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聖アンデレ(1-H) イエスの妻マグダラのマリア

イエスに妻がいたかという論点があります。ここでは「いた」という前提で話を進めます。
 
というのも、イエスたちの生きていた当時は、成人であっても結婚しない場合は、一人前の社会人と見做されず、批判の対象になりました。イエスは、生前さまざまな批判を浴びていますが、この点については批判されていません。このことから、結婚していた可能性が高い(すなわち、後代の人間が、配偶者のみ消して伝承した)と考えられます。
 
また、初期の文書『フィリポによる福音書』という、ヴァレンティヌス派キリスト教徒が伝えていた文書には、マグダラのマリアがイエスの妻(伴侶)と明記されています。

三人の者たちがいつも主とともに歩んでいた。それは彼の母マリアと彼女の姉(妹)と彼の伴侶と呼ばれていたマグダレネーであった。なぜなら、彼の姉(妹)と彼の母と彼の同伴者はそれぞれマリア(という名前)だからである。
 
キリストの同伴者はマグダラのマリアである。主はマリアをすべての弟子たちよりも愛していた。そして彼(主)は彼女の口にしばしば接吻した。
(フィリポによる福音書、第32節および第55節a,b)

マグダラのマリアのプロフィール

マグダラのマリアは(カソリック教会では特に)非常に不幸な扱いを受けがちですが、非常に気丈な女性だったと思われます。

生没年は分かりません。

出身は、その名の通りマグダラ(Magdala)と思われます。ガリラヤ湖畔の都市で、今のミグダル(Migdal)と言われています。ミグダル・ヌナヤ(「魚の塔」の意味)や、タリケイア(ギリシャ語で「塩漬けの(魚)肉」の意味)と表現されることもあります。

姉にマルタ、弟にラザロがいたとされています。
(ヨハネ福音書11:1、11:5)

聖書では、別途で記載する通り、イエスの死と復活を見届けた証人として描かれています。この点を重視した人々(グノーシス主義者や、アッシジのフランチェスコを創始者とするフランチェスコ会という托鉢修道会など)は、マグダラのマリアを特に崇敬しています。 

イエスの磔刑の後の足取りは、よくわかっていません。

フランスには、アレキサンドリア経由で南フランスのサント=マリー=ド=ラ=メール(正に「海のマリア」の意味)に着き、晩年は港町マルセイユの奥の山村であるサント=ボームの洞窟で隠士生活を送ったのちにその一生を終え、遺骸はいったんエクス=アン=プロヴァンス郊外のサン=マクシマン=ラ=サント=ボームに葬られたという伝説が残されています。(サン=マクシマン側はいまも遺骸を保持していると主張しています。一部はパリのマドレーヌ寺院に分骨されているとも言われます。これに関しては、同じくフランスのヴェズレーにあるサント=マドレーヌ大聖堂(世界遺産)が、遺骸(頭蓋骨)の移葬を受けたと主張しています。真相はよく分かりません。)また、南フランスには、他にも、レンヌ=ル=シャトーに、関連する伝説が残されているとされています。

他方、東方教会の方では、マグダラのマリアはトルコ西部のエフェソス(世界遺産にもなっている古代ギリシアのヘレニズム都市。後に聖パウロが活躍した場所)に埋葬され、その遺体は9世紀にコンスタンティノープルへ運ばれたと言い伝えています。

イエスとの出会い

いわゆる「マリアとマルタ」の話として知られている話です。お互いに一目ぼれだったのかも知れません。ヨハネ福音書の記載は、二人の出会いを描いたほほえましい話だったかも知れません。【 】内を補足しながら読んでみましょう。 

ある村で、マルタがイエス一行を自分の家に迎えたところ、マリアという妹が、イエスの足もとに座って、その言葉を聞いていた。マルタは、大勢のための食事の支度で大わらわだったので、【なんどもマリアに手伝うように言ったが、マリアは、またすぐイエスのそばに座ってしまう。たまりかねて】マルタは、イエスに「マリアにも手伝うように言ってやってくださいよ」と声をかけた。

