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情報を発信することの罪悪感

最近、noteやブログなどで情報を発信するとき、罪悪感を感じることがあります。個人の体験や経験を元にした、私にしか話せない・書けないような情報であれば、それほど抵抗はないです。ですが、知識やノウハウを紹介するような記事を書くときには少し罪悪感を感じる。

普段はプログラミングに関する仕事をしていますが、プログラミングではDRY原則という考え方がある。Don't Repeat Yourself の略で、日本語だと「繰り返すな」という意味。柔軟性の高いプログラムを書くためには、自分が書いたプログラムをコピペする(同じコードを繰り返し使う)ことをせずに、再利用できるような形で作ろうという思想。本格的にプログラミングをしていく上ではとても重要な考え方。

長年プログラミングに関する仕事をしてきてこのような考え方が染み付いてしまったせいか、インターネット上に既に存在しているであろう情報を後出しで発信するのは、少し抵抗があります。インターネットからすると「その情報は既に誰かが書いてた。同じ内容のこと何度も発信するんじゃねーよ。」という気持ちなんじゃないかと思う。ただでさえ情報が多すぎて常に取捨選択が迫られる現代において、他の人でも発信可能な情報を発信することは、情報を選択する負担を増やしているだけなのかもしれない。

特に、プログラミングなどの技術にまつわる情報においては、初心者向けから上級者向けまで、多くの書籍が出版されているし、ブログや動画コンテンツでも既に多くの情報が発信されている。何ならプログラミング系の技術は、その技術を作った組織の公式サイトにほぼ全ての情報が載っていて、それ意外に他の誰かが情報を発信する意味があるのだろうか?と思うことすらある。

ただ、公式サイトの情報は表現が堅苦しかったり、サンプルの数が少なかったりと、初心者にはわかりにくいものになっていることも少なくない。なので、わかりにくい表現になっている情報を初心者にもわかりやすいように噛み砕いて説明してあげるような情報発信は、一定の価値を持つのかもしれません。

とはいえ、わかりにくい情報を避けて分かりやすい情報ばかりを求める人が増えれば増えるほど、人類全体の思考能力は低下していくと思うので、分かりやすい情報を発信することが良いことなのかどうかも最近は少し疑っている。

情報を発信することの目的の一つに、自分用のメモ、あるいはログを残すという目的もあるかと思います。それはそれで、インターネットの活用方法としては賢い使い方だと思う。ただ、その発信した情報が誰にでも見れるような情報である場合、見ている人にとっては情報の選択肢が増えて、少なからず他人の時間を奪っている可能性もある。自分のメモ・ログ用のツールとしてネットを活用する場合は、利用するサービスの趣旨とあっているかどうかを検討する必要があるでしょう。

誰かに見てもらうことを前提とした情報を発信する場合、
・自分だけの経験や感性を元にしたオリジナルの情報になっているか。
・知識やノウハウを分かりやすく噛み砕いて発信する場合は、見ている人に自分で考える余地を与えているか。
こういった点を意識することが、情報発信者のマナーなのかな、と思います。

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