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鬼殺隊の『民主主義論』

『当世大衆ノ娯楽』(作:KITAKAZE)

 筆者は、長年に渡っていわゆる「陰謀論」を研究してきました。その中で思い知っているのは、「陰謀論」を幾ら膨大に「表象面(この様な悪事が行われている可能性がある)」から調べていても、その証拠(それは事実か)がつかめなければ不毛な労力になってしまう可能性が高いという事です。「表に現れた懸念」が膨大に調査され、その結果がインターネットで公表されれば、「陰謀」の実在を知っている筆者のような人間にとっては、大変に役に立つのですが、「陰謀」の存在を認めず、【「陰謀論」は「頭のイカレタ」一部の愚民が、自分の不遇を心の中で消化(納得)させる為に利用する妄想である】といった様な認識を持った大多数の一般の方々に気付いて貰う事には繋がりません。しかし、日本の様な「民主主義を偽装した国家」が、大きな方向転換を図るには、そのような「大多数の一般の方々」に実感を伴って「陰謀の実在」を認識していただくしか無いと考えています。筆者は、その為もあって、拙著「鬼滅の暗号」を書きました。そして、本稿においては、この我々の暮らしの基礎となっている筈の現在の「民主主義」が、如何に「不確かなもの」であるかを、なるべく実感を伴う方法で説明できればと考えています。この「偽装民主主義」という質の悪い「虚構」に、多くの方に気付いて貰う他に、「ここから脱出する術は無い」と筆者は考えています。「偽装」しているといえども、「民主主義国家」では、「主権者?である国民が決めた事?」には従わざるを得ないからです。「民主主義」が適正に運用されていると信じておられる方々にも、一旦、その前提を忘れて考えていただきたいのは、「万一、国が行う政治が、国民の意思に基づいた選択の結果であると信じ込まされていただけだとしたら、どういう結果を招くか?」という事です。もし、そうした姿の方が「現実」であったとするならば、政府がどのような「悪政」を行おうとも、国民は、「自らの選択による結果」として受け入れざるを得なくなり、悪政を行う政府を打倒しようとするムーブメントは起こらないという事になってしまうでしょう。筆者は、昨今の大手マスコミや一部の低俗なインフルエンサーなどによって「世間の空気」として作り上げられている「自己責任論(自業自得論)」は、「選挙制度」等の為政者の作ったシステムへの「盲目的な信仰」を暗に促し、「窮乏する庶民」の共感論を打ち消す目的を持って、意図的に国民に刷り込まれていると考えています。

 ノーベル物理学賞を受賞した米国の著名物理学者のリチャード・ファインマンは、『宗教は「信じる」という文化であり、科学は「疑う」という文化である』と述べています。我々は、我々の民主主義の基礎となっている「選挙制度」に関して、もう少し「科学的」に考える必要があるのでは無いでしょうか。現在、殆どの民主主義国家では、「代議制民主主義制度」を採用しています。国民が直接的に国の政策について決める「直接民主主義制度」においては、政策の決定に至るまでの議論を国民自身が行う為、それが自身にどのような影響を与えるかを良く考えざるを得ない側面があります。また、議論を尽くした上で最終的な決定を本当の最後に多数決で行うにしても、誰がどのように決断したのかが明確であり、このような制度の中で「不正」を行う余地は、かなり少なくなるでしょう。(※それでも、「買収」や「脅迫」などを通じて、「不正」を行える可能性は残りますので、「科学的」に考えて「不正」の可能性がゼロになる訳ではありません。)「直接民主主義制度」では、参加者の人数が限られている内は上述の様な利点を発揮して機能しそうですが、人数が増えてくると、議論の収集がつかなくなったり、専門性の高い議題になると多くの参加者が意見を述べる事が難しくなってくるといった問題も内包しています。そこで、そうした問題を回避できる方法として「代議制民主主義制度」が生み出されました。

