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煌めき

かくれんぼが嫌いだった。

もういいかい、と一応は聞きながらも、体はすでに走り出す体勢をとる鬼役のあの目。今にも仕留めてやろうと思わずニヤついてしまいながらも、その笑いを抑えようと怒ったような顔をしている鬼役のあの目。

はち、なな、ろく、ご

1から10に向かって数えるときは平常心でいられるのに、むしろ何かが起こるような気がして胸が膨らむのに、10から1に向かって数えるときは心臓が持たなくなりそうになる。ゴドゴトゴド、と脈打つ音が耳の内側から聞こえてくる。狐に追われる兎の子どもも、こんなふうに冷や汗を流して駆けるのだろうか。兎のようにバネのある後脚は持っていないから、私はどたばたと無様に走る、走るような動作をする。のろまと笑う声がする。しない。しないけれど、する。


「請求書のここ、多分なんですけど、間違ってるかもしれません。私の勘違いだったら申し訳ないんですが…」

大きなため息をついて、クソばか上司は私の手から書類を半ば奪い取るように取り上げる。
痛。なんの音も立てずに、人差し指に薄い線が入り、小さな血が浮かんでくる。慌ててスーツで指を押さえる。上司の向かいに座るお局は、ネイルの塗り直しなんてしてる。二人ともクソばかだ。

「間違ってるって思ったんなら直しておいてくれるかな?」

圧力と丁寧さをちょうどいい塩梅で調和させた言い方。パワハラだと叫ばれたら、そんなつもりはないと言い逃れるような。もう少しだけ言い方どうにかできませんか?なんて言われたら、気のせいだよ、と返せるような。

今日も朝からついてない。

今日“は”と言えたらどれだけいいか。それでも私は、今日“も”なのだ。どうしたって、今日“も”ついてない。ついてない、と言うことで、自分をなんとか保っている。今日もついてないけれど、明日はついてるかもしれない。それにこれは単についてないだけで、本当の私はこんなんじゃない。

上司とお局が何やら目配せし合って、くすぐったそうに笑っているのが見えた。

気が滅入りそうになって、外へ出てコンビニでカフェラテを買う。間違えてアイスコーヒーを入れてしまい、思わずあーあと声が出る。

あーあ。

あーあっていうときって、後悔してるのかなあ。ううん、諦めてるの。


走りながらふと、校庭の右端で小さな竜巻が起こっているのが見えた。こっちに隠れた方がいいよ、と竜巻が言っているような気がするが、構わず前に進む。

どたばたと足を動かし、プールの入り口近くにある階段の下に隠れた。階段って、後ろから見ると逆さまの階段になってるんだ。

息を整えていると、もういいかい、とまた声がする。しかしその声に答える必要はない。

もういいよ!もういいよ!もういいよ!

あちらこちらから、自信に溢れた声がするからだ。どうせすぐに見つかってしまうのだから、自信がない奴は黙っている方がいい、と私は思う。授業参観に来た母に、「分からなくとも、『はーい!』って元気に答えなさいよ」と言われたときも、全然共感できなかった。そういう学校行事の際に母が使う、ふやけた匂いの香水も嫌だった。私と関西旅行に行ったときの、あのツンと鼻を刺す濃い香水の方が好きだった。

途端、静まりかえる校庭。さっきまでとそんなに変わらないはずなのに、皆が息を潜めているからか、鬼の足音さえも聞こえない。


残業を終わらせて駅へと向かう。

「これやっといてくれる?」って言われたとき、「今はちょっと無理ですね」って言えないの、なんでだろう。

「今週末もまた集まろ!」って同期に誘われて、なんで断れないんだろう。遊んでも全然楽しくないのに、どうせまた誰かの恋愛話を聞かされて、お酒を飲んで終わりなだけなのに。

今日お昼ごはんを買いにコンビニに行って、30分も使っちゃったのなんでだろう。食べたいものがなかなか見つからなくてぐるぐる店内を回った結果、なぜか家系ラーメンを買ってしまった。ニンニクドッサリのやつだ。案の定食べきれなくて、流しに捨てた。排水溝に引っかかったもやしが死んだミミズのように見えた。そんなふうになるなら、初めから買わなければいいのに。

改札で顔を上げると、駅の広告が朝と変わっていることに気づく。
私がクソばか上司に嫌味を言われている時に、誰かがこの広告を変えたんだ。
シワひとつなく、綺麗に貼られた広告。新商品の口紅を持って、何が面白いのか無駄に笑う女優の白い歯が気になった。


遠くで小さな悲鳴がして、誰かが鬼に見つかったことが分かる。すると悲鳴と反対方向の遊具付近で、何人かがちらほらと移動し始めているのが見えた。そうなのだ。このようにかくれんぼで大切なのは、鬼の移動に合わせて逃げる方も隠れる場所をうまく変えていくこと。じっと同じ場所に隠れ続けるのも悪くはないが、鬼が近くに来てしまえば「見つかりませんように」と祈ることしかできなくなる。

