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財政破綻からのRE STARTで起こった奇跡②【北海道夕張市】

前回からの続きとなります。

公務員の厳しさを知る

夕張市役所に入った僕は、正直なところ、公務員の仕事がどんなことをするのかよくわかっていませんでした。

役所の仕事は、道路や橋などを整備したり、税金を課したり、施設を建てたり、水道水を作ったり、観光PRやまちづくりををしたり・・・。多種多様な仕事があり、異動すれば別会社に入るような感じです。

最初に配属されたのは、環境生活という部署でした。僕がやった仕事の一例を書かせていただきますが、皆さんが最もやりたくない仕事かもしれません。

時には、ごみの不法投棄現場の清掃を行いました。
崖からトラックで投棄していったごみを、命綱をつけながら拾っては上げ、拾っては上げ。3日間続けてようやく綺麗になりました。不法投棄はすごく重い罪ですしやめましょう。

時には、市営浴場の番台を勤めました。
夕張は炭鉱住宅を改修した市営住宅が残っており、まだ風呂場がない部屋が存在しているため、市で運営している浴場があります。そこの番台さんが体調を崩したときに対応しました。ものすごい人気者になって、楽しい仕事でした。

時には、野良犬や野良猫を保護しました。
「すごい猫の鳴き声がする」というクレームを受け、現場に駆けつけると、車庫を開けた瞬間、大量の子猫が飛び出してきました。僕は猫アレルギーなのでパニックになりました。犬猫は保護すると、飼い主が現れなければ保健所に届けるしかありません。育てられずにペットを捨てるなんてことは決して許されませんのでやめましょう。

時には、命の危険を伴う生物と戦いました。
市役所には、「家にスズメバチが入ってきた」、「庭にヘビが出たので何とかしてくれ」という依頼が入ります。ハチやヘビは市役所の業務には含まれていません。でも、困っていれば行くしかありません。僕は虫すら触れられませんが、仕事と割り切って飛び込み、スズメバチは窓から逃し、ヘビは長い棒で袋に入れて山に帰しました。

時には、命の危険を伴う少し大きな生物とも戦いました。
アライグマは外来生物なので、捕獲しなければならないのですが、可愛く見えて実は凶暴です。油断していると噛まれるのですが、上司から「噛まれたら死ぬ」と言われていました。狂犬病に感染している可能性があるからです。狂犬病は、発症すれば100%死ぬ病気です。僕は運良く噛まれませんでしたが、死ぬと言っていた上司は噛まれていました。何もなくて本当によかったです。

時には、命の危険を伴うもっと大きな生物とも戦いました。
ヒグマが出没すると、現地に行って箱わなを設置したり、注意喚起の看板を立てたりします。
夕張メロンの交配で使うミツバチの蜂箱や夕張メロン畑を荒らされたりするのです。僕は遭遇したことはありませんでしたが、その道中で熊に出くわすこともあり、猟友会の方々の偉大さを思い知りました。

時には、動物の死骸の回収も行います。
農地に入ってきた鹿は、フェンスに絡まって死んでしまうことがよくあり、真夏でものすごく腐敗している死体の回収を行いました。血が飛んで口に入ってしまったことがあり、死んでしまうのではないかと恐ろしくなりました。

時には、市営墓地のトラブル対応も行います。
墓地の中に見知らぬ骨壷が入っているとクレームがありました。行くと15個くらいのうち、3つしか本物ではないというのです。自信ない感じで選んでいたので、再三確認して回収して供養しました。お骨の入った骨壷を捨てていってしまう人もいます。お墓に入りきらずに、放置してしまう罰当たりな人がいるのです。そんな行き場のない骨壷を回収しては供養していました。

こういった仕事を4年間行っていました。施設の草刈りや除雪など肉体作業も多く、大変でしたね。でも、誰かのためになっていることが実感できる仕事だったので、今考えるといい経験だったなと思います。

役所の仕事は選べません。昨日まで税金の計算をしてた人が、次の日には鹿の死体を運ばなければならないということもあります。それでも文句は言いません。そのまちに愛があるからです。そのまちの人の役に立ちたいからです。

役所は暗いし、挨拶しないし、偉そう。
確かにそういう人もいるかもしれません。でも「住民の方々のためになりたい」という想いは少なからず全員にあります。少しだけその仕事を見つめてあげてもらえたら嬉しいです。

夕張のRE START前夜

その後、僕はまちづくり企画室に異動になりました。全く色の違う仕事です。動物の捕獲をしていた僕が、まちづくりを担当することになったのです。

夕張市は膨大な借金返済のため、財政再建を押し進めてきました。年間8億円の税収しかないにもかかわらず、26億円の借金を返済しなければなりません。

新しいことなんて、できません。

でも、新しいことが起こらないまち、新しいものが生まれないまちに住み続けたいと思うでしょうか。地域には「何もできない」という閉塞感が広がっていました。

炭鉱で栄えたまち。夕張メロンという世界に誇るブランド産品があるまち。地域に根付いた『誇り』が財政破綻によって崩れ去ろうとしていました。

財政破綻で失ったものは、お金ではありません。『地域の誇り』です。破綻から10年で、人口の3割以上の人がまちを離れていきました。【夕張=財政破綻】のイメージ払拭し、まちの未来につながる事業を起こすこと。それが僕の新しい仕事でした。

その頃の市役所の雰囲気は、どんよりとしていました。財政破綻後、夕張を守るために情熱を持って奔走してきた先輩方でしたが、10年も経過して疲弊しており、新しいことが起こらない風土の中でモチベーションが保つことが難しくなっていました。