 「代議制民主主義制度」では、自らの信頼する人物による代理(代表)を立てて、その人物に議論を行って貰う事になる訳ですが、その信任の集約を行う為に、「選挙」が行われる事になります。そもそも、信任の集約が「選挙」でなければならいのか?という問題もあるのですが、その問題は、ここでは脇に置いておく事とします。では、「代議制民主主義制度」が採られている「日本の実態」を見てみましょう。日本の「選挙制度」においては、先ず、その入口からして非常に懸念の大きい部分があります。それは、「供託金制度」です。日本の場合、これが「異常に高額」であるという大きな問題点があります。「供託金」は一種の担保金の様なもので、選挙の事前に定められた金額を日本銀行やその代理店に納付する必要があります。これは、一定の得票(例えば、有効投票数の1/10の得票など)が無い場合には、「没収」されてしまう事になります。町村の議員選挙などの国政に殆ど影響の無いレベルでの選挙の場合には、「15~50万円」程度です。選挙にもコストが掛かりますから「冷やかし」や「選挙を利用した売名行為」などの「選挙の悪用」を防ぐ為には、これはある程度止むを得ない金額なのかも知れません。しかし、これが市長や知事などを選ぶ選挙、そして国会議員を選ぶ選挙と、国政への影響が増加するに従って、金額が跳ね上がっていきます。衆参議員の比例区においては、現行の「供託金」は、一人当たり「600万円」である様です。無名の人間が、ある志を持って初めて選挙に出ようとする場合を想定してみると、その人物がいくら良い政策を唱えていても、無名であるが故に余り多くの得票が得られない可能性は高い訳で、その様な庶民の年収をも超えるような金額の「供託金」を一般の人間が簡単に出せる筈もありません。しかも、実際に当選を果たす迄は、「何度もその金額を失う」可能性が高い事になります。この様な状況は最早、「選挙の悪用」を防ぐ事が目的なのでは無く、「選挙への参入障壁」として設けられていると考えるのが妥当でしょう。「この様な金額を払える人物」は、現行のシステムから「恩恵」を受けて成功しているからこそ払える訳ですので、そうした人物を「抽出して当選」させる事に繫がる制度を作れば、例え「得票の操作」などの「目に見えた不正」が無かったとしても、当選した人物は、現行のやり方を「支持」する傾向が強い訳で、国家の「為政者」にとっては非常に都合が良い事になります。

 更に、選挙区の区分け方法(小選挙区)などの小手先の問題だけで無く、もっと単純で基本的な「開票・集計に至る過程」も穴だらけです。有権者の「票」は、「投票所」で「投票箱」に投じられ、それが、「開票所」に集められて「開票・集計」される訳ですが、この一連の流れが、有権者にガラス張りになる事は決してありません。これが「ブラックボックス」にされるのは、民主主義の根幹となる重要な選挙の「セキュリティの確保」などといった尤もらしい理由付けがされるのでしょうが、「本来は逆」でしょう。この重要な一連の流れには、投開票の管理者や立会人などの本当に限定された人間にしか関与を許されません。それらの選挙の運営に携わる方々が、本人が気付いているかどうかは別にして、「何らかの意図」に基づいて行動している(させられている)可能性は絶対に無いという「根拠」はあるのでしょうか。そもそも、我々は、そうした選挙の運営に携わる方々が、具体的にどの様な立場と背景を持った方々なのか、少しでも知っているのでしょうか。
※勿論、公正な選挙に懸命に取り組まれている方もおられると思います。また、全ての地域で絶対的に不正が行われているという事も無いと思います。筆者は、一般有権者の立場から科学的に思考した場合の意見を述べています。

 筆者は、選挙の運営は、本当に「選挙の根幹」に係る部分であるだけに、本気で科学的に「セキュリティの確保」を謳うのであれば、可能な限り「透明性」を高め、例えば「票の強奪」「すり替え」が、万が一にも起きない様に、あらゆる集計の為の地点に監視カメラなどを設置して監視状況を「公開」し、また、武力による投票箱の「強奪」などに対応する為、警察管や住民組織などによる強固な警備体制を敷く必要があると考えています。科学における実験では、万が一の外的要因による実験結果への影響を排除する為に、細心の注意を払って、それらの影響の「排除」が行われます。それと同じ事ですね。そういう物理的な監視体制には「コストが掛かる」というのであれば、別の方法もあると思います。例えば、自分の「票」の「トレーサビリティを確保」するという方法です。有権者に渡す投票用紙の隅に個別のIDを刻印しておきます。そのIDの刻印された部分は切り離せる様にしておき、投票箱に票を投じる際に切り離して有権者が保管できる様にしておきます。そして、「一定の義務を負った有志の民間団体」などが別途に構築したクラウド上の集計システムに有権者がスマートフォンなどで自らのIDと投票先を入力する事によって、開票後に、「公に集計された結果」と比較できる様にすれば良いのです。勿論、その集計のコンピュータプログラムは「完全に公開」し、運用体制の「セキュリティチェックや公正性の監査」に関しても、「第三者の民間の事業者」などが行う必要があるでしょう。これは、本当に公正な選挙を「公側」が行う意思があるのであれば、別に「損な話」ではありません。「相互チェック」できる訳ですから。また、「物理的な票」は、投票箱に「現物保管」されている筈ですから、もし双方に大きな乖離があれば、後で慎重に「現物」を多くの人の監視の下で「人手」でカウントして、原因を突き止めれば良いのです。「現物」が残っている以上、「民側(有権者側)」の電子データが、サイバー攻撃を受けて集計が狂わされたとしても、大きなリスクにはなりません。こうしておけば、「得票の操作」のリスクはかなり減らす事ができるでしょう。

