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自分 vs さかあがり

小学四年生の時のある体育の授業。

その日は「てつぼう検定」であった。一人一人に担任から渡された「てつぼう検定カード」なる、10歳児にとっては、渋沢栄一と10000の数字が記された紙よりも、どこかの有名人のサインよりも重要な書類に対してハンコをもらうために各々が技を披露するのである。
当時クラスには一本の境界線があった。「さかあがりが出来るもの」と「さかあがりが出来ないもの」である。小学生は残酷だ。彼らはさかあがりに魅了されていて、鉄棒は一種のステータスとなっていたのだ。

出席番号順に名前が呼ばれていく。クラス一の男前のこうすけくんは華麗な「両ひざ掛け倒立下り」を、運動神経抜群のかのんちゃんは「後方片ひざ掛け回転」をそつなくこなしていく。

そして自分の名が呼ばれた。挑戦するのはさかあがり。果敢に足を振り上げ、跳ぶ。跳ぶ。跳ぶ。跳ぶ。が、その足は鉄棒にはあと一歩届かないのだ。
無念のまま授業を終え、いつか必ず坂を上がってみせるとの執念が芽生えた。

そして2021年3月。自分は小さな公園の、おそらくまだ悪夢のnの字も知らないようないたいけな少年のための鉄棒の前に立っていた。

平日のド昼間に立ち尽くす約170㎝の半袖男。不審以外の何物でもなくてザベストオブ不審賞を3年連続で受賞した。

園児たちを散歩させている保母の視線が、自転車で通り過ぎる中年女性の視線が、友人たちと遊びに来たであろう小学生の視線が痛い。
でも、やらなくてはいけない。さかあがりも成し遂げられない人間には何も成し遂げられない。

心頭を滅却し、棒を掴み、勢いよく肢を振りぬく。正直フォームだけで言ったらメッシもネイマールも松風天馬も超えていたと思う。
しかし、その肢は小学生時代と変わらず鉄棒に届かない。自分の成長のなさに憤慨しつつもひたすら肢を振りぬく。しかし結果は変わらない。

「5分でできる逆上がり」も「内村航平@逆上がり」も見た。「誰でもできる!」「運動音痴ご用達」そんな謳い文句がのったWEBページからコツを学び、魔が差して「鉄棒 えっち」で検索もした。それでも届かないのだ。

2時間の熱い戦い fight fought foughtの中で成功したのはたったの3回。たった3回、その結果を重く受け止め、自分の無力さを嘆き、天を仰いだ。そんな時、一つの言葉が浮かんだ。

『子曰、知之者不如好之者、好之者不如楽之者』(子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず) 「論語」雍也篇より

私はさかあがりのことを好きになれていなかったのではないか?いくら達成したい気持ちが強くても、そのこと自体を好きにならなければ達成できない。思えば私のさかあがりは誰かの受け売りであり、そこに己はなかった。

さかあがりとは哲学である。己と対話し、己を律し、己を制したもののみがたどり着ける真の境地。それが逆上がりだ。
今すぐにコロコロコミックで「ミスターさかあがり」を、少年ジャンプで「Forward upward circling」を連載してほしい。

アツいバトルの中で得たのは「努力と筋力が必要」だということ。世界は筋力と美しさを中心に回っている。ザッカーバーグもジェフベゾスも筋力ゴリゴリで殴るかビジビジの実の美人人間に近寄られば死ぬのだ。


さかあがりは自分に全てを教えてくれた。今度はこちらがさかあがりと向き合う番だ。

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