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対話道の探究(22、才能とは)

才能の有る無しなんて、誰かに決められたくない。
本人が「自分すげー」「自分最強~」と思うなら、
誰かが笑っても放っておいたらいいと思う。

誰かが「成功している(ように見えた)」と感じると
うらやましくて、自分と比べたくなる。

物心ついた頃から、世間の基準や、周りの評価がつきまとう環境で育ってしまうことが多いと、そうなってしまうのも仕方ない。

「私は何ももってない」
「私には才能がない」
・・・こういうネガティヴワードが
次々にわいてくるのはなぜだろうか笑
(ある意味才能かもしれない)

才能という言葉の解釈はどこからきているのか?

その中身や判断基準は、誰が決めたことなのだろうか?

誰にも縛られずに、もっと自分を認めても良いのではと思っている。
好きなことを、思い存分やりたいだけなのに。

これまでちょくちょく耳にしてきたのが

何もない、という理由(言い訳?)として
「1つのことが続かないから、取り立ててできると言えるものがない」
「飽きっぽくて、1つを極めきれないんです。中途半端で・・・」
という、自分への評価を低めにして、謙遜?とも受け取れる言葉。

その謙遜に、何の反応がほしいのだろう。

謙遜の発信基準となっているネガティヴワード(続かない、飽きっぽい、極めきれない等)は、誰が提示した「才能あり」水準が基になっているのだろうか。

続かないと、何がいけないのか?
飽きてしまう自分のことをどう思うのか?
中途半端の中途ってどのあたりなの?どこまで到達すれば満点なの?

赤ちゃんのときは
声を出しても、手を握っても、笑っても泣いても
みんなが喜んでくれただろうし
どんなことをしても”この子は天才だ”って
周りの人は言っていたはず。

話があれこれ飛んでるけど

天才といえば、マイノリティで優れているイメージだか

一般的に、その他大勢と、ちょっとちがう思考や行動パターンをもつ人に対しては

「変人」のラベリングをして笑ってることってない?

本当は、うらやましいんじゃないかな?

自分も、夢中になったり、集中して取り組むこと
やってみたいなあって。

そう思ったら、周りのことなんてどうでもいいから
早く自分の世界に行こう。

と、自分にも言い聞かせているところ。



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