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聖アンデレ(1-C) 聖トマス

聖トマスは、12使徒の一人です。聖書の記載では、バルトロマイやマタイと同じ第4グループとして登場しています。

出身地などについての記載は、聖書にはなく、他の文書でも、まだ見つかっていません。

聖書にあるエピソードからは、彼の直情径行な性格が伝わってくるように思われます。

ラザロの物語(ヨハネ福音書11:1~16)では、イエスがユダヤ地域を訪問すると聞き、「先生の命が危ない。わたしたちも行って、先生と一緒に死のうではないか」と他の弟子に語りかけています。イエスの復活にあたっては、遅れて立ち会ったメンバーでしたが、「わたしはその手に釘の跡を見なければ、そして、わたしの指を、その釘の場所に差し込まなければ、手をその脇腹に差し込まなければ、決して信じない」といい、自らイエスの手や脇腹を確認しています(ヨハネ福音書20:25~27)。またグノーシス文書には「闘技者トマスの書」という題名の書物も残されています。

トマスは、「双子のトマス」(ディディモ・トマス)と言われています。これをユダと双子とするのが後代の教説です。しかし、イエスを尊敬し心酔した「イエスのそっくりさん」だったという可能性も否定できません。このことは心にとどめておいていいと思います。

トマスは、建築家の守護者としても知られています。これは、彼が、イエスと同様、テクトンだったためです。

ハバンがユダ・トマスに言った。
「おまえが得意としている技術は何なのか。」
トマスは彼に答えた。
「木工、石工と建築。大工の仕事です。」
商人ハバンが彼に言った。
「木では何のつくり方を、石切りでは何のつくり方を知っているのか。」
トマスがハバンに言った。
「木では、鋤とか枷とか(家畜などを駆るのに用いる)突き棒とかボートの櫂とか船のマストと滑車とか、また石では、墓石とか記念碑とか神殿とか王宮とかのつくり方を学びました。」
                (使徒ユダヤ・トマスの行伝、第4節)

(使徒ユダヤ・トマスの行伝、第4節)

王宮をつくっていたということが真実とすると、トマスはイエスと同様、大都市セッフォリスでの都市建築にかかわったテクトン仲間だった可能性が考えられます。

イエスの死後は、一時期、カイサリアにいて、インドに布教に行ったという伝説(ウォラギネ『黄金伝説Ⅰ』p.91以下)もありますし、また、パルティアへの布教担当になった、とも言われています(エウセビオス『教会史』3:1)。ここでいうパルティアには、2種類のパルティアの可能性があります。アルサケス朝パルティアであれば、現在のイラン・イラク・シリア周辺を支配していました。西側には、ティグリス川・ユーフラテス川の流域も含まれています。ここから独立したインド・パルティア王国であれば、インド北部やアフガニスタン周辺を支配していました。

亡くなった場所は、インドのカルミニアだとも言われますが、そのカルミニアがどこかは分かりません。なお、このカルミニアがカルマニア(Karmanía)のこととすれば、現在のイランの中東部エリアにあるケルマーン州のこととなり、聖トマスがパルティア周辺を活動エリアとしていたということと整合します。

なお、インドに伝わっている伝承では、聖トマスは西暦50年頃に南インドの西海岸(いまのケーララ州)のコドゥンガルールに到着。52~53年頃に、南インド東岸(タミルナードゥ州)の都市チェンナイに移動します。ここでバラモン教徒に槍で刺され亡くなったと言われています。コドゥンガルールにもチェンナイにも聖トマス教会を建てた、と言われています。(そして、両方とも、現存しています。実際、いつ出来たか判然としないほど古くからあるということです。)また、亡くなったとされる丘(標高91m)では、1547年に、中世ペルシャで使われたパフラヴィー文字と十字架の刻まれた石碑が発見されています。

布教場所の特徴

聖トマスの布教の範囲は、とにかく広いのが特徴です。トマスがインドに亘ったのが、西暦50年前後ということは、イエスが亡くなったとされる西暦30年頃から20年近く、カイサリアやパルティアなどで過ごした、ということになります。

布教の中心が、カイサリア(地中海沿岸の港町)、タキシラ(インド・パルティア王国の首都。交易都市。ガンダーラ美術発祥の地)、ディアルバクル(ティグリス川上流にある港町)、コドゥンガルール(インド西海岸の貿易港)、そしてチェンナイ(インド東海岸の貿易港)であったことから、交易の中心地での布教に熱心だったことと、エルサレム神殿にはまったくとらわれていないことが分かります。

