私が文章を書く理由 前編

幼い頃から、本を読むのが大好きだった。

私の記憶の中で1番古くて、1番印象に残っている本は、幼児向けの文字のない絵本だ。その絵本は、「セリフがない絵本なので、お父さん・お母さんは自由にストーリーを作って読んであげてくださいね」という趣旨だった。

その絵本は私にとって大変お気に入りで、親類のいろんな人に読むようにねだった。
母が読む絵本のストーリーはザ・王道で、安心して物語に没入することができた。
父が読む絵本は、すぐに結論に至ってしまうので退屈だった。
叔母が私には2人いるが、どちらの叔母も、読んでくれるお話は奇想天外、アッと驚いたり、怖かったり、大笑いしたり、しまいには2人揃って私の脇をくすぐるという実力行使までして、笑わせてくれた。

文字を覚えてからは、小学校の蔵書を貪るように読み耽った。
特にお気に入りだったのは、ハリー・ポッターやダレン・シャン、デルトラクエスト、ダイアナ・ウィン・ジョーンズが描く魔法の世界の数々。

はたまた、水木しげるが描く妖怪大図鑑、幼い私では難解だった手塚治虫の著書(私の通う小学校に唯一置いてあった漫画が、手塚治虫の火の鳥とブラックジャックだったのだ)に没頭した。

ある日は、赤川次郎の三毛猫ホームズシリーズでミステリのハラハラ感に魅了されたりもした。
本の海に溺れながら、かつ友達とドッヂボールに勤しむことも忘れず、我ながら快活な小学生女児であった。

大量の活字に溺れる女児は多くの知識や他人の空想を摂取し、次第に自分だけの世界に浸る事が増えた。
そのうちに、自分が満足するだけでなく、空想を文字に落とし込んで形にしてみたくなった。

私が初めて、空想を形にして、他人に共有したのは中学生の頃である。
今にしてみれば、ひどい、ひどすぎる。あまりにも拙い設定と、拙い文章で、頭の中の空想の1割もアウトプットできていないと言い切ることができる。

それでも、それらは私の青春であった。朝から晩まで取り憑かれたように自分の創造したキャラクターのことを考え、私の頭の中にしか存在しないストーリーを形にすることに没頭した。

そのうちに、私の空想を面白いと言ってくれる絵の上手な同級生が現れ、A3のルーズリーフにシャープペンシルで綴った空想に、その同級生が挿絵を描いてくれた。

私には絶望的に絵心がない。なおかつ絵が上手になりたいと願う向上心もなかったため、同級生の描いてくれた挿絵にいたく感動した。私自身ではなく、私の生み出したキャラクターたち、私の考えたストーリー、私が面白いと思った事柄が初めて他人に理解してもらえた気がして、本当に気分が良かった。

当時インターネットにも触れてこなかったので、自分が楽しんで、周りの数少ない友達に読んでもらうだけ。ただそれだけだったが、私は確実に、「自分が何かを創り出す喜び」に快感を得て、取り憑かれたように文章を書いていた。

逆に、私の高校時代は停滞と言えよう。
何やら背伸びをしたくなって、高校1年生の部活動を選ぶ際に、性分に全く合わない運動部を選んだ。私という人間は、背丈はそこそこにあったが、走り回ったり誰かと連携することはてんで苦手である。とにかく苦痛な日々だった。

それでも高校の3年間、運動部を辞めることはできなかった。1度自分がやると決めたものをたった3年続けられないだなんて、ダメな人間のすることだと思い込んでいたからである。それから、内申点にどんな影響があるのかも分からないので、私はいろんなものが人質にとられたような状態で、好みもしない運動部に所属し続けた。

運動が苦手なのに、運動部とはこれいかに。私の体力は毎日ごっそりと削り取られ、文章を書く暇も本を読む暇もなく、練習で疲れた体を引き摺って学校の課題をこなす日々を過ごした。

本当に久しぶりに「創作をすることの悦び」を思い出したのは、確か大学2年生の頃だった。
大学は文学部を選んで進学した。経済や経営、心理、法学など、選択肢は多くあったが、文学以外に4年の時間を費やすほどの興味を持つことができなかったためである。

文学部の中でも、たまたま私は変わった学科を選んだようであった。言語での表現なら何を勉強してもアリ、という学科である。
映画の勉強、喋り方の勉強、方言の勉強、文章の書き方の勉強、さまざまな授業があったが、シラバスの中に「創作」という授業があった。