なのに私は、誰がどこに移動したのかを目で追いながら、じっとこの階段の下に隠れたままでいる。腰を上げる意志さえもなく、ずっと同じ場所に残り、目だけを動かして。まばたきもせずに全力で走っていく彼らを見て、木を見て、プールの塩素の匂いがして、空を見る。いつの間にか辺りは少し暗くなってきていて、遠くの空だけが茜色と黄色と朱色と紫色と、乳白色も少し混じって渦を巻いている。夕焼けだ。夕焼けだ。夕焼けが綺麗だ。鳥が飛んでいる。


電車に乗り込むと、後ろから走ってきた人たちに一気に抜かされて、あっという間に座席は埋まってしまった。

大学生の頃を思い出す。哲学の講義は前の席がガラガラで座り放題だったのに、若い人気の外部講師が来る経営の講義では、集団でやって来た学生に追いやられて後ろの席に座ったっけ。

ぼーっとしていたら、携帯の画面を覗き込んでると勘違いされて、左に立つサラリーマンに睨まれた。
違いますよ、なんていう必要はない。もしかしたら私は自分でも気づかないうちに、本当に覗き込んでいたかもしれないのだから。自信がない奴は、黙っているのが一番。それが最も安全だから。


ジャリ、と音がして、「みっけ」と声がする。足音なんてしなかったはずなのに。相手は覗き込んで私の顔を見た後、なんだお前か、みたいな顔をしてすぐに違う方向に走っていく。幼い私は、その表情の意味を考える余裕なんてなかった。急に見つかったことへの驚きと衝撃。そして綺麗な夕焼けを見たことへの興奮。もう一度顔を上げると、もう空は灰色になっていた。

鬼に見つかった者たちは、ジャングルジムに集い、鬼が全員見つけるまで時間を潰す。あんなにも緊張の糸が張り詰めていたように見えた校庭の片隅で、ゲラゲラと笑いながら、最近やってるゲームやクラスの子の噂話をする。あの夕焼け、めっちゃ綺麗だったなあ。誰か見た人いるのかなあ。ねえ、さっきの夕焼けみた?なんて聞く勇気はない。自信がない者は、こういう時だって黙っていた方がいい。自信がないからこそ、黙っているべきだ。そうじゃなきゃ、痛い目を見るのは自分だ。じゃあ自信があったら?何かこれだけは負けないというものができたときは?そんなの分からない。そのとき私は、ペラペラ喋ったりするのかな。話すのが、少しは上手になるのかな。夕焼けを収めておく方法を持ち合わせていないから、頭の中で何度もあの光景を反芻する。ジャングルジムの下から2番目に腰掛けて、自分が隠れていたプールの方向を見ながら、反芻する。大人になっても、覚えていられるかなあ。もし覚えていたら、このかくれんぼ私の一人勝ちだ、と思う。一人勝ちだ。よし、と言ってジャングルジムを降りる。


どこかで赤ん坊が泣いている声がする。苛ついたように、おじさんが咳払いをする。電車が急に揺れて、後ろの人に少しぶつかってしまった。すみません、と謝ると、いいえ、と返ってきた。顔を上げたその人は、なんだお前か、みたいな顔をしてすぐに向き直す。そうですか、いいですよ、慣れました。睨まれたり、ぶつかったり。嫌なら場所を変えればいいだけの話だが、どうしてもそれができない。一度電車に乗り込んだら、ずっと同じ位置にいることしかできないのだ。きっと私は、乗客が私一人になったとしても、同じ位置に居残り続ける。

急に視界が開けて、窓の向こうに夕焼けが見えた。茜色と黄色と朱色と紫色と、乳白色も少し混じって渦を巻いている。夕焼けだ。夕焼けだ。夕焼けが綺麗だ。鳥が飛んでいる。
小学生の頃、かくれんぼをしているときに見た夕焼けのことも、私はずっと覚えている。誰も見ていなかったけど、あれは本当に綺麗な夕焼けだった。みんなはおしゃべりをしていて、つまんなくて、自分一人口を閉じたまま見たあの夕焼け。ちゃんと覚えてるよ。周りを見ると、皆携帯の画面に食いついていて、誰も窓の外を見ていない。私の一人勝ちだ。

カバンの奥底からカメラを取り出し、窓の外に向けてシャッターを切る。

何人かが迷惑そうにこちらを見ているのが分かったけど、何も言わない。

自信があっても、黙っていられる。

黙って私は、この煌めきを独り占めするのだ。


<了>


この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』9月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「のこる」。読後にもじんわり感動がのこるような小説が集まっています。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。


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