 しかし、この様な事が行われる事は、「絶対に無い」でしょう。技術的な問題では無く、それが為政者にとって「不都合」だからです。

 更に、上述の上述の様な明らかな「制度的な欠陥」に加え、より「重い事実」として、「この数十年の政治の実績」というものを考える必要があります。G7(主要7か国)の各国の中で、ここ20年間の経済成長が殆ど止まっているのは日本くらいです。80年代には、破竹の勢いのあった日本経済ですが、既に国民一人当たりのGDPに関しては、韓国や台湾と同レベルになっており、更には引き離されつつある様な状況にあります。当然の事ながら、国民の給与の中央値は、寧ろ下がってしまった状態になっています。この様な国は、世界各国の中でも探す方が逆に難しいでしょう。しかしながら日本においては、特定の政党が僅かな期間を除いて、政権を握り続けていますよね。このような異常な事が、民主主義が正常に運用されている状況で本当に起こると皆様はお考えでしょうか。今般の政権による国民が窮乏する中での海外への資金(原資は税金)のバラマキや、国民の大切な個人情報の漏洩などの大問題があるにも拘わらず、あるメディアの調査によれば、直近の内閣支持率(2023年6月)は40%を超えています。これが本当の真実だとすれば、筆者にはもう笑うしかありませんが、この状況で、こんなものをマトモに信じる方がいるのでしょうか。そして、いざ選挙を行えば、まだ開票すらされていない段階で、本当に適切に実施されているのかどうかも良く分からない「統計調査」に基づいて、それが絶対的な事実であるが如く、開票速報で「当確」が宣言されます。

 この様な数々の客観的な事実(穴だらけの選挙制度)や、状況証拠(長期経済低迷下における異常な長期政権)の積み上げがあるにも拘わらず、選挙制度が公正に運営されている事を、言わば「妄信」する方々が多いというのは、筆者には、不思議でなりません。陰謀論を信じる人を、【科学的に事実かどうか分からない事を信じ込む妄想家】と定義するのであれば、筆者は、現状認識としては、「選挙制度を妄信する方々」「陰謀論者」と呼ぶ方が、「科学的」には、より相応しい様に感じています。「選挙に不正は無い」と絶対の自信を持って主張される方々には、是非、「強力な証拠」を提示して頂きたいと思います。これは、嫌味的に申し上げている訳では無く、そうやって真実に近づくのが「科学」だからです。

 これは筆者の別の記事にも書きましたが、旧ソビエト連邦のスターリンは、「票を投じる者が決定するのではない。票を数える者が決定するのだ」と言っています。また、外務省の元高官で評論家の孫崎享さんは、某知事選挙での得票の統計学的な視点からの異常性に注目し、「選挙の不正」を強く懸念されています。

 さて、ここまでは、「民主主義」がそもそも成立しているのかどうかという視点で話を進めて参りました。ここからは、仮に適正に「民主主義」が成立していたとして、それが本当に我々に幸福をもたらすのか?という視点から話をさせていただきたいと思います。一般的に認識されていますように、民主主義では色々な意見に基づいて議論を交わすものの、結局のところ、最終的には「多数決」で方針を決する事になりますよね。「多数決」の場合、97対3の様な圧倒的な大多数が賛成している法案であれば、それがより多くの国民の満足に繫がる可能性はあるのかも知れません。しかし、51対49で賛否が分かれるような場合はどうでしょうか? 殆ど、国民の半数が反対する様な法案でも、「多数決」では可決されてしまいます。この様な「暴挙」に繫がる恐れのある方法に、何らかの「歯止め」は必要無いのでしょうか? 庶民にとって最も重要な「憲法」の改正に関しては、衆参議員の2/3以上の賛成を要する旨の規定がありますが、それでも1/3の声は無視される事になります。法案によって、有権者の見解はまちまちに分かれると思いますので、このような事が積みあがれば、誰しもが、どこかで痛い目を見る事に繫がります。「それが民主主義」と言ってしまえば、それ迄なのですが、では、「自分が反対する法案」が成立した場合、自分が職を失ったり、健康を脅かされる危険性が極めて高い場合には、如何でしょうか?「それが民主主義」と簡単に割り切れますでしょうか。「その様な事は現実的には殆ど無い」と言われますでしょうか。 いえいえ。「原子力発電所」は、法律でキチンと存在が認められていますよね。「原子力発電所」が、皆様の家のすぐ脇にできたら、皆様は、どの様にお感じになりますでしょうか。