その授業では、作家をしている一般の方が講師であった。授業内容は、小説や漫画、演劇、その他さまざまな表現におけるストーリーやキャラクターの作り方について学ぶことができる、というものだった。ただ、朝9時から始まる授業だったため、あまり人気のない授業のようで、講義に出席する生徒はそう多くなかった。

テスト期間に差し掛かった時、講師はこう告げた。どんなテーマでもいいから、まずは2,000文字以内で小説を書いて提出する様に。学期末に提出した小説の出来如何で評価が決まる、これまでの出席日数は評価に反映しない、と。

この時点で、愚痴を言いながら単位を諦める生徒が全体的の3分の1はいたと記憶している。おそらく、「出席日数は評価に反映されない」という部分だけ同じ学部の先輩から聞いて受講していた輩だろう。

その一方で私というと、非常に興奮していた。
もはや単位がもらえるかどうかなどどうでも良くなっていた。自分の空想を文字に落とし込んで、評価までされるなんて機会は生まれて初めてだったのだから。

私は夢中でキーボードを叩き、実に6年ぶりに創作をした。
煙草の香りに憧れる少女が、処女喪失とともに喫煙を始め、様々な夢想から覚めてしまい、虚しい気持ちを抱いたまま眠りに着く、というストーリーだった。

評価の結果は覚えていない。そんなことはもうどうでも良くて、自分が本当に好きなことを思い出して、それを形にできて、かつ誰かが確実に読んでくれたことが、絵も言われぬ快感であった。


それから、時が経って。
大人になった私は、とんでもないブラック企業に就職した。
この就職先は「社員は社長の家族」と称して洗脳をし、2LDKのマンションに4、5人の社員を共同生活させた。仕事もとんでもない量で、私は毎日3時に寝て、朝も早く起きて労働時間に含まれない朝のミーティングに出席し、休みも返上して働いていた。

それが普通だと思っていたし、私はこれによって人としての成長を遂げていると思い込んでいたのだ。人のために体を壊す寸前まで働いて、パワハラに耐え、飲み会のセクハラ紛いの上司の言葉に手を叩いて笑い、神経をすり減らすような日々を過ごしていた。

「これはおかしいな」と思ったのは、それから3年経ってからのことだった。突然東京に転勤命令がでて、さらに東京で仕事をし始めて丸1年経ってからだった。

一念発起して、私は転職した。ブラック企業の上司からは「人でなし」「裏切り者」「不義理な行為」扱いをされたが、このままこの会社に居続けたら、私は本当に人で無くなってしまうと思って、とにかく必死だった。

転職した先は、私の大切な友達が紹介してくれた会社だった。
この友達のことを、アカリとする。アカリは大学で同じ文学部、同じサークルに所属していた。大学卒業後はしばらく疎遠になっていたが、ある時同じ関東に住まいを移していることを知り、それからは時々連絡を取るようになっていた。

アカリも、かつてブラック企業を引き当て、職場を転々としていた。そのため、私は転職の相談をアカリにしていた。
何度か転職について話をするうち、アカリは「北上、うちの会社に向いてると思うんだよね」と言った。

アカリの属する会社は、とてもいい会社だった。
私はいたく気に入って、紹介を受けたその日のうちに面接に行き、転職を決意した。

営業として、私はアカリと同じ会社に転職した。
しばらくのうちはうまくいっていた。
忙しい日々だったが、前のブラック企業と比べれば天国だった。セクハラもパワハラもない。残業は減り、給料も上がった。そのかわり、自分の負う責任は増えた。

とにかくがむしゃらに仕事をしていた。
私にとっては人生においての新天地であったし、「拾ってもらった」という恩義があった。

頑張った分の成果が徐々に見え始めた時、
新型コロナウイルスが蔓延し始めた。

会社では営業活動縮小、在宅勤務の実施という方針が決まった。
私は営業職兼、他部署の業務も請け負うことになった。

誰にも会わず、毎日時間になったら自宅でPCに向かい、1人で黙々と仕事に取り組む日々が続いた。

必要最低限のやりとりだけを社内SNSで行い、時々オンライン会議に参加する。こんな時世なので営業もうまくいかない。新しく請け負った仕事にも全く慣れない。気が滅入るニュースばかりが目に入る。

