜梅の木の下に差しかかったとき、校庭の奥の学校林のあたりの人影に気づきました。それは、体操着を着た下級生とおぼしき男の子でした。男の子は屋上を指差していました。何だろうと男の子が指差す方を見上げましたが、水縹色の空がたかく澄み渡っているばかりでした。しばらくして視線を戻すと、既にそこには人影がありませんでした。私は校庭に視線を走らせて男の子の姿を探しました。が、どこに見当たりません。妙な気持ちになりつつも、気を取り直して歩き出そうとしたそのとき、突然、黒い影が視界を斜めに横切り、同時に大きな卵が落ちて割れたような乾いた音が響きました。
だしぬけに鴉かなにかが襲ってきたのかと思って、びっくりして転びそうなりました。しかし、私の目にしたものは、思いもよらないモノでした。私の足元にヒトガタのモノが右卍の記号のような形なして、うつ伏せで倒れていたのです。そしてライトピンクのブルゾンを着た体から黒みがかった薔薇色の液体が波紋のように地面に広がっていきました。頭のほうには、不揃いの生うにのようなものが飛び散っていました。
京香ちゃんは私を見つめていました。私の足元から血の池の底から見上げるように、今朝、私を見ていたのと同じビー玉のように透き通った瞳で。
不意に頭上からただならぬ気配を感じて、私は屋上を仰ぎ見ました。私はこのときの光景を今でも忘れることができません。屋上の手すりの間からいくつもの目が横並びに覗いていたのです。それは何人ものクラスメートが屋上からこちらを見下ろしている光景でした。クラスメートは一様に能面のような死んだ表情で、どこか動物園の見物客を思わせる好奇な目を手すりの間から光らせていました。全員無言でした。無関心な表情と好奇な目、そのどっちつかずの様相がいっそう私をぞっとさせました。私は事態をよく呑み込めない状況でありながら、京香ちゃんは彼らに屋上から突き落とされたのだと直観しました。にわかに芳しい梅の香りと錆びた鉄のような血の匂いが鋭く鼻腔をつきました。気がつくと、私は駆け出していました。背後から一斉にどっと吹き出したような笑い声が聞こえたような気がしました。私は振り返ることなく無我夢中で学校を飛び出しました。

それから、私はどのようにして家路についたかよく覚えておりません。とにかく、私はその日のことを家族にも打ち明けられず、ご飯も食べずに布団をかぶって震えていたように思います。十歳やそこらの子供が受け入れられるにはあまりにも残酷で惨い光景だったのです。

翌朝、いつもと変わらぬ朝食の風景がありました。家族も特に変わった様子もありませんでしたし、テレビのニュースでも昨日のことを報道している気配はありませんでした。
私は学校に行きたくなかったために体調不良を訴えましたが、熱がないことが明らかになると、休むことはかないませんでした。私の両親は滅多なことでは学校や習い事を休ませない教育方針だったのです。

結局、この日も私は誰よりも早く登校しました。どんな騒ぎになってるだろうとおそるおそる登校してみると、学校は拍子抜けするほどひっそりとしていました。私の後に続いて登校してきたクラスのみんなも何事もなかったように振舞っています。あまつさえ、先生達も全く問題にしている様子はありません。一見すると、代わり映えのない日常の風景がそこにありました、ただ一つ私の前の空席をのぞいて。

家庭の都合で京香ちゃんがしばらく学校をお休みすると先生から簡単な報告があったのは朝のHRでのことでした。その報告を聞いて私は言葉が出ませんでした。先生の話を聞くかぎり、さしあたり京香ちゃんは生きているわけですから本来であればホッとするところですが、私はむしろ困惑した気持ちになりました。人が屋上から落ちたのですから、たとえ生きてるいるにせよただですむはずがありません。けれども、先生の口から彼女の容体の説明や気遣いの言葉は一切ありませんでした。しかも、しばらく学校に来れない理由が家庭の事情とはどう理解したらいいかのかわかりません。幼い当時の私は学校ぐるみの隠蔽工作まで疑いましたが、それはどう考えても現実的ではありません。クラスメートの反応も当たり前のように受け流しており、特に平静を装っている風には見えませんでした。私は仲の良い友達数人に昨日の図画工作の時間、屋上で何があったのか、おっかなびっくり聞いてみましたが、みんな口を揃えて何もなかったと言っていました。彼女たちの口ぶりからも、とても嘘をついているようには見えませんでした。ただ、友達の一人からは次のような話を聞きました。写生に飽きた数人の男子生徒が、京香ちゃんをモデルにして絵を描きはじめたらしいのです。それはただのおふざけに過ぎませんでしたが、恥ずかしがる京香ちゃんを面白がって彼らを真似る人がどんどん現れ、いつのまにかそこにいるほぼ全員が京香ちゃんを描きはじめたそうです。私に話してくれたその友達は偶々少し離れたところで見ていたらしいのですが、なにかとても嫌な気持ちになったと言っていました。私はその話を聞いて、ある情景が頭をよぎりました。クラスメートに檻のように囲まれて、困ったように眉をハの字にして、底暗い淵に揺れる花弁のような微笑を浮かべている京香ちゃんの姿を。