 「止揚(アウフヘーベン)」という言葉があります。これは、ドイツの哲学者ヘーゲルが提唱した概念で、ある対立する意見がある場合に、それらをより高い視点から捉え直し、両方の意見に含まれる要素を生かす方法を見出す事を意味する言葉です。政治家達が、こうした考え方を肝に命じ、真摯に議論を戦わせてくれれば、まだ救いはあるのかも知れませんが、彼らのやっている事は、全て、「結論ありき」の多数派工作になっていませんでしょうか。実のある議論が交わされ、単なる「誰かが作った法案」への「賛否」では無い「別の道」が見出された事など、これ迄にあったでしょうか。政治家と言うのは、本来、我々の意見を代弁する「サーバント(使用人)」でなければなりません。公務員の事を「パブリックサーバント(公的使用人)」と言いますが、筆者は、これは本来的な「サーバント」である「政治家」から目を逸らす為に「強調」して使われる言葉だと思っています。公務員(役人)は、本来は、政治によって決まった事を執行するだけの存在です。ですから、「政治家」こそが、本来、我々にとっての直接的な「サーバント」である筈なのです。日本人が「政治家」「先生」などと言って拝んでいる内は、決して救われる事は無いでしょう。

 我々庶民は、先ず、以下の「妄信(非科学的な陰謀論)」に気付く必要があると思います。

「民主主義が、適正に成立しているという妄信」

「民主主義に、ただ任せておけば大丈夫という妄信」

 現実の世界は、この両者が掛け合わさって出来ている恐ろしい程の「地獄」であり、我々はそこに暮らしているのだという自己認識が無い限り、我々がこの「地獄」から逃れる事は、永遠に出来ないと思われます。以下に示す図は、我々人間が陥っている「地獄」の様子を、筆者が概念的に示したものです。

【地獄のトリニティ】(作:KITAKAZE)

 「トリニティ」というのは、キリスト教の言葉で、父(父なる神)、子(神の子キリスト)、霊(聖霊)が三位一体となっている天界の姿を示す言葉ですが、それが「天界のトリニティ」を示す言葉とすると、筆者の示す「地獄のトリニティ」は、人間が陥っている現実社会という「地獄」の姿を示しています。この地獄には、三つの「檻(おり)」が有ります。それは、以下の三つから構成されます。

「肉体の檻」 別名:恐怖と欲望の檻

「自縄自縛の檻」 別名:知識の檻

「妄信の檻」 別名:認知の檻

 筆者は、人間は、現実社会という「地獄」において、これらの「三重の檻」に囚われており、更に、これらの「三重の檻」は、相互に補完しながら増々と「強化」されていく性質を持っていると考えています。

 この中で、「自縄自縛の檻(知識の檻)」というのは、例えば、「人間は知識が無い事によっても、知識ばかりに頼り過ぎる事によっても、大きく躓く(つまづく)可能性がある」と言う事を示しています。法律で言えば、本来は健全な社会を築く目的で作られる法律ですが、「より良くしようとそれを増やす程に雁字搦めになっていく」という事を示しています。この様に、本来は、人間にとって「役立つもの」を築く事が、逆に人間を躓かせる「罠」を内包している事を、「自縄自縛の檻」という言葉で表現しました。この「自縄自縛の檻」の「支配者」は、人間が作り上げる「システム自体」であったり、人間の「習慣」であったりします。この「自縄自縛の檻」の問題と、そこから解放される為の「手掛かり」について、筆者は、下記の別稿にて論じました。

