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聖アンデレ(4-B) 信仰の深さの尺度をめぐって

聖アンデレに近づくことができなくても、自分を高めることが出来るかも知れない。その気持ちをもって、聖アンデレに倣って生きることができないでしょうか。どこまで行っても不十分だとは思いますが、どうすればいいのか検討してみましょう。

倣うということ

まず、「倣う」は、「すでにあるやり方(手本など)を真似して、その通りにすること」という意味として捉えておきましょう。幼い鳥が、親鳥の真似をして羽をばたつかせ、羽の動かし方を理解していくことで、やがて自分も飛べるようになっていく、というイメージです。つまり、真似することは、その中に「知る」ことと、「再現する」ことを含んでいます。そうしますと、対象を徹底的に知り、自己の生き方の問題として、全身で、出来る限りの再現・再創出を企てること。これが、倣うということだと思われます。

ハリウッド映画『サンセット大通り』(1950年)、『麗しのサブリナ』(1954年)、『お熱いのがお好き』(1959年)、『アパートの鍵貸します』(1960年)などで有名な映画監督ビリー・ワイルダーは、脚本づくりに行き詰まった時などに、師である映画監督エルンスト・ルビッチのことを考えたといわれています。「ルビッチなら、どうする?」これを考え抜くことで突破口が開け、名作を生み出すことができたといいます。これが倣うということの典型例でしょう。 

(そのため、念のため、付言しますが、中世ヨーロッパにおいて、アルマ・クリスティ(キリストの受難具)を崇拝したり、聖痕拝受などがブームになったのは、キリストに倣って生きていくというよりも、イエスの体験を自分も追体験する気分を味わってみたいという一時的な欲求を満たすものだったと思われます。自らを高めたいという欲求とは目的が異なるため、ここで考えたい「倣う」とは異なるものとしておきましょう。)

トマス・ア・ケンピスの手法

ドイツ中世の神秘思想家と言われるトマス・ア・ケンピス(Thomas à Kempis。1379年~1471年)は、オランダの聖アグネス修道院での修行の中で、信心書『キリストに倣いて』(De imitatione Christi)、そして『マリアに倣いて』(De Imitatione Mariae)を著し、霊的な陶冶に必要な精神的修養の手助けとなるべき態度や考え方を分析しました。この『キリストに倣いて』は、当時、聖書に次いで最も読まれた本とも言われています。以下の4巻構成になっています。

 第1巻 霊の生活に役立ついましめ   (25章構成。1410年頃執筆)
 第2巻 内なることに関するすすめ   (12章構成。1412年頃執筆)
 第3巻 内面的な慰めについて     (59章構成。1414年頃執筆)
 第4巻 祭壇の秘蹟について。聖体拝受についての敬虔な勧告
                    (18章構成。1441年頃執筆) 

もともと修道士たちの精神性を高めるガイドブックとして書かれたもので、各章は、それぞれ一つの論点を考究しています。例えば「キリストにならって、すべてこの世の空しいものを軽んずべきこと」「空しい希望と高慢とを避くべきこと」「ことばの多過ぎるのを戒むべきこと」「やたらな批判を下すのを避くべきこと」「イエスとの打ち解けた友愛について」「すべての気づかいは神に委ねておくがよいこと」といった具体的なことがらについての内省を記しています。
 
トマス・ア・ケンピスはこの本を書きながら内省することで、そして、読者はこの本を読みながら作者と心の中で対話することで、キリストに倣っていることについての思索を深めていく、という訳です。ケンピスの態度こそ、われわれが聖アンデレに「倣う」場合に求められる態度なのだと思います。

https://www.shinkyo-pb.com/books/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%89%E3%81%84%E3%81%A6%E3%80%8A%E6%94%B9%E8%A8%82%E7%89%88%E3%80%8B/

誰に倣うか? なにを倣うか?

しかし、「いきなり誰かに倣えと言われてもイメージ湧かないし・・・」と戸惑うことも多いと思います。修行しようとしても、その場の人間関係でしがらんだ場合、かえって修行ができなくなってしまわないか、心配にもなるでしょう。

そんな場合は、(1)近い年代の人々に倣うことから始めること、そして、(2)自分の問題意識に照らして考えることも一つの手法として挙げられるでしょう。

(1)近い年代の人々に倣う

聖アンデレに近いと思われる方を探してみましょう。例えば、ローマ教皇ヨハネ23世やフランシスコ1世のような方々、仏教であれば山田無文老師や中村元博士といった方々など、聖アンデレが生きていたら、きっとこのような方だったのではないかと思われる方々に倣おうとすることは可能でしょう。伝記や著作、映像資料なども近い年代であれば入手できる場合もあります。
 
