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山怪

 昨晩まで降り続いた長雨も、ようやくひと段落着いたのか、雲間から顔を出した陽光が辰の背中を照らし暖める。

 また雨雲が天を覆い再び振り出さないうちに急いで山へ入り、採れるものを取っておかねば、冬を越せるかどうかも怪しい。

 辰は一応自分の田畑を持つ百姓の身分ではあるのだが、若くして両親が相次いで病死したことで働き手が彼しかいなくなり、また土地柄故か天候不順により安定した収穫が期待できないため、耕作中でも時間を作っては村長の所有する山に入り、山菜や茸を採取しては金に換えて、どうにか日々を辛うじて暮らしている。

 尤も、これは山神村の住民ならば誰もが行っており村長も認可したうえでのことなので、辰の行為を咎めるものは一人として存在しない。

 地租改正により、これまでは村全体が請け負う形で続いてきた物納が住民個々を対象とした金納に変わり、さらに自分の家と所有する田畑のそれぞれに租税が掛けられるようになったため、土地はあれども人手が足りない辰の如き百姓は、かえって負担が増えてしまった。加えて彼の父母が自腹を切り苦心しながら算出した田畑の面積と収穫予想量は、納付先の政府とやらに却下され、向こうが勝手に決めた地価とやらの基準で税を収めなければならなくなったのである。

 地価とは、収穫できると想定される米の量から種籾代や肥料代、税金などを差し引いた算定ということだが、天候次第で豊作だ、不作だところころ変わる収穫量を、如何にして想定しているのか、学の無い辰にはその辺りが今一つ理解できない。少しでも質の良い米が少しでも多く実るように手を尽くすことこそが、百姓の本分ではないだろうか。そのために必要な土地を持っているのだから金を寄越せというのでは、明治維新とやらは辰のような百姓の首を絞めているだけに過ぎない。

 それだけに、如何に人手が足りなかろうと大事な田畑を手放す気にはなれない。その不利不便は辰も十分に理解しているつもりだが、父母が苦労して護り必死に耕し続けてきた先祖伝来の土地ではないか、そう簡単に手放すわけにはいかぬという人情が、売却を何度も踏み留まらせている。

 山神村の「山」は、明治維新で掟が色々と変わり、その煽りで政府に取り上げられそうになった土地を今の村長が口八丁手八丁で買い叩いたものらしいが、その辺りの詳しい経緯は辰も良く知らない。経緯はどうであれ、村長が村と住民のために自腹を切ってくれたことと山への出入りを自由にしてくれていることは事実なので、取り敢えず村長は良い人なのだろうなと辰は思っていた。

 辰が山に入る際の装備は、麻の山袴に布の白巾木。普段履いているのは只の草鞋だが、雨上がりということもあり滑り止めの鎹を靴底に仕込んだ藁靴を履く。菅の角笠と蓑は、備えの雨具としての機能を持つだけではなく、樹上から音も無く落下する山蛭が皮膚に喰い付くのを防ぐための防具でもある。

 麻の前掛けを付け、腰に巻いた麻縄に山刀やら予備の草鞋やらを手挟み、手製の槍に採取袋を結わえ付ける辰。

 山中で熊や猪に、あるいは猿や山犬に遭遇した場合に備え、槍や手斧を携帯するのは山神村の常識である。但し、辰の槍は父から譲り受けたもので相当に古く、侍が振り回すような、見てくれの良いものではない。それどころか穂先は青銅製で、しかも茎は存在せず柄に直接嵌め込む形である。武器として使ったことは一度も無い。

 辰の父は生前、維新で起こった戦さで戦場に出た時に、敗軍が打ち捨てていった槍を拾っておけば良かったと何度もぼやいていたが、辰からすれば槍よりも鉄砲を拾ってきてもらいたかったと今でも思っている。

 父が本当に戦さに出たのかどうかは、今となっては誰も語ってくれない。

 山へと向かって歩き続けるだけでも、だいぶ気分が和らぐ。

 雨が降り続いている間は、掘っ立て小屋同然の我が家で酒を飲むか道具の手入れを続けるかしか出来ることが無く、しかも自分の処の酒が切れたからと隣家の茂やんが雨曝しになりながらも酒を集りに、乱暴な鍛冶屋の捨吉が同じく雨曝しで金を無心に来るので、辰の家の蓄えは金も米も底を尽きつつある。