カイサリアにいたという一点だけをとって見ても、聖トマスは(カイサリアにいた聖フィリポなどに近い)アンチ・エルサレム派(ヘレニスト)だったと考えることができるでしょう。自分だけがイエスを守って半死半生の状態になったという矜持があるため、イエスを守らずに逃げ出した弟子たち(ヘブライオイ)への反発もあったでしょう。他方で、イエスによるエルサレム神殿との対決に同席したことから、ユダヤ人であったことも分かります。

カイサリアでの布教

カイサリアでの布教については、記録がないため、詳細はよく分かりません。聖人伝説は、カイサリアにいたときに、イエスのお告げでインド行きを決意したと伝えています。

使徒トマスがカイサリア市にいたとき、主が彼のまえにあらわれて、こう言われた。
「インド王グンドフォルスが、とびきり腕の立つ大工の棟梁を探させるためにアッバネスという家令を寄こしています。だから、立ちなさい。あなたにインド王のもとに行ってもらいたい。」
        (ヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説Ⅰ』p.91) 

(ヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説Ⅰ』p.91)

インドでの布教

最初の布教の拠点を築いたコドゥンガルールは、ローマ帝国時代から、胡椒(こしょう)の積出港として栄えていました。当時、インド洋ではアラビア人を中心に、季節風(春夏の南西モンスーンと、秋冬の北東モンスーン)を利用した海上交通を利用した海上交易が盛んにおこなわれていました。(80年頃にアラビア人からローマ商人ヒッパロスに航海に必要な知識が伝えられ、爾後モンスーンは「ヒッパロスの風」と言われました。また、例えば、大航海時代のポルトガルの探検家ヴァスコ・ダ・ガマの『インド航海記』でも、コドゥンガルールは、「コレウ」という名前で、キリスト教徒の国として紹介されています。) 

コドゥンガルールの聖トマス教会は、現在は、聖トマス・カソリック教会(Mar Thoma Pontifical shrine)となって存続しています。

そして、聖トマスの殉教の地チェンナイは、タミル・ナードゥ州の州都で、インド有数の世界都市として知られています。ここにも聖トマス教会があり、聖トマスの墓があります。 

チェンナイについては、ここに記載する必要もないでしょう。1639年にイギリス東インド会社が土地を取得し、1640年にセント・ジョージ要塞を建設。以降「マドラス」(Madras)として知られてきましたが、1996年にチェンナイに改名されています。「南インドの玄関口」「南アジアのデトロイト」「インドの健康首都」「インド銀行業の首都」の異名を持ち、今では、自動車産業、情報技術産業、ビジネス・プロセス・アウトソーシング業などが盛んな都市に発展しています。

さて、インドには聖トマスの教えは、(後代に、ローマ帝国で国教化されたときに発生した教義などの影響を受けずに)そのまま伝わっているのでしょうか。 

結論から書くならば、判断材料がなく、分かりません。

インドは古くから貿易・交通の要所でしたので、キリスト教にもさまざまな種類があります。

例えば、西暦345年に西アジアから移住してきたクナイ・トマンは、商人としてインドを訪れた際に、木製の十字架を身に着けキリスト教徒を自称する人々に出会っています。しかし、クナイ・トマンの目には、イエス・キリストの名を騙った異教信仰のように見え、そこで、エデッサ(トルコ領内)にある東シリア教会の主教の協力を得て、東シリア教会を建て、彼の信じる「真のキリスト教」を広め、聖トマス派の改宗・教化に努めたとされています。(この時の信者は、クナナヤ・クリスチャン、またはシリアン・クリスチャンと言われます。)

その後、大航海時代になり、ポルトガル人たちによって、イエズス会の信仰がもたらされます。日本などにも布教したフランシスコ・ザビエルが、南インドでの布教にも熱心に取り組み、ラテン・カソリックを広めていきます。当然に、伝統的なシリアン・クリスチャンに対し、イエズス会による「真のキリスト教」への改宗も強制されていきます。こうして、それぞれの「真のキリスト教」の間で、教徒同士が衝突や分裂、または融合等を繰り返していくことになります。

こういった事情がありますので、聖トマスの時代からの系譜はあるにしても、現代にも伝わっているものと伝わっていないものと両方あるはずですが、それが何かを現在のわれわれが判断することは困難なのです。

それにしても、クナイ・トマンの目に映った「キリスト教を名乗る異教信仰」が何だったかは分かりません。現地の宗教や神様(可能性の一例として、名前が似ており世界復活を担当するという共通機能をもつクリシュナ神など)との習合もあったことと思います。ここでは、一旦、インドに伝わっていた初期キリスト教(つまり聖トマスの教え)には、現在のキリスト教とは異なる要素があった、という可能性について指摘しておくに留めておきましょう。

インド・パルティア王国での布教

ヨーロッパに遺された伝説では、聖トマスがカイサリアからインドに向かったことになっていることを確認しました。しかし、そうすると、パルティアに行ったという伝承は、どうなったのでしょう?