いずれにしても、私が目にした痛ましい惨劇は現実に起きた出来事ではないようでした。

それから京香ちゃんは一度も学校に来ないまま春休みになり、学年があがりクラス替えがありました。私は京香ちゃんとは別のクラスになりましたが、五年生になってからも学校で京香ちゃんの姿を見ることはありませんでした。しばらくして京香ちゃんが転校したと聞かされました。私は急な転校を不審に思い、先生に転校先などを聞き出そうとしましたが、どうやら複雑な家庭の事情が絡んでいるらしく、うまくはぐらかされてしまいました。それでも京香ちゃんのことが心配でしたので、私なりに色々と調べてみたしたが、当時の小学生の情報収集能力などたかが知れており、結局大した情報を得られずに終わりました。それから私は中学受験に備えて進学塾に入らされ、心理的にも全く余裕がなくなり、京香ちゃんのことを考える時間も自ずと減っていきました。そして、そのまま六年生になり卒業を迎えました。

現在も京香ちゃんがどこで何をしているのか消息はつかめておりません。

これまで私はこの体験をごく少数をのぞいて、他人に話したりはしませんでしたが、私のこの話を聞いた誰もが、だいたい次のようなリアクションを示しました。「その京香ちゃんって子、今どこにいるかわからないだけで、どこかで生きてるんだよね?じゃあただの夢だよそれ」
実際、私自身も京香ちゃんが屋上から突き落とされる悪夢を見た時期と彼女の急な転校が偶然重なっただけのことだと思っています。
ただ、この現実的ともいえない出来事に、現在の私の夫は別の解釈を提示しました。ふとしたはずみで夫にこの話を話して聞かせた折、茶化すことなく黙って聞いていた彼はこう言いました。私が見たものは、邪念のようなものの具象化ではないか、と。つまり、クラスのみんなの心をほんの少しだけ巣食っていた反感や嫉妬や悪意などのネガティブな感情がたまたま総体になって、おぞましい幻影となって現れたのではないかというのです。京香ちゃんは誰かに恨まれるような子ではありませんでしたので、この考えに私は反論したのですが、夫が言うには、たとえ誰に対しても芥子粒ほどの否定的な感情はもっているのが普通であって、偶発的に複数人の僅かなわだかまりが一つなると、恐ろしい般若のごとき怨念となって現れることがある、と。そこに子供特有の無邪気な残酷性が相俟って、クラスの人気者を屋上から突き落とすという幻像を作り出したのではないか、ということでした。彼は感慨深げにこう言いました。
「心の闇は誰もが持っている。お前は何かに拍子に偶然にもクラスメートの心の負の部分が一つになるところを見てしまったんだよ」

しかしながら、私はこう思うのです。人知れず心のうちに毒蛇を飼っていたのは、クラスメートの誰でもなくこの私自身ではないか?クラスの隅にいるような地味な子が、クラスの華である同級生の少女を妬み、人知れず暗い情念を育んでいなかったと誰がいえるのか。屋上から無言で見下ろしていたクラスメートたちの、のっぺりとした底の知れぬ顔、爬虫類のような彼らの様相は、私の心の奥底を写した鏡でなかったのか?私は私自身の心の闇を覗き見て、恐れおののいたにすぎないのかも知れません。

しかし話がこれだけであれば、わざわざここで皆さんにこの体験談をお話しすることはありませんでした。この話には夫にも誰にも話していないある秘密があるのです。

京香ちゃんが屋上から転落する幻を見た翌日のことです。私は先生から学級日誌の所在を尋ねられ、あの朝京香ちゃんから不意に手渡されたときに、思わず自分の机の中にしまって、そのままにしていたことを思い出しました。私は日誌を机の中から取り出して開いてみました。
何となく京香ちゃんがあの朝たった一人で日誌に何を書いていたのか見てみたいという気になったのです。ところが、該当するページには日付と名前のほかは何も書いてありませんでした。私は日誌を閉じかけました。その時、ふとなにかが目を掠めた気がして、今一度日誌を開きました。


改めて学級日誌を開いてみると、薄い血の滴りのように梅の花弁がひとひら落ちていました。ほのかな梅の香がたち、不安にも似た軽い酩酊を覚えつつ、私は四時間目の図画工作の授業内容の箇所にとても小さい字で書かれた一行を発見しました。私は不吉な予感に打たれながら、その一行に目を凝らしました。それは何者かの手による字でそっけなくこう書かれていました。

「四時間目、京香ちゃんは殺されました」

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