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分かりやすさは必ずしも正義じゃない

何事も、難しいよりは分かりやすい方がいいという風潮があります。
仕事では話が分かりにくいと注意されます。
作成した資料が分かりにくくても注意されます。
プログラミングでも分かりにくいプログラムを作成すると周りからは嫌がられます。

何かを勉強するときの入門書や入門動画も分かりやすい方が人気があります。
特に、マンガでの入門書など、読みやすいものは人気があります。
テレビ番組でも難しいものを分かりやすく解説してくれるものは人気があります。
講師や先生でも分かりやすい解説をしてくれる人は人気があります。

確かに、私自身何かを学ぶときは分かりやすい教材から入ることが多いですし、講師として人に何かを教える時は、できるだけ分かりやすく教えることを心がけています。

ただ、最近になって思うようになったことがあります。
それは、人に教える時、常に分かりやすく教えるだけではだめなのかもしれない、ということ。

何かを伝える時、教える時は、分かりやすくして伝えたほうが確実に伝わりやすいし、相手には喜ばれます。
しかし、常に分かりやすくして教えていると、何事も分かりやすいものでないと理解できなくなってしまうのではないか?
と思うようになりました。

何事も、深い話をしようとすると、内容がそれなりに難しくなってきます。
様々な前提条件を知っていないといけないし、文脈から色々読み取る必要が出てきます。
そうなったとき、分かりやすいものからしか理解しない癖がついていると、難しい話になった時に理解することを拒んでしまうようになるのではないかと。
常に分かりやすさを求める人には、そこを危惧してしまいます。

難しいものは難しいなりにも、どうにか理解しようという努力をして自分なりに理解する。
誰にでもそういう姿勢が必要だと思います。
分かりやすいコンテンツが人気があるのはよく理解できます。
ただ、それで分かりやすいものしか求めない人が増えてくると、難しいものを理解しようとする人がどんどん減っていってしまうような気がしています。

私は講師として人に教える仕事をしていますが、何かを教える時、人によって、あるいは内容によっては、分かりやすくかみ砕いて説明することをせずに、あえて難しいまま伝えて考える訓練をさせることも必要なのかもしれない。そう思っています。
難しい話ばかりしていると、そもそも興味を持ってもらえなかったり、楽しんでもらえなかったりするので、基本的には分かりやすく話すことを前提として、バランスを考えながら時にあえて難しいことを難しいまま伝える。
そのようにしたほうが人に合わせた教育ができるのかもしれません。
教える人数が増えれば増えるだけ、人に教える仕事の難しさと奥深さを実感します。

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