<参考>

鬼殺隊の『文明論』

 筆者は、この「自縄自縛の檻」を抜け出す「手掛かり」になるのは、人間の「美的感性」であろうと考えています。

 そして、本稿では「妄信の檻(認知の檻)」について焦点を合わせ、論じさせていただいておりますが、筆者は、この「妄信の檻」の支配者は「メディア」「教育」であり、それによって醸成された我々の「常識感覚(錯覚)」こそが「檻の正体」だと思っています。そして、この「妄信の檻」を抜け出す「手掛かり」になるのは、「疑って見る(批判的に見る)という信念」だと考えています。

「肉体の檻(恐怖と欲望の檻)」に関しては、今後、また別の記事にて論じていく予定です。

 人間にとって何かを「疑って見る」のは、面倒でもあり、また、とても辛い面もあります。例えば、ある信頼している人を「疑って見た」とします。その結果として、その人が、自分を裏切る様な行動をとっている事に気付いてしまえば、「非常に辛い思い」をします。真実を知らない方が、ある意味では、幸せな事もあるかも知れません。しかし、その辛さに耐えて、「何故、その人は、そのような行動をとったのか」を考える事によって、自分には分からなかったその人の厳しい事情などが見える事もあるでしょう。また、その人に裏切られても仕方ない自分の欠点などが分かるかも知れません。人間は、そういう事の積み重ねによって、「腹に染みて」物事を理解していく側面があるのではないでしょうか。

 さて、「鬼滅の刃」のストーリーの中には、「民主主義」は、見受けられない様に思えます。「鬼達」の世界は、勿論、首領の「鬼舞辻無惨」を頂点とした完全な「封建的身分制度」であり、「鬼舞辻無惨」には絶対服従が求められます。「鬼舞辻無惨」に逆らえば、瞬時に、消滅させられてしまいます。配下の鬼達にとっての唯一の見返りは、「鬼舞辻無惨」の血を分け与えて貰う事によって、より強くなれる可能性があるという事くらいでしょうか。もう一方の「鬼殺隊」に関しても、指導者である「お館様」に仕える「封建的身分制度」の様に見えます。「鬼殺隊」の内部も、「柱」を頂点とした細かい「階級制度」が敷かれており「民主主義的」な形式は、ストーリー上は見られません。

 ところで、我々庶民の住む現実社会こそ「民主主義」などというのは表面的な「虚構」に過ぎず、現実的には、企業組織の中の封建的な序列に四苦八苦しながら暮らしているのが実態であると思われませんでしょうか。そして、実際問題として、上司から「パワハラ」まがいの扱いを受けている方も非常に多いと思います。つまり、「民主主義」などというのは、我々の身近には無い、現実社会とは乖離した単なる「政治的な宣伝文句」になっており、その「実態」は、既に十分に「封建制度」になっているというこの「現実」に、先ずは気付く必要があるのではないでしょうか。

 形式としては、「封建制度」のような体制をとっている「鬼殺隊」ですが、現在の日本社会の「社畜隊」に配属されている口先だけ偉そうな事を言って部下を踏み台にする上司とは異なり、「鬼殺隊」の頂点に立つ「柱」達は、皆、命を懸けて部下を守り、自らが率先して行動して敵を倒すという強い責任感や使命感を持った存在として描かれています。また、「鬼殺隊」全体を取り纏める「お館様」も、部下の「柱」達の言い分を聞く懐の広さを持っています。「鬼滅の刃」の「柱合会議」では、「鬼」の妹を持つ竈門炭治郎と、「鬼」になった妹である竈門禰豆子の処遇に関して、「柱」達に意見を求めました。この兄妹を処罰すべしとする意見が多かった「柱」達ですが、「柱」の一人である「不死川実弥」の取った挑発的な行動に対しても竈門禰豆子に人間を害する反応が見られなかった為、最終的には、「お館様」の意向であったこの兄妹を仲間として受け入れるという提案に従う事になりました。

 この様子を見た筆者は、上辺だけの「民主主義」よりも、この「鬼殺隊」の組織の中で働きたいと一瞬心を奪われたのですが、皆様は、如何だったでしょうか?

