死にたくなった日のその先で 山田太一の社会への抵抗と受容
山田太一が最後に手がけた連続ドラマは、自殺未遂をした男女の物語だった。本作『ありふれた奇跡』の主人公・加奈と翔太は、駅のホームから飛び降りようとした中年男を助けたこときっかけに出会い、交流していくなかで互いに恋愛感情が芽生えていく。
山田太一ドラマには自殺をしようとする人間が度々登場するのだが、それは彼が戦争経験者であったことも影響していたのだろう。あの頃よりも”平和”で”安全”な世の中でなぜ人は死を選んでしまうのか考え続けていた人だったように思う。本作の企画書には、山田の言葉で“年間自殺者が3万人を超えていることがどうもひっかかっている。それについて何か書けないかと思っている”と書かれてあったらしい。
死にたいという人にその理由を聞けば、ある程度のことは話してくれるかもしれない。しかしそれは大抵の場合そのすべてではないだろう。死が頭によぎるようになるまでには様々な事象が複雑に絡み合っていたりして簡潔に説明することは難しい。
自殺について15年以上研究してきたという心理学者・末木新による著書『「死にたい」と言われたら―自殺の心理学』では、その背景にはより複雑な物語がある可能性が高いが、しかしメディアでは読者や視聴者の受けを考えてわかりやすい話に編集していることもあるのだろうと指摘されている。自殺に対する理解についても非常に厳しいものがあり、自殺を予防しようとする動きがでたのは早い国でも1980年代からであって、それ以前は罪深いものとして自殺をした人間を罰する国もあったという。いまだにそうした意識はないとは言い切れず、自殺をするなんて異常だというような考えはまだ底流している。死にたいと思うことすら許されないように感じてしまう社会で、実際に自死することはきっとそうシンプルなことではないだろう。
山田はそのことに自覚的で、だから加奈と翔太が自殺しようとした理由も簡単にしか教えてくれない。過去についてはあまり描かれず、どちらかといえば現在に焦点が当てられる。私たちは彼らが話したこと以上のことはわからない。しかも物語は後半になるとさらに広がりを見せ、テーマは「自殺」から「家族」へと変わっていく。きっと彼らが死を選ぼうとした気持ちに共感できない人も多いだろう。わかるようでわからない、そうした曖昧さがこのドラマにはある。そのこと自体が自殺を紐解くことの難しさそのものを表している。
主演を演じた加瀬亮もまた、役作りに非常に苦労したという。文具店の営業として勤めていた翔太は、業績を上げられずに上司から詰められる日々に苦しみ首を吊ろうとするのだが、加瀬は「そのぐらいで自殺をするものなのか?」とどうしても感覚がわからなかったそうで、"いま思えば、僕の目線は翔太という青年の位置まで全然辿り着けていなかったのでしょう”と話している(『山田太一 ---テレビから聴こえたアフォリズム』より)。
過去にあれだけ複雑な役を演じてきた彼が?と思ったものの、考えてみれば私自身も死にたいという言葉に含まれた複雑さにあまり気づけていなかった。「もう死にたい」と言っていた人に対して「そういう人ほど死なないんですよ」と軽く受け流してしまったこともある。まさかその数年後に、私自身も同じことを呟くようになり、ベランダを見るたびここから飛び降りてしまえたらと考えるようになるなんて思ってもみなかった。決定的な出来事はなくとも、些細な自己否定と小さな孤独の積み重ねによって絶望がゆっくり迫ってくることもあるのだとようやく知った。
本作には死にたいと思ったことがある人間とそうでない人間の大きな隔たりが描かれる。自殺を図ったことのある者同士は互いに慎重に寄り添いながら時間をかけて相手を肯定していくのに対して、彼らの家族は子どもに干渉ぎみで社会の普通から外れてしまった人間に厳しい。自殺未遂した者に対し「自殺をするなんて普通じゃない」というようなことを言ったり、子供が産めない体と知った途端に結婚を反対したりする。まるで欠陥であるかのように扱う。しかし家族が向ける他者への厳しさというのは、子供の幸せを願う気持ちや家族を守りたいという思いから生まれてしまうものだから複雑で、そこからは偏見や差別がなくならない理由が少し見えてくるようでもある。
人生には悲しみがつきまとうことを誰もが承知している。そのせいか悲しみに耐えられず死を選ぼうとする人間をどこかで情けないと思ってしまう。しかしその根底には、抑圧された社会で頑張って生きている自分を肯定したいという欲望が少なからずあるのではないだろうか。
物語が進むにつれて、彼らの家族たちの隠し事も明らかになっていく。寂しさを埋めてくれる男と不倫をしていたり、女装が趣味で夜な夜な外を歩いていたり、義理の娘に嫌がらせをしていたり。みな平然を装いながらも後ろ暗いものを抱えている。しかしそれでも当たり前ができない人間を否定せずにはいられないのは、普通でいなければという緊張や過酷な状況にも耐えてきたという経験が生んでしまう冷たさなのかもしれない。
物語は周囲の変化によって大きく進展していく。子どもを産めない加奈を肯定する翔太に周囲の心が動かされ、双方の家族は2人の結婚を受け入れた。最後まで、加奈や翔太が前向きさを手に入れたり、社会で成功していく様子は描かれない。むしろ彼らを認めない人たちの変化の方が目立ち、そこには立場の弱い者を見捨ててしまう社会に対する山田太一なりの抵抗がある。
私たちは自分たちが社会でうまくやれないことを度々自己責任とされる。こうしないから、ああしないからダメなんだと、自分のことは自分でなんとかすることばかりを求められる。しかしそうしたプレッシャーを何事もなく耐えて一生を終えられる人はどれほどいるだろう。その反動はどこかで表れてしまうように思えてならないのだ。加奈や翔太の家族のように。
社会から切り離された者たちを否定することで得られる、少しばかりの安堵というのはあるだろう。しかしその後に返ってくるのはやはり、後ろ暗さへの自責の念や世間に追いつかなければという焦燥であるように思う。他者を否定するのでなく肯定することのほうが、よっぽど自分が抱えている弱さを受容できる。加奈や翔太を認めたことで、家族たちもまたそれぞれの苦しみから解放されていったようにみえた。私はそこにこそ今学ぶものがあると感じるのだ。
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