見出し画像

茶道の心

「侘び」「寂び」という言葉は誰もが耳にしたことがあると思います。それを定義付けることは大変難しいことでありますが、はっきり言えることは日本独自の美学性と哲学性があり、それを理解するのに茶の心が必要であるということです。
千利休は侘び茶の完成者であります。その利休が語った言葉で「利休七則」が今日まで伝わっております。


茶は服のよきように
炭は湯の沸くように
夏は涼しく冬は暖かに
花は野にあるように
刻限は早めに
降らずとも雨の用意
相客に心せよ

読めば簡単なことだと思われるかも知れません。しかし、この七ヶ条には深い心があるのです

茶は服のよきように
茶は薬として日本に到来しました。薬を飲むことを服するというように「服」とは茶を飲むことを意味します。ここでの服のよきようにとは、ただ茶の味がよいようにというと言う意味ではありません。有名な産地で摘まれ高価で美味しい茶であろうと一服いただく環境が悪ければ美味しくありません。亭主がもてなす心といただく客の心が通じ合うことで服がよくなると理解しなくてはいけません。

炭は湯の沸くように
炭に火がつけば湯がわきます。さらに、技術的に上手な炭のつぎ方をすれば必ず湯がわきます。しかし、必ずしもそうとは限りません。計算できないこともあるかも知れません。それを見極めることが必要であるということです。

夏は涼しく冬は暖かに
茶道では涼しさ、暖かさを道具の取りあわせで表現します。そして、夏には茶室の障子を簀戸に替え、簾を濡らして掛けることで涼しさ、冬には大きめな炭で暖を取るなど工夫が凝らし暖かさを出します。客をもてなす為には様々な工夫が必要であるということです。

花は野にあるように
花は野に生えている自然の雰囲気を損なわないようにそのまま入れよという教えだけではありません。自然から与えられた野に咲く花の美しさと命があります。花は茶道の中で自然から加工されずそのままの状態であり、命があり生きているのです。その真の意味を知ることができます。

刻限は早めに
決められた時間は必ず守らなければならない、計算外のことが起きるかも知れませんから、何事も早めに用意するということです。
時間がゆっくりあり、自分がゆったりした気持ちになりますと、相手の時間を大切にすることにもなります。時間があることで主と客が心を開いて向かいあうことができます。

降らずとも雨の用意
いつ雨が降ってもいいようにいつでも雨具の用意をしておくこと、これは雨にたとえただけで、何事においても慌てることなく臨機応変に適応すること、どんなときでも落ち着いて行動できる自然な心の準備が必要であるということです。

相客に心せよ
相客というのは、同席した客のことです。上座の正客も末客の詰も客同士が互いに尊重し合い楽しいひとときを過ごしなさいとの教えです。客同士が気を配り、自分勝手にならず、その心を楽しむということです。

利休七則は利休が残した手紙と側近の人々が残した資料と利休の伝書である『南方録』が結合して成立しています。
正確に残っている資料は『南方録』でして、以下のようにあります。

ある人が、炉と風炉、夏と冬の茶の心得、茶の極意を問いました。
利休は「夏はいかにも涼しいように、冬はいかにも暖くなるように、炭は湯の沸くように茶は服の良きように、これが秘伝のすべてです。」と答えました。
これに対して「それは誰もが解っていることです」と返します。
利休は「それならば、その心得が出来た茶を見せて下さい。客にまいり、あなたの弟子になります。」と答えました。
そこに笑嶺和尚がいまして「利休が言ったことはもっともである。『諸悪莫作 衆善奉行』と鳥窠和尚が答えられたことと同じである。」と言いました。

この「夏はいかにも涼しいように、冬はいかにも暖くなるように、炭は湯の沸くように茶は服の良きように、これが秘伝のすべてです。」に利休七則の一部が綴られているのが解ります。
このエピソードには、もう一つ利休の心が読み取れます。
そこに同席していた利休に抛筌斎を授けた大徳寺聚光院の開山である笑嶺宗訢和尚は、そのやり取りを鳥窠和尚と白楽天のやり取りと重ねています。
「諸悪莫作 衆善奉行(しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう)」の出典は「七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)」です。「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教(しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう じじょうごい ぜしょぶっきょう)」「悪いことはするな 良いことをせよ 自らの心を浄めること これが諸佛のみ教えである」という意味であります。
釈尊が自分をこの世における最初の仏ではなく古仏の跡を歩み、過去に釈尊を含め七仏の存在があると説いています。その七仏が過去七仏と云われる毘婆尸仏(びばしぶつ)・尸棄仏(しきぶつ)・毘舎浮仏(びしゃふぶつ)・拘留孫仏(くるそんぶつ)・拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)・迦葉仏(かしょうぶつ)・釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のことです。その七仏が共通して説いた教えが七仏通誡偈であります。
鳥窠和尚がそう答えたという場面は以下のようにあります。
唐代の禅僧・鳥窠和尚に白楽天が「仏教の真髄とは何か」と問いました。
鳥窠和尚は「諸悪莫作 衆善奉行」と答えました。
白楽天は「それは三歳の童子でも知っていることです」と返します。
鳥窠和尚は「三才の童子でも知っているが、八十才の老人でも、それを行なうことは難しい」と答えました。
たしかに南方録にある利休のやり取りと同じであります。ここで大切なことは問答の仕方でなく意味合いが同じということです。「茶の極意」が利休七則であり、「仏教の真髄」が七仏通誡偈でありです。七仏通誡偈がすべての仏陀の教えに貫かれている根本精神であるということは、利休七則はすべての茶道の教えに貫かれている根本精神であるといえます。
このことをふまえて利休七則を読み返し、茶禅同一味を満喫することで茶の心を知ることが出来るのです。

この記事が参加している募集

#とは

57,861件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?