これに対し、イエスは答えた。
「マルタ、マルタ。あなたは、いっぺんに沢山のことを気にかけていますが、マリアは最も大事なことだけに集中しているのです。マリアから取り上げないで下さい。【姉さん、大目に見てあげてください。マリアは僕のそばにいたいし、僕もマリアにいてほしいのです。】」
      (ヨハネ福音書10:38~42。一部表現を補足) 

イエスとの結婚

イエスの結婚は、以前にみた「カナの結婚」(ヨハネ福音書2:1~12)の話でしょう。母マリアとも和解するきっかけとなった、楽しく明るい奇跡が起きたとされるエピソードです。

布教活動の支援

マグダラのマリアは、イエスの旅に同行するようになります。

イエスは、神の国の福音を説きまた伝えながら、町々村々を巡回し続けられたが、十二弟子もお供をした。また悪霊を追い出され病気をいやされた数名の婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリア、ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒にいて、自分たちの持ち物をもって一行に奉仕した。
           (ルカ福音書8:1~3)

この記載では、マグダラのマリアは、イエス教団に入らず(またはメンバーとしては入れず)に、自己の財産を携行する同行者として、教団をサポートしていたとされています。こういった同行者たちが、イエス教団の活動費を支援したと考えられます。(もっとも、ルカ福音書の特徴の一つは、マグダラのマリアの地位を不当に貶めるように意図的な記載を多数設けていることです。従い、母マリアやマグダラのマリアが教団の中の一員として支援していた可能性についても留意しておきましょう。)教団の同行者には子どもたちもいたようです(マルコ福音書9:36など)。それなりに大所帯での移動だったことが分かります。

なお、イエスとの熱愛ぶりにあてられた弟子たちには、寂しい思いをした者もいたようです。

キリストの同伴者はマグダラのマリアである。主はマリアをすべての弟子たちよりも愛していた。そして彼(主)は彼女の口にしばしば接吻した。他の弟子たちは、彼がマリアを愛しているのを見た。彼らは彼(主)に言った。
「あなたはなぜ、私たちすべてよりも彼女を愛されるのですか。」
キリストは答えた。
「なぜ、私は君たちを彼女のように愛さないのだろうか。」
         (フィリポによる福音書、第55節b)

夫の死を前にして

次に登場するのは「ナルドの香油」のエピソードです。イエスたちが食事をしていると、マグダラのマリアが、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、食卓のイエスの頭に香油を注ぎかけ、足にぬり、自分の髪の毛でそれを拭いたため、香油の香りが家にいっぱいに広がったというものです(マルコ福音書14:3~9、マタイ福音書26:6~13、ヨハネ福音書12:1~8)。

このナルドというのは、おみなえし科の宿根草のことです。漢方でいう甘松香(かんしょうこう)。香料としては古くから知られており、王宮でも香料として使われていました。

王がその席に着かれたとき、わたしのナルドはその香りを放った。
(ソロモンの雅歌1:12)

あなたの産み出す物は、もろもろの良き実をもつ柘榴の園、ヘンナおよびナルド、サフラン、菖蒲、肉桂、さまざまの乳香の木、没薬、ロカイ、およびすべての尊い香料です。
(ソロモンの雅歌4:13~14)

この行動の意味について、イエスの認識を確認しましょう。 

イエスは言われた。
「彼女のするがままにさせておきなさい。なぜ彼女を困らせようとするのか。わたしによい事をしてくれたのだ。彼女はできる限りのことをしたのだ。
そう、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬式の用意をしてくれたのだ。
よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、彼女のしたことも記念として語られるであろう。」
(マルコ福音書14:6~9)

マグダラのマリアが、生きているイエスに対し、出来る限りの(とっておきの)葬式の用意をはじめたことについて、イエス本人は前向きに感謝の念をもって受け止めていることが分かります。

これは、イエスが、死ぬ覚悟をもってエルサレムに乗り込んでいくことが示された場面であり、神殿との対決を迎える直前のできごとです。

マグダラのマリアの念頭には、旧約聖書のエピソードがあったことでしょう。神殿の位置づけを巡ってモーセと対立して敗れた者たち(ダダン、アビラムとコラの一族)は、悲惨な最期を迎えています。