具体的なイメージの湧かない方には、あくまで参考例として、2冊、お勧めしておきます。

i) ヨハネ23世『地上の平和』(Pacem in Terris)(1963年)
ぜひ一読をお勧めします。これは、カソリック教徒のみならず、すべての善意の人々に宛てて教皇が発した初めての回勅であり、宗教や立場の違いを超えた人類愛と世界平和の実現を説いています。

ii) 山田無文『十牛図 ~禅の悟りにいたる十のプロセス』(1982年)
廓庵師遠禅師の作と伝えられる『十牛図』は、人間が本来もっている仏性を牛にたとえ、牧童が牛を飼い馴らすことになぞらえて修行段階を表現したものです。これを、山田無文老師が簡潔に解説しています。


(2)自分の興味ある論点に引き付けて考える

先述したブルース・バートンの『誰もしらない男』は、広告会社の創業者・経営者である作者が、イエスを経営者として、ビジネスマンとして、広告マンとして蘇らせようとした試みです。

広告関係者もこのやり方でイエスのたとえ話を研究してみてはどうだろう。ポイントが四つ見つかるはずである。

一、   文章は圧縮する。
  イエスの文章は、徹底的に圧縮されている。
  広告もそうあるべきである。
二、   言葉は単純にする。
  イエスの言葉は実に単純だった。イエスが口にした言葉で、
  子どもに分からないものはないと言ってもいい。
三、   誠実に語る
  イエスの文章からは限り無い誠実さが感じられる。
四、   繰り返し伝える
  イエスは繰り返すことの大切さを知っていた。
 
イエスの考えは、忘れられないコピーになっていたからこそ、今日まで生き永らえ、人々の行動や思考に大きな影響を与えている。
 
イエスの広告にまさる手引書はない。まずはじめにニュースで関心を呼び起こすこと。説教を据えるよりも奉仕をすること。そうすれば相手は耳を傾けるようになる。単純に、短く、そして何よりも心にあるままを誠実に言うこと。
       (ブルース・バートン『誰も知らない男』p.130~139)

どの程度倣うか?

前記載の通り、「倣う」とは、単に対象を知識として知るだけでなく、自らも再現できるようになることです。形だけ真似してみる、同じ服を着てみる、顔真似をするといったことは、真似をすることでしかなく、倣うことではありません。
 
聖アンデレは、神への真摯な畏敬の念を抱いた宗教者、天才的なコミュニケーションの達人という他に、卓越したビジネス実務家という側面を持っていた方です。こういった側面を全人格的に受けとめ、自分のものにすることが「倣う」ということです。単に知識としての聖アンデレを知りおくだけでは「倣う」ことにはなりません。
 
そして、この「知る」ということについても、注釈がいるように思います。

 例えば、世の中にはグルメ(美食家)と呼ばれる人々がいます。他方で、味覚音痴と呼ばれる人々がいます。この違いは、料理に対する「興味関心」と、その興味関心に基づく「悟性」と「語彙力」の違いにあるように思われます。

例えば、ある味音痴の人は、「おいしい!」「普通」「まずい」の3つくらいしか語彙を利用していない場合もあるでしょう。これに対して美食家の人は、豆知識や蘊蓄を交えながら、それぞれの料理に合わせて、いくらでも言葉を紡ぐことができます。

ワイン愛好家は、目の前のワイン一杯の魅力について、いくらでも言葉を生み出して、豊かなイメージをもって説明してくれます。しかし、筆者のようにワインをたしなまない人にとっては、かりにワインの魅力を語らなければならない場面になったとしても、そのイメージは湧かず、言葉そのものが出てきません。興味がないと言葉が出てこないのです。

スープ・調味料でも同様です。例として、ミツカンが開発したスープ・調味料の味についての図(だしフレーバーホイール)を見てみましょう。これをみれば、だし・スープの奥深さが分かります。

好きな人であれば、その分野については、概念を適切に整理できているため、いくらでも言葉を紡ぐことができるのですが、興味関心が薄い人にそれを求めるのはむつかしいのです。
 
「倣う」ということは、自分でもできるようになる、体得するということです。体得が目標となる以上、自分なりの概念は、自然と出てくるようになると思われます。「倣う」の要素の一つである「知る」は、単に教科書的な知識としての知る(知りおく)ではなく、こういった状態に至ることと理解しておきましょう。
 