実は、先に挙げた黄金伝説の「インド王グンドフォルス」は、トマス行伝では「グンダファル王」(第2節、第17節以下)として登場します。この王は、インド・パルティア王国の建国者であるゴンドファルネース王(Gondopharnes)に比定されています。

彼は、スキタイ王国の最後の王アゼス2世などの勢力を受け継ぎ、カブール川上流のギリシア人王国などを滅ぼすなど、積極的な領地拡大に努めました。紀元20年頃にアルサケス朝パルティアからの独立を宣言し、征服した領域にインド・パルティア王国を建設しました。その領域は、現在のアフガニスタンの一部、パキスタン、インド北西部にいたる広大なものだったと言われます。その首都のタキシラは、後に(100年前後に)ガンダーラ美術が興った地としても知られています。

彼については、次のように言われることがあります。

ゴンドファルネース王はあるいはキリスト教徒ではなかったか、という疑いを禁じ得ない。かれの用いていた「神に誓える者」(devavrata)という称号は、インド史上、ほかに類例がないからである。
       (中村元『インドとギリシアとの思想交流』p.146)

(中村元『インドとギリシアとの思想交流』p.146)

ヘレニズム文化を吸収した新進気鋭の王が、紀元30~40年頃にキリスト教に改宗しているとしたら・・・ 王の改宗に寄与した説教者として、聖トマス(またはその弟子)が有力な候補者であることに疑いはないでしょう。

ディアルバクルでの布教

これに続いて、もう一か所確認したい場所があります。トルコ東部の都市ディアルバクルです。ティグリス河の上流の岸部に位置するトルコ東部の都市で、「ディアルバクルの城塞とへヴセル庭園の文化的景観」は、世界遺産に選ばれています。

この都市は、トマスが活躍した時代は、クルド人によって建てられた古代アルメニア王国(紀元前190年~西暦66年頃)の首都ティグラナケルト (Tigranakert)として知られていました。その後、古代ローマ帝国に編入されてアミダ (Amida) と呼ばれるようになり、アラブ人による征服(629年)以後もアーミドと呼ばれました。

ディアルバクルの街が、シルクロードの交易とティグリス河を利用した貿易などで賑わっていたこと、そして、この頃のトマスが(イエスより少し若い人だとすれば)20歳代~50歳前後くらいまでの年齢であったことを考えると、河川航運に係る人々(商人や船乗りなど)と、時には一緒になってティグリス河を下り、バグダッド(現イラク)や海辺の都市まで布教の旅に出ていたことも考えられるでしょう。

そして、この河口に近いエリアは、バビロン捕囚によってユダヤ人が強制的にパレスティナ地域から移住させられたエリアでもあります。有力なユダヤ人社会が出来上がっていたところであり、タルムード編纂の主要地域の一つにもなっています。こう考えると、アミダという都市は、トルコ(小アジア)などへの入り口でもありつつ、バビロニアとパレスティナという2つのユダヤ人社会の内陸での結節点の一つだったことが考えられます。

そして、この町には、古代ローマ帝国時代、聖トマス教会がありました。イスラム教圏に入ってからもキリスト教徒・イスラム教徒が共同使用していましたが、住民のイスラム化が進んだため11世紀に改築されモスク「ウル・ジャーミイ」(大きなモスク)となりました。モスクの入口には、ライオンや雄牛などのレリーフがある他、ローマ時代の柱なども残っています。そしてアナトリアで最初の大学となり、現在はコーランを教える学校となっています。

ここに聖トマスがいた可能性がある、と考えます。ローマ帝国時代に聖トマス教会が建てられた理由としては(インドと同様に)聖トマスがいたからと考えるのが合理的であり、かつ、聖トマスの教えこそが大乗仏教を成立させるきっかけになったと考えられるからです。