ダタンとアビラムは、妻、子、および幼児と一緒に出て、天幕の入口に立った。
モーセは言った。
「あなたがたは主がこれらのすべての事をさせるために、わたしをつかわされたこと、またわたしが、これを自分の心にしたがって行うものでないことを、次のことによって知るだろう。すなわち、もしこれらの人々が、普通の死に方で死に、普通の運命に会うのであれば、主がわたしをつかわされたのではない。しかし、主が新しい事をされ、地が口を開いて、これらの人々と、それに属する者とを、ことごとく呑みつくして、生きながら冥府に下らせられるならば、あなたがたはこれらの人々が、主を侮ったのであることを知らなければならない。」
モーセが、こう述べ終わったとき、彼らの下の土地が裂け、地は口を開いて、ダダン、アビラムとその家族、ならびにコラに属するすべての人々と、すべての所有物を呑みつくした。彼らと、彼らに属するものは、みな生きながら冥府に下り、地はその上を閉じふさいで、彼らは会衆のうちから、断ち滅ぼされた。
この時、その周囲にいたイスラエルの人々は、みな彼らの叫びを聞き、「恐らく地はわたしたちをも、呑みつくすであろう」と逃げ惑った。
また主のもとから火が出て、薫香を供えた二百五十人をも焼きつくした。
            (民数記16:26~35) 

マグダラのマリアは、イエスが死ぬ覚悟でエルサレムに乗り込もうとしていること、イエスの計画が失敗した場合、イエスは死んでしまい、その亡骸さえ、どうなるか分からないことを覚悟していたのでしょう。その中には、ダダン、アビラムに従った者と同様、自分たちも亡くなることも覚悟の上だったことでしょう。だからこそ「明日、乗り込む」というタイミングで、イエスと神殿との対決の前に、何があっても看取る覚悟(または自分も冥府に落ちていく覚悟)で、泣きながらイエスの弔いの準備をしたのではないでしょうか?

イエスの葬式を自分なりに全うすることは、マグダラのマリア自身にとっても、自分の危険を顧みず、なにがあってもイエスの戦いに従っていくための覚悟を決める行為だったと思われます。

死と復活の証人として

マグダラのマリアの覚悟は、イエスが死に、そして復活するまでの彼女の立ち位置にも表れています。マグダラのマリアは、イエスの身に起きたことを粛々と看取っていきます。

(1) イエスの磔刑の立会人として

マグダラのマリアは、イエスの母マリア、その妹のマリアとともに見ていました。(マルコ福音書15:40~41、マタイ福音書27:55~56、ルカ福音書23:49、ヨハネ福音書19:25)

遠くの方から見ている女たちもいた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセとの母マリア、またサロメがいた。彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。なおそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。
               (マルコ福音書15:40~41)

(2) イエスの埋葬の立会人として

マグダラのマリアは、イエスの母マリアとともに見届けました。
(マルコ福音書15:47、マタイ福音書27:61、ルカ福音書23:55。) 

マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスが納められた場所を見とどけた。
       (マルコ福音書15:47)

(3) イエスの復活の証人として

マグダラのマリアは、少なくともイエスの母マリアとともに復活に立ち会いました。そして、その復活を弟子たちに告げに行く役割も担いました(マルコ福音書16:1~11、マタイ福音書28:1~10、ルカ福音書24:1~11、ヨハネ福音書20:1~18)。

安息日が終ったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。墓の中にはいると、右手に真白な長い衣を着た若者がすわっているのを見て、非常に驚いた。
(マルコ福音書16:1~5)

週の初めの日の朝早く、イエスはよみがえって、まずマグダラのマリアに御自身をあらわされた。イエスは以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたことがある。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいる所に行って、それを知らせた。
(マルコ福音書16:9~10)

マグダラのマリアが、磔刑の時も復活の時もイエス・キリストを看取り見守り、そばにいて奇跡を体験した稀有な人物だということが分かります。

この間、ペテロが逃げ惑い、イエスのことを「知らない」「仲間ではない」と嘘をつき続けた(マルコ福音書14:52, 66~71、マタイ福音書26:29~74、ルカ福音書22:56~60、ヨハネ福音書18:25~27)ことと好対照をなしています。

