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11.谷山雅計さんの言葉をあらためて考えてみる

毎日、会社を辞めることを考えていました。CDはなんでもできる人なのに、私はコピーしか書けません。でも、コピーを書く仕事はほとんどありません。コピーなんて書けて当たり前なんだ、自分はその上の仕事をやっているんだ、できないことをなんとかしなくては、といつも焦っていました。そしてSさんを見ると、いつも暗い気持ちになりました。私の仕事は広告制作ディレクションでもなんでもなく、Sさんを怒らせないことでした。Sさんの機嫌を損ねると、何を言ってもその意見は通りません。仕事が進まないのです。帰れないのです。営業とSさんとの板挟みになりながら、どうしてこんなことになってしまったのかといつも考えていました。そしてこの会社に来てから私はなぜか、コピーライティングに関しておかしな考え方をするようになりました。手を動かすのは下の仕事だから、やってはいけない。コピーが書きたいけど、それを仕事でやってはいけない。私はディレクターだから。書かせるのが仕事だから。なんでしょうか、上の仕事、下の仕事って。私は一体、何を考えていたのでしょうか。

ある日私は、谷山雅計さんというとても有名なコピーライターが、後輩コピーライター(いずれも素晴らしいクリエイターの方です)4名と交代で授業をする専門講座が宣伝会議で始まることを知り、申し込みました。課題選考にもぶじ通り、また半年間のコピーライティング講座に通うことになったのです。自分がまだコピーを書けるのか不安でしたが、やっぱりコピーを書きたかったのです。谷山さんの授業は、圧倒的でした。本当に広告を愛している方で、その明晰な頭脳を惜しみなく広告に注いでいました。また生徒たちも、私がコピーライターになる前に通っていたクラスよりもずっとレベルが高く、私が思いつかない角度から素晴らしいコピーがばんばん出ていました。当時の私は30歳。自分で思うよりも、コピーを自由に書けなくなっていました。「言葉だけを考えていて、その広告が効いていく道筋やロジックを考えられていない。」「絵(ビジュアル)に弱く、絵と合わせたパンチのあるコピーが書けない」など、自分の足りない部分がその講座でくっきりと浮かび上がりました(ありがたいことでした)

私は、初めて後悔しました。恋にかまけてもっと仕事を頑張ってこなかったことを。講座の最後に、谷山さんは言ってくれました。「もし、らにしみずさんが20代で博報堂にいて、僕の部下だったらすごく叩いて鍛えたと思います。らにしみずさんは、プレゼンもちゃんとできるし、コピーも一定以上のものが書ける。クライアントに喜ばれる仕事ができているんじゃないですか?でも、社会を変えるようなコピーを書くコピーライターではない。それでも、授業でわりと高い点数ををつけてきたのは、実際の現場で、一緒に仕事するスタッフから好かれて地道に、クライアントから求められるものを作って、仕事で自分を壊さない、人生の“むだな喜び”を後回しにしない。そういうコピーライターがいてもいいんじゃないかとあなたを見て思うようになったからです。若いときはそうは思えなかったけど。コピーライター全員が日本を変えるようなコピーを作る必要はないと思うんです。」

この言葉は、後から考えると金言なんです。さすが広告、そして言葉のプロだと思います。でもその頃は、心で受け止められなかった。私が今の会社に入ったのはステップのひとつであって、これを経てTCC賞をとるみたいな会社にいくのよ! とまだ思っていたからです。だって、やっと恋愛期を終えて(当時の彼氏、すみません)仕事期に入ったのですから。「そのくらいのコピーライターでいいじゃない。それ以上は、あなたには無理でしょう」というアドバイスが、私の心は納得できていなかったのです。何事も、学ぶのに適した時期があります。もちろんそれを逸しても努力次第では夢も叶います。でも私は「仕事も大事。彼氏も大事。友達とも会いたいしおいしいもの食べたい。面白いことしたいしゆっくり寝たい。今までもこれからもそれが私の人生」と思っているのです。それらのなかでちょっと、仕事にエネルギーを割こうかな、ということなのです。しかも、当時は気がつきませんでしたが私が得意と思っていて、書いていると夢中になれるものって、ポスターやCM寄りのいわゆるキャッチコピーではなかったのです。人や企業を取材して、人の良いところを言葉にすることが最も燃えるのです。でも、そのへんも自分で自分のことが、まだよく分かっていませんでした。

家でひとりでご飯を食べながらテレビをつけたらトリプルアクセルを飛べない浅田真央ちゃんのスランプを追う番組をやっていました。それを見ていたら涙が止まらなくなりました。「私は広告業界の真ん中には行けない」ということがとても悲しかった。「今日、私は街で泣いている人を見ました」のようなコピーを書く機会が、一生私に訪れることはないと分かったのです。

谷山先生のところで学んだ生徒たちの何人かは、どんどん成長して広告業界の真ん中へと飛び込んでいきました。有名な賞をとり、名を知られるようになる人も多くいました。でも、その頃の私はコピーも書いてないし、そもそも会社は賞に応募することなど望んでいません。まずクライアントからそんな広告を求められてはいません。ひたすらSさんを恐れながら終電まで私がやっていることは、進行管理と調整でした。一応肩書きはディレクターなのだから、自分でコピー書いて制作会社に渡しちゃえば、という考えもよぎりましたが、そのコピーをまずSさんに確認しなくてはと思うと私の思考は止まりました。何がどうなっても、Sさんと接触するのがいやでした。それに、制作会社や協働する人たちにとってひたすら面倒なSさんを見ていたら、私はもう「仕事のじゃまをしない」「いるかいないか分からない」くらいの入り方がベストだと思うようになりました。

仕事量自体も多かったのですが、社内には早く帰れない空気がありました。Sさんは、たとえ仕事がなくても遅くまで残って、残っている人に話しかけます。若い女性で、Sさんに食事に誘われる恐怖で仕事が手につかなくなった社員もいました。誰に相談しても「あの人やばいよね」と同意はしてくれましたが、どうすることもできないというのが会社の空気でした。きっとSさん寂しいんでしょうね、と愚痴り合うしか手立てがありませんでした。私が21時に帰り、翌日シフトを使って10時に来た日、私がやらかしたミスに対してSさんは「プライベートで何があったか知らないけどさあ!」という怒り方をしました。すごく気持ち悪かったです。早く帰って(21時ですよ?)素敵な男性と美味しいご飯を食べてみっちりセックスをしているからぼうっとしているとでも思ったのでしょうか。連日の深夜残業で頭は朦朧としていました。しかしミスはミス。怒られるのは仕方ない。謝るしかありません。ちなみに、ミスをした場合は怒られるのみでフォローなどは全くありません。(しつこいですが、この人私の上司ですよ?)「らにしみずのせいで。」と他のスタッフに堂々と言うSさんでした。「この人はみなさんより下のレベルですよ、つまり俺よりは明らかに下ですよ」というマウンティングをしているように見えました。

2009年頃、ハードワークとストレスがたたり、腰の椎間板ヘルニアになり2週間休職することになりました。私の様子がおかしいことに私より先に気がついたのは、のちの上司となるノジリさんでした。「知り合いでうつになったコピーライターがいるんだけど同じ目をしてる」と言われ、Sさんの暴言がつらいことを話すとすぐに休むようアドバイスをしてくれました。

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