見出し画像

桐生悠々が「関東防空大演習を嗤」った後の話

最初はウィキペディアに載っているようなことを書きますけど。
・桐生悠々(1873-1941)はペンネームです。本名は政次(まさじ)
・下野新聞→大阪毎日新聞→大阪朝日新聞→信濃毎日新聞→新愛知新聞(現・中日新聞)→信濃毎日新聞→フリーランスという経歴の新聞記者
・代表的な仕事として真っ先に挙げられるのが、2度目の信濃毎日新聞勤務時、主筆として発表した「関東防空大演習を嗤ふ」(当時の表記)。青空文庫に全文あり

・何がありがたがられているかというと、軍部批判のタブーに真っ向から抵抗した形になったところ(面倒な言い回しにした理由は省略)
・私が彼を知ったのは中学生のころ読んだ岩波新書でした

・お、山本夏彦も桐生悠々を書いてるんだな、と気付いたのは高校生のころに読んだ文春文庫版

・最晩年の新書企画でも夏彦翁は悠々に触れているので、よほど気になる存在だったことが分かります

信濃毎日新聞はエラい、時の権力にさからって正論を掲載して。
それに引き換え大新聞は。
みたいな感想が間違いとは言わないまでも-という注釈をネットに放流しておこう、と思ったのは上掲書籍群が入手困難なうえ「桐生悠々 関東防空大演習」で検索して出てくるテキストが、桐生悠々のその後を伝えるのにあまり熱心には見えなかったから。
例外は2010年8月8日の日経新聞「戦争と言論人 足跡を訪ねて(2)」という記事ぐらいかな。信濃毎日新聞に桐生悠々のことを聞きに行って、なかなか読み応えがある。

権力に敢然と立ち向かった立派な記者がいたという誇らしい気持ちと、軍の圧力に負けて彼を守りきれなかったジャーナリズム企業としての敗北感の両面がある」と同社専務の小坂壮太郎さん(48)は語る。
悠々が主筆時代、「経営は編集に介入せず」の方針のもと、オーナーである小坂順造社長、弟の武雄常務(のちに社長)は、悠々の社長批判の論説でさえ容認した。壮太郎さんは武雄常務の孫だ。その小坂家が悠々を切らざるを得なかった痛恨事があった。

さて、ここからは前出3タイトルにおける、小坂家のいわゆる「痛恨事」および桐生悠々のその後。
まず井出孫六『抵抗の新聞人 桐生悠々』(岩波新書)から。

両三度、小坂武雄(引用者注:当時の常務。兄である社長、順造は旅行中で不在であったため社としての責任者だった)は松本に足を運んで郷軍幹部と話しあったが、「桐生を処分すべし、然らざれば貴族院議員小坂順造氏にも累を及ぼすべし」といったことばが浴びせられるだけで議論の余地はなかった。小坂は山下奉文を介して陸軍新聞班長鈴木貞一に面会し、桐生もまた四高時代の旧友陸軍大将阿部信行を介して新聞班長と折衝したが、事態は打開できなかった。
郷軍同志会最高顧問倉島富次郎(少尉)らの「もはや、日を過ごしているときではない。飽くまでも不買運動にまでは発展せしめないよう、われわれが、同志会首脳部に説得するから、自発的な判断によって速かに」との処断の決行をのぞむ勧告をいれて、ついに九月二十日、信毎は次のような謹告をもって謝罪文に替え、かろうじて三沢背山(引用者注:編集長)の辞任だけはくいとめた。しかし抗うことのできぬ敗北であった。

八月十一日付本紙朝刊に掲載せる関東防空大演習に関する論説は、不注意に出ずるとは乍申、結果において、不謹慎に陥り恐縮に不堪、依て筆者桐生政次は自ら退職し、編集長三沢精英(背山)は編集上の責を負いて一週間謹慎し、常務取締役小坂武雄亦監督不行届の責を負い謹慎して、以て恐縮の意を表す。(太字は引用書籍における傍点箇所)

続いて、山本夏彦『笑わぬでもなし』(文春文庫)所収「関東防空大演習を嗤ふ」から3か所。

[1]

当り前なことを当り前だと書くのは、今も昔も勇気が要る。大新聞が書かないことを、地方新聞が書くから、大新聞は見ないわけにはいかない。
「関東防空大演習を嗤ふ」というタイトルを見ただけで、大新聞の記者たちは息をのんだことだろう。その日のうちに噂はひろがり、争って読まれたことだろう。風のたよりで私がそのうわさを聞いたのは、昭和十年代も半ばになってからのことである。