大乗仏教成立への影響

大乗仏教について、ここで確認しておきましょう。

開祖であるお釈迦さまの生没年は不詳ですが、比較的新しいとしても、紀元前463年~紀元前383年頃になると言われています。他方、大乗(仏教)運動はインドで紀元前100年ころから、出家者以外(在家信者)の救済運動としてスタートします。当時、マウリヤ王朝が崩壊し、北方から異民族の流入が相次いでいたため、社会に混乱が生じた一方で東西の経済的・文化的な交流が活発化し、ゾロアスター教などの新しい宗教がインドにもたらされて、大乗仏教の教義として取り入れられていきました。この中で出てきたのが、阿弥陀如来への信仰(浄土教)です。一般的・教科書的には、このように言われています。

この阿弥陀如来の「阿弥陀」(アミダ、アミターバ)という言葉。意味としては、「測定ができないほどの光」(無量光)、「測定できないほどの寿」(無量寿)ということなのですが、その語源は、昔から「謎」とされてきました。

また、この「阿弥陀仏信仰は、仏教のなかで一種の終末論を展開した唯一の思想」(梶山雄一『「さとり」と「回向」』p.84)と言われ、仏教のなかでも独特の位置づけにあり、その誕生の経緯は謎とされてきました。

しかし、この阿弥陀は「アミダという都市からもたらされた」という意味で解釈すればいいのではないかと思います。西暦30年頃から200年頃にかけて、アミダという都市にいたのは・・・ そう、聖トマスと、聖トマス教会における後継者たちです。

聖トマス(または、その後継者たち)の主張は、「アミダの神」の主張として独り歩きし、商人などによってアフガニスタンから西北インドへと伝えられたことで、大乗仏教運動の理論構築に一役買ったのではないでしょうか。聖トマスたちが自ら動く場合には、「聖トマス」と名付けるでしょうが、そうなっていないことを鑑ると、聖トマスの後継者たちが、そのまま大乗仏教運動の担い手になったのではない、ということかも知れません。おそらく大乗仏教運動の運動家たちが、聖トマスの教えをシルクロードの商人たちなどから聞き、それを「アミダの神」(阿弥陀如来)として仏教に取り込んでいったのでしょう。

聖トマス福音書において、神(至高の存在)はしばしば光に喩えられています。同様に、阿弥陀経においては、仏とは大慈悲と光明とによって示されています。神仏の描写の仕方がとてもよく似ているのです。

仏教説話と聖書に、よく似たエピソードがあることは良く知られています。東西の文化交流の中で、相互に影響を与えたことでしょう。大乗仏教の成立自体に聖トマスの教えの影響が強かったのであれば、仏典とキリスト教典に同時代に現れたエピソードもあったのかも知れません。実際、「サマリアの女」「ローマの慈愛」をはじめ東西共通のエピソードとしての有名な研究対象は多数あります。想像が膨らみますが、現実の話を特定することも、その証拠を探し出すことも至難の業でしょう。とはいえ、あくまでご参考までに、共通の(またはよく似ている)エピソードの例を一つご紹介しましょう。

■   貧者の献金

イエスは、賽銭箱にむかって座り、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は多額の金を投げ入れていた。ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ銅貨2つを入れた。それは1クァドランスに当る。そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。
「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、賽銭箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである。」
            (マルコ福音書12:41~12:44)

(マルコ福音書12:41~12:44)

これと同様の話が、100~150年頃につくられた大荘厳論経の第22話にあります。ある娘が昼闇山に行き、人々が僧侶に供養するのを見た。自分も布施しようと思ったが、貧乏すぎて何も持っていなかった。改めて考えるに、便所で拾った2枚の銅銭があったので、これを布施した。布施を受けた僧侶は、呪願を唱え、彼女はやがて国王夫人となった。国王夫人となった彼女は改めてお礼参りをするが、僧侶は今度は呪願をしなかった。全財産を布施に出すのと、財産の一部だけを布施に出すのでは話が違うから、と理由が示されて終わります。つまり、内容的にはマルコ福音書のエピソードと同じです。

さて、娘が銅貨を見つけ出すシーンは、次のように表現されています。ここで注目したいのは、この2枚の銅銭です。

我獨貧窮無物用施。作是語已。遍身搜求了無所有。
復自思惟。先於糞中得二銅錢。即持此錢奉施衆僧。
                 (大正新脩大藏經279c~280a)

 (大正新脩大藏經279c~280a)