先輩が、同期が、後輩が、次々に退職していきました。

本当はよくないけど、僕は心の中で退職を「死」と表現していて、「また今日も一人死んじゃった」なんて考えていました。

「自分はいつまで生きていられるだろうか」とも。

そんなとき、ある先輩が退職しました。先輩は「もっと夕張のために働きたかった」と泣いていました。そのときにふと、他人事になっている自分に気がつきました。

先輩たちは夕張を守るために戦ってきました。仕事に誇りが持てないなかでも、まちを守るために日をまたいで業務にあたってきました。外からは見えない、裏側の業務です。

果たして自分はどうだろう。ただ与えられた仕事をこなしているだけで、地域の未来につながる仕事ができていないんじゃないか。

守るだけはいけない。守るだけでは地域に希望は生まれない。まちの未来に希望がなければまちは消滅してしまう。

本当にふと、「自分がやらなくてはいけない」と思ったのです。

夕張を立ち上げる前に、自分が立ち上がる必要がありました。環境生活の仕事はチャレンジングでしたが、本当の意味で自分がまちのためにチャレンジしたことはありませんでした。

まちづくり企画室に異動して、人生を変える出逢いがありました。この先輩から、自治体職員としての全てを学びました。

先輩は鈴木市政の全ての企画を実行してきた方で、政策立案力に長けていました。豊富なアイデアがあり、決断力に優れ、住民からの信頼も厚い、僕からするとまさにスーパー公務員でした。

行政の仕事はいわゆる「縦割り」で細分化されていますが、まちづくりの仕事は、産業づくり、施設開発、子育て施策、移住定住施策、観光施策、エネルギー施策など、他部署と連携しながら幅広い分野の仕事を担います。

先輩は会社が何個も必要なくらいの仕事を、ほぼ一人で政策立案することができました。僕は会議に後ろで参加するだけでも頭がついていけませんでした。先輩の背中を見ながら、「こうすればコトが起こせるんだ」と少しずつですが身体に馴染ませていきました。

あるとき、先輩に「若者の学びの場をつくってみないか」と言われました。夕張の未来を担う若者のコミュニティをつくり、力を蓄える場を作れと言うのです。

先輩の言葉は不思議で、できそうな気がしてくるし、構想を練っているだけでワクワクしてきます。

僕は早速、市役所の同期を集めて企み始めました。みんな閉塞感を感じていて、やりがい不足となっていたので、快く協力してくれました。「何もできない」苦しさを知っているからこそ、前に進むエネルギーがあったのです。

僕たちは市内の若者が学び、交流する場として、市民大学をつくることにしました。

その名も『ユウバリシンセイカレッジ』

未来への希望を込めて、「自分たちで創り、自分たちを育てる市民大学」をというスローガンを掲げました。

若者の仲間をつくるために、市内の事業所に勧誘にまわりました。その頃、市役所と民間企業のつながりが全くなく、会社に行って交渉するしかなかったのです。顔つなぎには、先輩も協力してくれました。

しかしそう上手くはいきません。少しでも顔見知りであったなら良かったのですが、いきなりの話だったので「面倒そうだな」と思われてしまったのです。活動もスタートしていなかったので、イメージもうまく伝えられませんでした。

そのため、スタートはほぼ市職員のみとなりました。市職員の中にも温度差が出てきました。

「せっかくスタートしたのだから盛り上げていきたい」

「せっかくの休みを使ってまで乗り気にならない」

どちらの気持ちもわかりますよね。新しいことに取り組んだことのない市職員のみでのスタート。何をやったらどうなるのか想像ができず、いろんな不安でいっぱいだったのです。何度もみんなで話し合い(?)をしながら検討を重ねていきました。

「でも、もうやるしかない」

不安要素がいっぱいありすぎて、もう考えることに疲れてしまって、ダメ元で進めるしかなくなりました。講師も無理やりアプローチして、イベントなんか開いたことないのにイメージで準備して、今考えるとほんと恥ずかしい感じでした。

でも、僕たちの想いは本物でした。

夕張を変えたい。未来を変えたい。財政破綻を打ち破りたいー。

そんな想いが通じて、ほとんどの講師から前向きな返事をいただきました。普段は数百人に向けて講演されている方々が、たかだか10人ほどに講義をしてくれたのです。

そしてスタートしたシンセイカレッジ。
夕張はいつも「再生」を目指してきました。過去の夕張を取り戻すのではなく、今までとは違う新しい価値を作りたい。それで「再生」ではなく「新生」と名付けたのです。

第一回は土屋ホームの現常務取締役の千田さんに来てもらいました。

自分で大学を作って講義を受けたことはありますか?ぜんぜん違いますよ。入ってくる学びが。

僕は講演を聞いてワクワクしたことってありませんでした。それはきっと学びに受け身だったからだと思います。ほんと、今までにない学びが得られた気がしました。

その後も、

・アーティストのまるやまたつやくん。

・校長時代におといねっぷ美術工芸高校を全国的に有名にした石塚教授

・ニセコ町を世界的な観光地に変えた「観光のカリスマ」フィンドレーさん

・平昌オリンピック出場のクロスカントリースキー吉田選手

・グレートトラバース挑戦中の田中陽希さん

他にも、地域の方から歴史を学んだり、夕張の自然体験プログラムを行ったり、楽しみながら学んでいきました。

僕たちは少しずつできることを増やしていって成長していきました。たくさんの方と出会い、知恵を学び、仕事の幅を広げられるようになっていきました。

そんなとき、夕張に転機が訪れます。破綻から10年が経過し、財政再生計画が見直されることとなったのです。

「財政再建」だけでなく、「地域再生」の施策が計画に盛り込まれることになりました。守りだけでなく、攻めの取り組みができるようになったのです。

まさに夕張のRE STARTが始まりました。

次回に続く。

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