引用者注:「昭和十年代半ば」、山本夏彦(1915-2002)は20代。

[2]

嗤うという字が、読者を狂喜させたということは、前に述べた。読者を狂喜させたぶんだけ、軍部を怒らすことを悠々ほどの男が知らないはずはない。
ジャーナリストというものは、読者の反響をあらかじめ心得て書くものである。防空演習を嗤えば、読者はどのくらい喜んで、軍部はどのくらい怒るか、読者は何もしてくれないが、軍部は直ちに報復するだろう。(中略)くどいようだが悠々が防空演習を笑ったその笑いは、一回しか笑えない笑いである。直ちに軍人に報復されることは悠々も予期していただろう。二度とは笑えぬと知っていたのである。

信濃毎日新聞が初め抵抗した様子は、井出孫六著書の引用部参照。

[3]

あのとき、大新聞が助けなかったことをとがめるものがあるが、大新聞ばかりでなく、人はこういうとき誰も助けない。戦前だから助けないのではない。戦後も助けない。以前も今もこれからも助けない。

今回ものすごく久しぶりに読んで、ここで泣いたんですよねー。
え、ああ、そうね。俺は今、とても疲れている。

最後、『誰か「戦前」を知らないか』(文春新書)。山本夏彦が自社の社員をお相手に昔ばなしをする形式でまとまっていて、いちばん分かりやすいテキストだと思います。2か所、紹介します。

[1]

信毎の社員は地もとの人です。はじめは痛快がっていたが次第に微妙に変化した。悠々は中央から招かれた大記者です。追われても拾ってくれる大新聞がある。地元の社員はそうはいかない。これまで味方だった社員は敵に回った。この時悠々は六十一です。もう主筆に迎えてくれる新聞社はない、悠々も宮仕えはしたくない。六男五女の子沢山で衣食のために個人雑誌を創刊した。「他山の石」という雑誌を出して会員を募った、桐生の名はそのころとどろいていたからはじめ四、五百人が会員になってくれた。
一部五十銭、別に賛助会員、それで暮せると創刊した。個人雑誌だから自由な発言ができると思ったら、いいかいここに不思議なことが起こるんだよ。
会員は当然減る、送金するのは面倒だ、悠々の説は時代ばなれに聞えてくる。賛助会員はぺらぺらな雑誌、五十銭でも高いのに一円以上五円も毎月出すのがいやになる、悠々を養ってるような気分になる。個人雑誌だからですよ。

[2]

悠々の誤算でした。今になって悠々をほめるのはラクですよ。桐生がこんなにもてはやされたのは戦後正宗白鳥が桐生の死を遅ればせながら弔ったからです。白鳥は桐生の友でした。
彼を戦争に抵抗した言論人だって、崇めたりなんかした。戦後、ああいうことを言う奴は恥しらずです。そんならそのとき言え。一銭でも出せ。出したら今度は恩に着せるな。

病床が不足し、適切な治療を受けられずに亡くなる人が後を絶たない。医療従事者に過重な負担がかかり、経済的に追い詰められて自ら命を絶つ人がいる。7月23日の五輪開幕までに、感染状況が落ち着いたとしても、持てる資源は次の波への備えに充てなければならない。
東京五輪・パラリンピックの両大会は中止すべきだ。

オリンピック開催強行をとがめる社説を信濃毎日新聞が掲載する、それを読んで感激したひとたちがさすが信毎、軍部からの怒りをモノともせず「関東防空大演習を嗤ふ」を掲載した歴史あるメディアだけのことはある!
……ってホメるのは別にいいんですけど、あの、ちょっといいですか。
桐生悠々を喝采するだけ喝采して、彼が新聞社を追われたときに助けようとしなかった世間と今の俺たち、カブってるよ?
それを責めるつもりはさらさらないけど(だって自分も、どう考えても「世間」側だから)せめてその自覚は持っておきたいと思うんです。思うだけで別に何もしないけどな! 

上述の通り、桐生悠々は信濃毎日新聞退社後、8年の間、同人誌を出し続け、最後は喉頭癌に倒れました。いまならYouTuberで食えるのかもなあ、って思ったりします。
あと、これ言ったからって俺に何の得もないんだけど、信濃毎日新聞は月額税込み330円で「信毎webプレミアム会員」になれるよ。
ちなみに、毎週外国人就労関連ニュースって記事をクリップしている関係で2月に有料会員になったんですけどね、「五色のメビウス」って企画が終わったら退会しようと思っているのにぜんぜん終わりそうになく(良い連載なんだこれが)ちょっと困っているところ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?