顔が見えないまま仕事をし続けていたら、やたら人からの評価が気になるようになってしまった。今私が送った資料を、他の人はどう思うだろうか。私の提案は浅はかだっただろうか。メールの内容は素っ気なかっただろうか。ここで改行するのはおかしくなかっただろうか。今私は誰にどう思われているのだろうか。


そんな風に、仕事を続けてしばらく経った頃に
突然文章が読めなくなった。


文章が読めないというのは、比喩でもなくそのままの意味である。
仕事のとある記事を書き上げたがリテイクを喰らい、その見直しをしている最中のことであった。

文章を目で追っても、頭に全く入ってこなくなった。

何度読んでも目が文章の上を滑るだけ、というのが正しいか。
何回、何十回と文章に目を通しても、書いてある意味が全くわからない。自分が何度も推敲しながら書いたはずの記事の内容の意味が、全く理解できなかった。

平仮名や漢字の読み方はもちろんわかっている。だが、そこにどんな文章が書いてあって、その意味が分からなくて、何度も何度も同じ行を読み、また頭に戻り、また意味が分からなくて最初から読み直して、その繰り返しを何度も何度も繰り返した。

それでも記事の修正はできるだけ早く終わらせなければならなかったので、焦りながら何度も何度も読み直した。1時間ほど時間をかけたが、結局一行も読み進めることはできなかった。

気づけば、呼吸が浅く、早く、息苦しく感じるようになっていた。
ようやく私は、「なんだか今日はいつもよりおかしいな」と思い始めた。
特にこの1週間はずっと調子が悪かった。やることは山積みなのに思うように仕事が進められなかったり、いつもならできるはずのタスクにつまづく事が多くて、その一環かも、と思い、気分転換のために他のタスクに手をつけることにした。

次に始めたタスクは、Excelを用いた、データの集計と表の作成だった。そう難しい作成物ではない。いつもなら、そう、いつもなら15分もあればできるような簡単なタスクを片付けて、タバコでも吸って、さっさと記事の修正に戻ろうと思ったのだ。

その簡単なはずな仕事も、非常に困難を極めた。
まず表のレイアウト作成に30分ほどもかかった。そこから体裁を整えて、数字を入れて、崩れた体裁を整えて、やっぱり体裁が気に入らなくてもう一度やり直して、結果完成するまでに所有した時間は、1時間を超えた。

私はほとんどパニックに陥っていた。
なんでいつもできていることができないのか?こんなのおかしい、いつもの私じゃない、これは何か理由があるはずだ、こんなのはおかしい。いつもなら、もっとできるはず、こんなのは私じゃない、こんなのは普通じゃない。早く元に戻らないと。でもできない、おかしい、おかしい、こんなの変だ、こんなことはあってはならない、私はもっとできるはず。

喉の奥から胃の中まで、みっしりと綿が詰め込まれたように息苦しくて、首の後ろがカーッと熱くなり、目の前がグラグラと揺れた。

夕方に差し掛かり、部屋は薄暗くなっていた。
突然、社用携帯が鳴った。当たり前だ。私は営業なのだから。
私はスマートフォンのバイブレーションにひどく怯え、大いに迷った末に、平静を装いながら応答した。
担当していたお客様の、私が1度も話したことのない、上役の方から、いわれのない糾弾の電話だった。

その電話の内容は、今はもうほとんど覚えていない。
その時はなんとか電話を切り、誰か別の人に謝りながら対応を依頼して、社用携帯を片手に持ったままで、家のフローリングにぺったりと座り込んだ。

ボロボロと目から涙が溢れている事に気づいたのは、そこからまたしばらく時間が経ってからだった。

一刻も早く死にたいと思って、気づけば台所に立っていた。
包丁もある。ガスもある水道もある。台所は自分の家の中で、最も死に近い場所だと考えていたからだと、今ならわかる。

目の前がぐらぐらと揺れていた。
気力を振り絞って、今日これから受診できる心療内科を探し、泣きはらした顔をマスクで隠しながら病院へ行った。

そこでは1時間ほどの問診と、木の絵を描く心理テストのようなものを受け、適応障害と診断された。

私はすぐに全ての仕事の引き継ぎを行い、3ヶ月の休職となった。


長くなるので後編に続けます。
後編はこちら
https://note.com/kitagami_/n/ne9618e7e3f23

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