神聖なものの捉え方

当然、神聖なものについても、このことは言えるでしょう。

天国や地獄の数、天使の序列などに興味がない人にとっては、人間業を超えたものは「すべて同じように」崇拝対象となるでしょう。他のやり方を知らないからです。しかし、宗教などを勉強している人にとっては、神は神、天使は天使と分かれており、序列がついているものだと思っています。

そういった違いがある人々が、理解度を揃えないままに議論をしても、悟性(状況を把握する力)と語彙力に差があるため、いつまで経っても議論がかみ合わないのは、仕方ないことと言えるでしょう。

先に検討したイエスの位置付けについても、同様です。「神と同格とするか、天使と同格とするか」といった議論をする人々がいる一方で、「とにかく神聖な存在なのだ」という認識しか持ちえない人々もいたことでしょう。そして、「とにかく神聖な存在」としか考えられない人は、神性があるものをすべて「神」と同格としてしまいがちなことでしょう。
 
先に引用したコーランにおいて、ムハンマドは、イエスの神性を否定してはいません。イエスは、母ともども、神から一定の神性を預かった使徒であることを認めています。しかし、神性があるからといって、その人が「神」である訳ではない、と冷静かつ詳細に議論を展開しています。このムハンマドの主張は、イエス自身の主張とも親和性があります。
 
しかし、ここに「神性があるなら神だろう」という大雑把な議論が持ち込まれてしまうと、話は錯綜してしまいます。
 
こういった論点を踏まえた上で、聖アンデレの真摯さ・敬虔さを適切に把握するための指標は、どのようにすれば設定できるのでしょうか?
 

敬虔さを図る指標(十住心論)

実は、この手の議論は、仏教においてなされていました。仏教において、神性に該当するものは仏性です。そして、すべてのものには仏性があるとされています。
 
弘法大師空海(774~835)は、人間の宗教心にはいくつか段階があると考えました。本能のままに生きている第1段階から、仏性を自分自身で体現する第10段階までに整理し、『秘密曼荼羅十住心論』(そして、その要約版である『秘蔵宝鑰』(ひぞうほうやく))で検討しました。

具体的なイメージで考えるといいかも知れません。例えば、アガサ・クリスティの傑作長編ミステリ『そして誰もいなくなった』に出てくるミス・ブレントは、どうでしょう? 彼女は、深い信仰を自認していました。

 ミス・ブレントはきっぱりいった。
「私はどんなことがあっても取り乱さないように育てられているのです。」
 ヴェラは機械的に考えた。――子どもの時に抑圧されていて・・・それがさまざまの点に現れている。
 エミリー・ブレントは小さな鋭い錐を脳のなかにさしこまれたように感じた。(中略)ブレント家のものはみんな、そうなのだ。深い信仰を持っている。死を恐れたものはいなかった。みんな、自分と同じように正しい生活を送ってきたのだ。・・・自分は恥ずべきことは何もしていない。
      (アガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』p.176)

 その彼女は、以前、使用人である未婚女性が妊娠したことが分かると直ちに解雇し、11月の寒空の下に追い出したことがありました。

 ヴェラは低い声で言った。
「それからーーどうなりましたの」
「心に恥じる罪を犯したうえに、いっそう大きな罪を犯してしまったのです。その娘は自殺をしたのです」
ヴェラはいいしれぬ恐怖を感じながら囁いた。
「自殺ですって?」
「そうです。河に身を投げたのです」
ヴェラはからだを慄わせた。そして、ミス・ブレントの落ちつきはらった横顔を見つめた。
「自殺したと聞いたとき、どうお思いになって? 悪かったとは思いませんでしたの」
「私がですか。どうして、私が悪かったと思う必要があるのですか」
「でも、あなたの厳格なやり方がーーそんな結果を生んだものとしたら・・・」
エミリー・ブレントはきっぱりとした口調でいった。
「自分の犯した罪がーーあの娘を自殺させたのです。良心に恥じない行ないをしていたら、そんなことはおこらなかったのです。」
彼女はヴェラの方へ顔をむけた。自分を責めているような表情はなかった。良心をさいなまされているような表情はなかった。あくまで自分が正しいと思い込んでいる堅い表情だった。エミリー・ブレントは彼女自身の道徳の鎧に身をつつんで、この島の丘に厳然と座っているのだった。小柄な独身の老女はもはやヴェラにとって愚かしい存在ではなくなっていた。ヴェラはその姿に恐怖を感じた。
  (アガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』p.109。一部改訳)