そして、イエスのそばにい続けたマグダラのマリアが、イエスにとって特別な存在であったことは論を待たないと思われます。

東方教会などでの評価

マグダラのマリアは、東方教会(いわゆる「正教会」)においては「亜使徒」(使徒と同等の働きをした者)と呼ばれ、崇敬対象とされてきました。

西方教会での評価

これに対し、西方教会(カソリックやプロテスタントなど)では、マグダラのマリアは、ながらく不当に不遇な待遇を受けてきました。この不当な評価は、本人というよりは、イエス、そして聖母マリアに起因すると考えた方が良いようです。

使徒行伝に示されたキリスト者たるべき4つの条件というものがあります。

聖霊とわたしたちとは、次の必要事項のほかは、どんな負担をも、あなたがたに負わせないことに決めた。それは、偶像に供えたものと、と、絞め殺したものと、不品行とを、避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい。
      (使徒行伝15:28~29)

問題は「不品行」です。ローマ兵士と駆け落ちした母マリアと、その子で混血児であるイエスは、性的秩序を乱したという意味で「不品行」の象徴です。しかし、イエス死後に教団を引き継いだ原始教会は、イエスを不品行としたくないため「処女懐胎」という手法を生み出し、この問題を解決しようとしました。それでも「母マリア」そして「イエス本人」に対しての、ユダヤ人からの「不品行」という非難はなくなりません。

この解決を図ったのが、ローマ教皇グレゴリウス1世(在位590~604)です。政治家からローマ教皇に転身して活躍した人物ですが、彼は、就任早々(591年)に、ベタニアのマリア、マグダラのマリア、そして「罪深い女」(ルカ福音書7:36~50)が同一人物で、元・娼婦であるという汚名を着せました。この認識が、西ヨーロッパで広まっていきます。

マグダレナのほうは、金はありあまるほどあったし、金に色はつきものというわけで、自分の美貌と富を善用しない手はないとばかりに肉欲三昧の生活に身をもちくずしたので、世間からほんとうの名前をよんでもらえず、<罪の女>としか言われないようになった。
    (ヤコブ・デ・ウォラギネ『黄金伝説Ⅱ』p.476) 

「元・娼婦にして、イエスに最も愛された、改悛の女性」というコンセプトは、文芸や絵画・彫刻などの分野で芸術家を大いに刺激し、マグダラのマリアは、この形で人びとに知られていきました。

幸福にして、幸運にあふれた女性。
かつては偽りの快楽のとりことなり、飽きるほど満足していた。
そこにおいて、地上の愛で他人を喜ばせ、
さらに、魂をそそのかす者は、淫らな女となるだろう。
  (G・B・マリーノ「ティッツィアーノのマグダラのマリア」より)

このように母マリアへの批判をマグダラのマリアに向ける「操作」の結果、イエスや聖母マリアの聖性と慈愛が際立つとともに、マグダラのマリアとイエスの夫婦関係を表面上「消す」ことができました。カソリック教会にとっては都合が良かったことでしょう。

逆に言えば、濡れ衣のように汚名を着せられたことこそ、不品行の象徴と非難を浴びてきた母マリアやイエスと、マグダラのマリアとの近しい関係を示すものと言えるのかも知れません。

しかし、仮にマグダラのマリアが過去に「罪ある女」だったとしても、それは問題なのでしょうか。ペテロはイエスを裏切って逃げましたし、パウロは元々キリスト教の迫害者でイエスの弟子ステファノの殺害メンバーの一員でした。大切なことは「罪を犯さない」ことではなく「真摯な改悛。キリストへの信仰(または愛)」にあると考えるならば、イエスの死後に聖霊によってペテロや聖パウロは赦されたものとみなしつつ、他方で、生前のイエスに現に救いを与えられたマグダラのマリアを長きにわたって貶め続けたカソリック教会等の態度は、まったく是認できないものと言わざるを得ません。(逆説的に「イエスの妻」に不品行の疑いをかけることについて、やましさを感じていたとも言えるかも知れませんが。)

なお、カソリック教会は、2016年になり、ローマ教皇フランシスコ1世が「マグダラの聖マリアの祭儀が、今後は現在の記念日ではなく祝日(festum)の等級で一般ローマ暦に記入されるべき」と認めました(2016年6月3日典礼秘跡省教令Prot. N. 257/16)。これにより(すでに流布したイメージは払拭し得ないところでもありますが)マグダラのマリアは使徒と同様の扱いに”公式には”復権していることになってはいます。
 

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