紀元60年代にできたマルコ福音書において、植民地であるユダヤ地域のレプタ銅貨2枚は、宗主国であるローマ帝国の1クァドランス(コドラント。ローマ帝国の通貨の最小単位)に該当するため、銅貨を2枚とすることには理由があります。他方で、紀元100年~150年ころのクシャーナ朝(北インドからアフガニスタンなどを支配した王国)で、仏教詩人アシュバゴーシャ(馬鳴)によってまとめられた大荘厳論経において、銅銭を2枚とする必然性はありません。そして、クシャーナ朝は、聖トマスが布教したインド・パルティア王国を併合し、文化を受け継いだ国でもあります。その意味で、この話は、キリスト経のエピソードが、東西文化交流の中で仏教に取り込まれた事例なのかも知れないと考えることができるように思います。

イエスの死の意味

さて、聖トマスに戻ります。聖トマス(アミダの神)の主張を知ると、なにが分かるのでしょうか。

それは「イエスの死」の意味だと私は思います。

フィリポの贖罪論は、「イエスの死は、イエスを捧げものとして、ユダヤの神に、われわれを救けてもらう儀式(宗教的行為)だった。その願いは聞き届けられたので、その結果、われわれはイエスと同様、自らを神殿として神と交信できるようになった」というものと考えられます。「すべての人を、一方的に断罪される可能性のある終末の恐怖から解放した」ところにイエスの意義があったと説明したからこそ、イエスの教え(特にヘレニスタイが伝える教え)は各地で積極的に受け容れられたのではなかったでしょうか。

他方、アミダの神の願いは、初期の聖典である「無量寿経」(スカーヴァティー・ヴィユーハ。「極楽の荘厳」という意味のお経)に24の誓願としてまとめられています。この誓願は、ローケーシヴァラ・ラージャという如来(阿弥陀如来)が未だ修行僧の頃に立てた誓い(誓願)で、「その誓いが成就しない限り如来にならない」とされていたものです。阿弥陀如来は、現在、既に如来になっているので、彼が立てた誓い(誓願)もすべて達成されているはずである、というものです。

〔第1誓願〕 世尊よ、もしも、かのわたくしの仏国土に、地獄や、畜生(動物界)や、餓鬼の境遇におちいる者や、アスラ(阿修羅)の群れがあるようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
 
〔第2誓願〕 世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に生まれた生ける者どもの中で、さらにそこから死没して地獄に堕ちる者や、畜生(動物界)に生まれる者や、餓鬼の境遇に陥る者や、アスラの群となる者があるようであったら、その間は、わたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
 
〔第4誓願〕 世尊よ。かのわたくしの仏国土において、ただ世俗の言いならわしで神々とか人間とかいう名称で呼んで仮りに表示する場合を除いて、もしも神々たちと人間たちを区別するようなことがあるならば、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
 
   (いづれも中村元ほか『浄土三部経(上)』(岩波文庫)p.33以下)
 

(いづれも中村元ほか『浄土三部経(上)』(岩波文庫)p.33以下)

阿弥陀如来が出現した以降は人々が地獄に堕ちることはなくなった、と分かります。(こういった立場を主張したいがための大乗仏教運動だったのでしょう。)とすると、大乗仏教運動に、影響を与えたアミダの教え(つまり、聖トマスの布教)も、内容的には同様だったのではないかと推測できます。つまり、イエスのおかげで「われわれすべてが救われた」と説かれていたのではないでしょうか。

パウロの「十字架の神学」との違い

さて、最後に補足までに、パウロの「十字架の神学」との違いを見ておきましょう。

パウロは、アダムが知恵の実を食べて「全ての」人が罪の状態になったものの、イエスが十字架で処刑されたことで、「多くの」人の罪が贖われた(消えた)、と考えます。

アダムについては、「ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に」(ローマ人への手紙5:12)と、すべての人を対象にして罪が発生していますが、イエスについては、「もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです」(同5:15)と、「多くの人」が「すべての人」に該当するかが分からない曖昧な書き方をしています。

つまり、イエスが十字架で処刑されようがされまいが、外在的に(第三者的な「神」の一方的な判断で)「救われる人」と「救われない人」がいることになります。しかし、それだけならば、イエスをわざわざ救世主(キリスト)とする必要はないはずです。

聖フィリポや聖トマスのような「すべての人が救われ得る」とする立場(救われないのは内在的な問題。自分さえ変われば必ず救われるという立場)であるからこそ、各地で悶々としていた人たちに積極的に受け容れられたのではないでしょうか。

(もちろん、パウロの主張も、正典化の過程で書き換えられていった可能性があります。パウロ自身の布教も多くの土地で受け入れられていることを見ると、歴史上のパウロは、救済対象に制限を設けていなかったか、設けたとしても極めて限定的だった可能性があるように思います。)

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