 ミス・ブレントは自らを正しいと認識していましたが、行動としては第2段階(愚童持斎心)のレベルでしかない、ということが分かります。

 他方で、ローマ教皇ヨハネ23世(1881~1963年。在位1958~1963年)はどうでしょう? 多くの方がご存じの通りです。キューバ危機による米ソ核戦争の回避に尽力し、立場を問わない、限定のない博愛を示されました。博愛・有徳を一身に体現されておられました。第10段階の秘密荘厳心の段階におられたことは論を待たないでしょう。

 つまり、キリスト教徒と言っても、千差万別であることが分かります。同様に、どの宗教を信じていても、宗教心のあり方は千差万別です。この宗教の信者だから正しい、あの宗教の信者だからいかがわしいということはなく、どの宗教においても、神性・仏性をどのように活かせているかが重要です。徳の高さと、どの宗教の信者であるかとは関係がないのです。

修行が必要な理由

 この十住心論に依拠すると、宗教的な修行が必要となる理由が良く分かります。人には、常に神性・仏性があります。しかし、認識・思考、そして体力に能力的な限界のあるために、必ずしも、その神性や仏性を適切に理解・体得できるとは限らないのです。

 生存のために必要となる身体や精神は、神性を感じるために存在するものですが、この向きを逆にし、本能や欲求に従ったり、または、なんらかの思想・信条によって精神的に凝り固まったりしてしまうと、目の前に起きていることの表層だけがすべてだと思い込み、政治的立場や学歴、保有資産などといった日常的な欲求を、神性よりも重視してしまうことになるでしょう。

パウロが経験した「目からうろこが落ちる」(使徒行伝9:18)というのは、正にこの点を示していると思われます。正しい方向に精神を向けることができ、個人的な(精神的にも肉体的にも)神性を感じることを限定するような要素に惑わされずに、神性を感じることができた、ということでしょう。

人間には神性・仏性があるからこそ、修行することによって、正しく神性・仏性を感じ、体得することができるようになるのです。

イメージで考えた方が分かりやすいかも知れません。例として、トウモロコシをイメージしてみましょう。畑でなっているトウモロコシは、緑の皮に包まれています。しかし、皮をむいてみると、その中身においては、黄色の実がたわわになっていることが分かります。

人も一緒です。見た目や言語、環境などといった皮相な要素に惑わされずに、魂という実の部分をみてみると、その内容が個々に豊かであることに気づくことができるのです。

しかし、人は往々にして見た目にだまされます。トウモロコシに緑の皮が何層にも重なっているように、美醜や資産、民族、性別といった要素に惑わされ、その人の特質だと思い込みます。そして魂は、カネで買えるものだと思い込んでしまいます。これらの要素を魂のレベルから脱構築することは、なかなか出来ることではありません。その意味で、自らが神性・仏性の体現者であるという自覚を持てるか、自分とは無関係と思うかという点は、大きな分岐点となります。

もちろん神性があることは、人が神と同じであることを意味しません。この区別は必要です。神性があるために、人と神とは直接につながっています。しかし、通常、人にはこのことは分かりません。修行を通じて自らの神性を見つめ、自らある程度は発揮できるようになることで、結果的に、人と神とのつながりが体得されていきます。

 しかし、理屈だけで人と神がつながると考える場合、「自分がすることは、何であっても神が応援してくれる(はず)」「神の行いはシンプルで、難しいことは悪魔の仕業(のはず)」など、短絡的で、ご都合主義的な神をイメージすることにも陥りがちです。人が神の意志を推測しようとすることすら傲慢であるとして慎んだイエスや聖アンデレたちとは正反対のスタンスです。結果的に、煩瑣やルールやマナーを作っては押し付け合うような宗教態度に陥りがちになります。宗教に対する意識の高いエリアにおいてしばしば反知性主義が跋扈するのは、宗教的戒律さえ守ればいいというミス・ブレント的な状態が広まってしまうことで、精神的な修行・修養を軽視する宗教関係者に対する不満が増加し、改めて神とのつながりを、個々人の道徳心を基に体感しようとあがくからです。宗教の様式化が、修行や宗教的知見から人々を遠ざけてしまうのは、本末転倒です。

 イエスや聖アンデレによる布教は、自らの神性を自覚するよう人々に説くものでした。人々が神性を自覚し、神に感謝し、真摯に、そして連帯して生きていくことが目指されました。十住心論でいえば、人々を(少なくとも)第6段階以上の段階に導くことを目指したものと言えるでしょう。もちろん、その中からは、イエスや聖アンデレのように、第10段階の秘密荘厳心の段階に至った方も数多くいたことでしょう。

 


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