母について。
子どもの頃、仲良く遊んでいた友達のお母さんと喧嘩をし、それをきっかけに私も友達とあまり話さなくなった。和楽器を教えており、生徒は少なかったが教室を開いていて、私も教わっていた。そして、上手く弾けなくていつも怒られた。
私も、音楽では無いが芸術の世界に進んだ。そして教える事を生業としている。学生の頃は、車の中とか喫茶店とかで、芸術への思いを語り合った。母は、子育て中で自分の時間が取れない状況でも教えることは続けていた。続けることに意味がある、習っていた先生に可愛がられた、〇〇の舞台に立ったなどよく聞かされていた。
私はそれを聞いて、音楽にすがって自分のアイデンティティを辛うじて保ち、頑張ってる事を言い聞かせているだけで、名前が売れてるわけでもない母の状況を、疎ましく思っていた。
働いたり、子育てや家事をしながら自分の時間を確保し、やりたいことをやる事は、至難の業だ。自分が年をとって、より一層実感する。その世界で認められなくても、表現すること自体が目的となり、無くなると心を蝕んでいくようなものだったのだろう。
作ることや、芸を通して表現することが、なぜ自分の欠けている部分を充すものになるのか。それで生活ができるようになったわけでもないのに、やり続けたいと思うのは、一種の病気ではないかとさえ思う。以前、何かの本で才能とはテニス選手が穴のあいたラケットでテニスをしてる様なものと言っていたのを思い出す。
母は今、年をとり耳が遠くなったことを嘆きながら1人で暮らしている(父とは別居中)。そんな母とできる範囲で良い関係を保ちたいと思う。
私の友達の親と喧嘩するような人だから、感情が抑えられ無い所がある。私に対してもそうだ。ある一件があってから、私は、母とよい距離感を模索するようになった。高齢の母と娘に関しての本がいくつか出ており、ヒントも得た。
たまに会うと、必ずというほど、子ども達(私や兄)は偉いよねという。自分の過去を認める為にも、そして、子どもと繋がっている為にも。
私は、母からの同居の提案や旅行の誘いを断っている。本当は、断りたくないが、関係が悪くなるのがわかっているので断った。断る時は、辛い。もしかしたら、楽しく過ごせるのではないかと思ってしまう。しかし、私には、昔のようなエネルギーは無い。
今日は、年末年始を一緒に過ごすために母の家に来た。母は今、下の部屋で鼻歌を歌ってお節の準備をしている。