見出し画像

「鬼滅の刃」の「無限城」とは何か?

 「鬼滅の刃」の「無限城」に関しては、ファンの皆様であれば良くご存じだと思います。普段は人間界で悪事を働いている鬼達ですが、いざと言う時に集結する鬼界の総本山のような場所が「無限城」ですよね。

 筆者は、拙稿「鬼滅の暗号」の中に、様々な「暗号」の解読結果を記載しましたが、「無限城」については記載しませんでした。その理由は、「そうとしか考えられない」という明確な裏付けが弱かった事にありますが、これは裏を返せば、その「無限城」の正体が「抽象的な概念」である為に、それをメタファー(暗喩)として「暗号化」するのが難しかったからなのではないかとも考えています。

 例えば、「抽象的な概念」である「平和」という概念であれば、「ハト」とか「文豪のトルストイ(「戦争と平和」)」などをメタファーとして盛り込む事が考えられます。しかし、なかなかその様には上手く行かない「抽象的な概念」もあります。例えば、「社会」という「抽象的な概念」をメタファーに変換する場合、皆様ならどの様に変換しますでしょうか? 筆者は、「無限城」の正体は、実は、我々の住むこの「社会」なのでは無いかと考えています。

 我々は、普段、この高度に発展した社会の中で、便利に暮らせている側面もある訳ですが、それは、「技術」や「社会システム」によって支えられていますよね。そしてこの「技術」や「社会システム」は、ある意味では、人類の「無限」とも言えるような「欲望」によって駆動する「資本主義」によってここまで発展した側面があるのでしょう。

 「鬼滅の刃」の物語の中で、「無限城」は、広大な異空間として描かれています。そして、「鳴女(なきめ)」と呼ばれる悪の権化「鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)」の側近として登場する「鬼」によって、自由自在にその「無限城」の空間が操られる設定になっています。

 「泣きを見る」という言葉がありますが、筆者は、この「鳴女」が、我々「庶民」を表している様に思えてなりません。「鳴女」は、「鬼殺隊(きさつたい)」の剣士達が鬼達と「無限城」で闘う際に、「鬼殺隊」の剣士達を非常に苦しめ、大いに「鬼舞辻無惨」の「役に立つ」のですが、いざ「鳴女」の能力が封じられてしまうと、「鬼舞辻無惨」に簡単に見限られ、その手によって始末されてしまします。

 我々庶民は、悪の権化「鬼舞辻無惨」にとっての言わば「役に立つバカ」の様な存在になっている側面は無いのでしょうか。「鬼滅の刃」において「鳴女」は、大きな「一つ目」のキャラクターとして描かれています。「泣きを見る」という言葉は、言葉の意味としては、実際に「目」で見る訳ではありませんが、「鳴女」のその大きな「目」は、読者の「注目」を引き付けます。また、「鳴女」は、常に楽器の「琵琶」を携えています。「琵琶法師」は、「盲目」の僧侶として知られていますよね。物事の本質を知らずに「盲目」に暮らし、いつも最後に「泣きを見る」のが、我々庶民なのではないでしょうか。

 現代の社会は、非常に高度で複雑、かつ巨大なシステムになっています。この様なシステムでは、細かな「分業体制」が必要になりますので、人は通常、自らの専門分野や担当職務のこと以外は、余り知識も持ちませんし、関心も寄せません。この複雑な社会を、総合的に認知し、統合的に理解している人間は、極めて稀なのではないでしょうか。

 この事(社会の複雑性)は、非常に困った事に、大きな悪事を目論む権力と財産のある者がいた場合、彼らにとってはとても有利に働きます。

 巨大な悪事をなし得るとすれば、巨大な権力、財産、知識を持った「ごく僅かな人間達」でしょう。そうした「ごく僅かな人間達」が悪事を実行しようとする場合には、それが高度で大きなものである程に、そうした「ごく僅かな人間達」自身の手だけで行う事は出来きなくなりますが、その方がむしろ都合が良い側面があるというのは恐ろしい事です。直接には手を下さずとも、ある種の「動機付け」だけを利用して、複数の組織をコントロールし、それらが全体として大きな悪事に繫がる様に機能させる。そんな事も出来てしまいます。そうなると、そこに明確な犯罪の証拠を求めるのは困難です。また、それに気付く事も、著しく困難になってしまうでしょう。

 大きな悪事は、巨大な「組織」により、専門的な細かい「分業体制」の下で行う必要性が出てきます。その巨大な「組織」の末端において、その分業の「僅かな範囲」だけを担う者が、自らの担当している業務が持つ全体の中での「意味」を知ったり、それがもたらす「結果」を想像するのは困難ですよね。そこらの町場の「オレオレ詐欺」ですら、知らずにそれに加担してしまう人もいます。

 「陰謀論」を語ると、それを単なる「妄想」として切り捨てる方もおられます。と言うよりも、むしろ社会全体の中で、その様に考えておられる方のほうが、日本においては圧倒的な主流派である様にも感じています。そうした主流派の方々は、しばしば、「多くの人目に晒される中で、その様な大胆な悪事ができる筈は無い」という事を言われます。しかし、筆者は、元々は悪意なく必然的に作られたものであるとしても、この複雑な社会システムが不本意にも抱えざるを得ない、こうした「罠(弱点)」の事を理解する必要があるのではないかと考えています。

 筆者は、些細なものを含めれば、「陰謀」なんて我々の日常の職場からはじまり、そこら中に存在すると思っています。企業の戦略だって、ライバル企業に知られたく無いものもありますよね。隠された謀り事として進めなければ、上手くいかない事は沢山あります。それが、もっと大きなスケールになったら、どうなるでしょうか。筆者は、「陰謀論」という言葉が、実際に存在する個別具体的な「陰謀」を隠蔽する為に、「論(理屈、考え方)」として一般化してラベリング(レッテル貼り)する目的で考案された便利な「用語」であると知っています。「よくある妄想家の理屈」として片づけるのは、上手いやり方なのかも知れませんね。

 その「陰謀」の可能性のある出来事が発生した際、「陰謀論」を唱える人が、むしろ正当な「理屈(キチンと検証すべき)」を唱えるのに対して、「陰謀」を否定したい勢力の側が「陰謀論」という言葉を持ち出して「論点」をずらし、「馬鹿げたもの」として検証を逃れようとする姿はとても興味深く、そんな姿をみると、なおさらそれが「事実」なのだという思いを強くします。皆様も、「陰謀論」という言葉が生み出された経緯を、インターネットなどで調べてみて下さい。かなり面白い事が分かると思います。なお、筆者は、「宇宙人が攻めてくる」と言った様な、現実には殆ど起こりそうもない様な説まで信じている訳ではありません(笑)。そうした奇想天外な説は、「陰謀」を行使したい勢力が、「陰謀論」を唱える人物が妄想的な人物であると人々に認知させる為に世間に広めていると言われている様です。

 先にも述べました様に、我々庶民は、巨大な社会の「分業体制」の中に組み込まれ、自らの担当している業務が持つ「意味」やその「結果」を考えないまま、自ら墓穴を掘って暮らしている可能性もある事に、もっと注意を払うべきではないでしょうか。

 筆者には、日常の生活を通じて鬼の潜む「無限城」を築いているのは、「我々自身」である様に思えてなりません。

「鬼滅の刃」(作:吾峠呼世晴 / 出版:集英社)のストーリーの中に、主人公の竈門炭治郎(かまどたんじろう)は、こんなセリフを残しています。

「鬼は虚しい生き物だ 悲しい生き物だ」

先に登場した「無限城」を操る「鳴女」も、「鬼」でしたね。

#「鬼滅の暗号」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?