 「鬼滅の刃」のストーリーに学べる事は、企業の様な封建的組織というものは、頂点に立つ人間に応じて、その性格が著しく異なってしまう結果を生み得るという事であると思います。上に立つ人間が立派な人間であれば、組織の構成員が生き生きと活躍できる組織にもなり得ますが、もし、上に立つ人間が、「鬼舞辻無惨」の様な残酷な人間であったとしたら、簡単に「地獄」にもなってしまえるものであると言う事を考える必要があります。

 皆様は驚かれるかも知れませんが、実は、筆者が本当に注意を払わなければならないと思っているのは、「鬼舞辻無惨」では無く、「お館様」です。その理由は、三つあります。

 一つ目は、「お館様」は、いくら崇高な目的があるとは言え、結果的に「部下」を大量に死なせてしまっている点です。「鬼殺隊」では、部下の隊員達が、「柱」に近い様なレベルの強さを持っていれば良いのですが、「鬼」を倒すのにはまだ十分な実力の無い隊員であっても、すぐさまに実戦投入されてしまいます。これでは、「迂闊」と言われても仕方ないやり方ですよね。

 二つ目は、莫大な財力を誇る「お館様」ですが、その資金が一体どこから出ているのか、何故その様な資金を動かせる立場にあるのか、彼の素性や背後関係が良く分からない事です。そこに「怪しさ」を感じませんでしょうか。

 三つ目は、「お館様」が「病弱」であるという点です。人間は、「誰しも」が、寿命には限界があります。不慮の「病気」や「事故」で亡くなってしまう事もあるでしょう。

 この様に、人間には誰しも「能力」「精神的な高潔さ」「健康」等について「弱点」があります。従って、もし、封建主義的な組織のトップに「お館様」の様な人物が就いたとしても、短期的には上手くいくかも知れませんが、長期的に上手くいく保証はどこにも無く、逆に、一度、「鬼舞辻無惨」の様な残酷な人間に乗っ取られてしまえば、そこから抜け出す事は、非常に困難になってしまいます。「高潔な人間が、高潔な方法によって権力を奪取する事」は、極めて難しいのです。「鬼舞辻無惨」が、同じ「鬼舞辻無惨」の様な人間によって倒される事は、しばしば起こること思います。

 筆者は、「弱点」の多い「民主主義」ではありますが、上記の様な状況を考慮した場合の「歯止めの力」こそが、封建制度とは異なる「民主主義の最大の価値」であると考えています。高い見識に基づいた理想的な政治が行われ易い訳でも有りませんが、民主主義が、「正常に成立」して、且つ「適正に機能」するように「努力と工夫」がなされていれば、少なくとも「鬼舞辻無惨」の様な人間の支配による「地獄の様な状況」までにはならないと思います。それは、「庶民の最低限の共通利益」としての「基本的人権」は守られるからです。しかし、その為には、繰り返し述べてきました様に、我々庶民が、現在の日本の「民主主義」が、本当に「民主主義」なのかを「真剣に問う(疑う)」必要があると思います。

 かつてドイツの庶民は、「民主主義」の言わば産物として、ナチスドイツによる独裁政権を生み出してしまいました。これは、第二次世界大戦において、「大東亜共栄圏」などというプロパガンダに簡単に煽られてしまった我々日本の庶民と「同じ種類の罠」に掛かったと言えるのでしょう。現在の日本は、「白けムード」が支配している為、このような「熱狂」に躍らされる危険はそれ程大きくないのかも知れません。しかし、「熱狂」の反対の「冷静」であれば良いのですが、この「白けムード」は「無関心」という現象です。これは、「熱狂」よりもむしろ恐ろしい状況なのかも知れません。「熱狂」の場合は、「方向性」を変えれば悪政を糺す方向に向けられる可能性もありますが、完全に「無関心」になられたら、何を言っても響かないのですから、「手の打ちよう」が無くなってしまいます。世の中には、こうした事態に気付いておられる方も少数は存在するのですが、それが往々にして、「分かっている者同士での社交辞令」としてSNS等で呟かれているのが残念でなりません。それでは、単なる「独り言」となんら変わりはありません。筆者は、「分かっていない方々」にこそ、語りかける必要があり、それが無い限りは、状況の改善は無いと考えています。

 筆者は現在、日本、いや世界を「社会主義」に導こうとする強い意図を各種の情報から感じています。そして、今の日本の状況では、「簡単にその方向へ流されていってしまう」という事を、強く危惧しています。先ずは、我々の「民主主義」に疑問を抱き、答え探しを始めてみませんか?

最後まで読んで下さった皆様に、U2の曲を捧げます。
(深い意味があります。)

https://www.youtube.com/watch?v=e3-5YC_oHjE

(終わり)

「鬼滅の暗号」

鬼殺隊の『文明論』

「鬼滅の刃とノアの方舟」<鬼滅の刃の「隠(かくし)」の正体>

KITAKAZE

「鬼滅の刃」「刀鍛冶の里編」#鬼滅の刃 #甘露寺蜜璃


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