サモトラニケのニケ
サモトラケのニケのことを、26歳までサモトラニケのニケだと思っていた。サモ、トラ、ニケのうちのニケを指すのだと。それは猫の名前のようである。もし猫のことを指していたら、ニケは白毛の子のような気がする。生まれた時から弱虫で、根性無しなニケは、おっぱいを探して這いつくばるも届かない、ということさえなく、本当の弱虫なので、そもそもおっぱいを探さない。おっぱい自身は探してくれとは言わないが、それでも探されるのがおっぱいである。それで、ああんもう、とため息をつきながら横たわるのがおっぱいの美しさなのである。にもかかわらず、ニケはおっぱいを探そうとしなかった。つまりそれは生を手放すこととも等しく、衰弱したニケは弱虫で根性無しを表したような身体つきをしていた。妙に節々だけ大きく、それがいっそう腕や足の細さを際立てた。腹部だけ丸く、尻尾は縮れていつも震えていた。小さき生きものの震えは、愛らしさを引き立てることもあるが、このように同情を煽るだけのこともある。
同情を煽られなかったのが、彼女だった。サモとトラに蹴られ押しやられるニケを、「あらあら、可哀想に」と口だけは優しく、母猫のおっぱいに近づけてあげたようにみせたが、実際は少し持ち上げただけだった。そしてニケのそのあまりの軽さに貧しさにぎょっとしたように素早く手を離すのだった。私は、彼女がニケを見る目が穢れたものを見る目に変わったのに気がついた。それに気がついたのは私だけだった。猫たちはなにも知らぬ顔で戯れていた。私は、「そろそろ子猫たちは昼寝をするから」と言って、彼女を散歩に誘った。
外は少し肌寒く、ぶるっと震えると彼女は私の腕を取り身体を寄せた。「サモとトラとニケっておかしな名前ね」「おかしいかな、そうかなあ」「はじめて聞いたわよ」「そうか」私は、彼女がサモトラケのニケを知らないということを知った。自分が誤って覚えているということにも気づかず、得意そうに私は知識をひけらかそうとした。「サモトラニケのニケっていうでしょう」「なあにそれ」「つまりね」「もっと楽しい話がしたいわ」知識とは人の器である。大きな器を持つ者が知識を深めているのではなく、深い知識を持つ者が大きな器を持ち得るのだ。では深い知識とはなにか。私が思うに、それは知識を得ようとする心だ。彼女にはそれがなかった。そして私には、正しい知識を得ようとするあと一歩のそれがなかった。「サモトラニケのニケ」と誤って発音する私と、「もっと楽しい話がしたいわ」と言う彼女。その散歩は味気ないものであった。私も彼女も、実に薄っぺらい人間だった。
1週間も経たずに、彼女はまた私の家に遊びに来た。私たちは寝室で愛も知らずに愛のような行為をした。いつものように。いつも愛を知らないままだったのだ。コーヒーを入れていると、彼女は子猫たちのいる箱に近づき、「しっかり育つといいわね」と言った。後ろ姿からして、彼女はニケを眼中に入れてないだろう、と私は思った。そしてその台詞は、乾いた新聞紙を噛んだような感覚にさせた。「そうだね」と返事をすると、彼女は満足そうな顔をして振り返るので、私は息ができなくなりそうになった。
それは彼女が帰った後のことだった。毛布にこびりついた子猫たちの吐しゃ物を掃除しようと箱に手を伸ばすと、ニケの震えがいつになく細かく、また顔をうずめて動こうとしないのだ。ニケはおっぱいを求める気力は元からなかったが、それでも自分の意思で這いつくばり、自分の居場所を確保する奴だ。なのにぶるぶるぶると、はっきりと異常だとわかる震え方をしていた。私は、ニケをつかもうとした。そのときだった。ニケの細い手足をつなぐ関節と、肩がむくっと盛り上がり、ニケは自分の脚で立った。そして、私の右手、親指の下あたりをがぶりと噛んだのだ。ニケにはもうするどい牙が生えていた。鋭い痛みがキンと神経を伝わった。「いたっ」と私が手で奮い払うと、ニケはころんと転がり、そしてそのまま震えなくなった。
両親に連絡し、猫たちを引き取ってもらった。嬉しそうに猫たちに頬ずりをする母親に、何度も「本当にうちの子にしていいの?」と聞かれた。空港に向かう前に、彼女に別れたいと連絡を入れて、携帯の電源を切った。飛行機から降り、美術館につくまでどの程度の時間を要したのかも分からなかった。初めて見るサモトラのニケは、厳かに前を向いていた。翼があるのに、地面を踏みしめているように見えた。涙が出たが、なぜ泣いているのかよく分からず、もしかしたら私は今の状況にただ酔っているだけかもしれなかった。観光客が私の顔を覗き込むようにして通り過ぎていった。写真を撮っておこうと思い、日本を出てから初めて携帯の電源を入れると、彼女からメールが届いていた。
「急なお別れでびっくりしてしまいました。あなたがそう言うのなら、きっと何か大きな理由があるのだろうと思います。なので、さようならを受け入れます。それとごめんなさい、おせっかいかもしれないけど、ニケのために猫用のミルクを買ってきたので、ポストに入れておきます。注射器で少しずつあげると良いそうです。それでは、かなしいけど、さようなら。」
ニケは、弱虫でも根性なしでもなかった。私は一度もニケを撫でてやらなかった。ニケを蔑んだ目で見ていたのは、まぎれもなく私だった。サモトラケのニケは美しい。サモトラニケのニケも、美しかったのに。
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