 金が無いのは三人揃って同じだが、それでも茂やんと捨吉には女房がいるだけましだと、辰はこの年上の幼馴染らに対して嫉妬に近い感情を抱いていた。

 山神村の若い娘は、時代が変わったことで新たな稼ぎ手として遠方の紡績工場の女工になってしまい、数年のうちに嫁になってくれそうな相手など一人も残っていない。それでなくとも身寄りの無い辰に嫁を世話してくれるような気の良い人間などいそうにないというのに。

 唯一の例外は、山神村の住民がこれ以上減らないようにと苦心しているらしい村長ぐらいだが、そもそも彼の息子の良太郎が辰と同い年で独身のままなのだから、正直なところ望みは持てない。

 嫁どころか、辰は生まれてから一度も女を抱いたことが無い童貞である。男に生まれたからには、せめて死ぬまでに一度だけでも女を抱いてみないことには死んでも死に切れないとさえ思っている。

 辰もそうだが、山神村の住民が山に入るのは狩猟よりも採取が主な目的であり、動物の肉や毛皮を求めるのは極めて稀である。例外は獣に畑を荒らされた時の山狩りぐらいだが、その山狩りですら辰が参加したことは一度も無い。辰が生まれる前から、山の獣が下りてくることなど滅多に無かったのである。これまでに畑を荒らしたのは、小さいものでは土竜か鼠か野兎、大きくても狐か狸が精々だろう。

 村長が武器の携帯を呼びかけるようになったのは今秋に入ってからのことであり、その理由は数軒の畑が一夜で荒らされたためだった。

 熊か猪か、鹿だとしても相当に気の荒い奴の仕業だろうなと嘯く留六の話では、猪の牙というものは上下に二本ずつ生えており、絶えず擦り合わせて砥いでいるので剃刀よりも良く切れるのだという。その牙を気に突き刺し左右に揺さぶることで樹上の猿を振り落とし、落下した死骸を貪るのだと聞かされ震え上がったのは子供の頃の話である。

 猪もそうだが、辰が生きた熊を見たことは一度も無い。

 山奥の、只でさえ歩き辛い獣道を外れ、さらに急な斜面を慎重に登る。獣の通り道に人が喰える木の実や茸が残されていることは、まず無い。

 奥へ奥へと進めば進むほど木々は生い茂り、辺りは暗くなる。

 差し込む僅かな陽光だけが、頼りになる光源だ。

 独りで山に入るのは控えろと村長から常々戒められているが、辰は採取に人を誘ったことは一度も無い。その理由は、目的地を他人に知られたくはないからだ。

 辰は、山の中に点在する自分だけの採取場所を持っている。

 土地そのものを所有しているわけではないが、広い山の中では余程のことでもない限りは見つかるような場所ではない。幼い頃に父から口外厳禁を条件に教えられた採取場所では、センブリやサイカチ、栃葉人参や福寿草といった薬草やカタクリ、コゴミ、ワラビやゼンマイのような山菜が豊富に生えている。

 今の時期ならば採取袋に入りきらないほどの茸が採れている筈なのだが、長雨に洗い流されでもしたのか、今回は期待していた量を遥かに下回っている。

 次の採取場所を目指し、槍の石突で低木を掻き分けながら、ぬかるむ土を強く踏み黙々と進む辰の耳に、聞き慣れぬ怪音が飛びこんできた。

 鳥ではない。

 猿でもない。

 動物の鳴き声や唸り声とはかけ離れた、竹筒を石か何かで叩いた時に出るような、乾いた甲高い音。

 耳を澄ます。

 また聞こえた。山頂からだ。

 そちらに竹藪があるという話は聞いたことも無いし目にしたことも無い。

 山の中での怪異譚は、子供の頃に嫌と言うほど聞かされている。大半は辰のような子供を怖がらせるのが目的だったのだろうが、どちらかと言えば大人同士の会話の中で出てきた怪異譚の方が記憶に残っているのは、その中身が創作ではなく話し手の体験談か、目撃者から聞いた話を誇張抜きで語り合い、大人でさえも不思議がっていたからだろう。

 山の中で怪火を見たとか夜道で何者かに引っ張られて手持ちの腥物を盗まれたとかいう話であれば、狐か狸の類にでも化かされたのだろうと物笑いの種になるだけだが、中には判別も付かないまま妖怪の仕業、或いは妖怪そのものだとして大人たちが首を捻ったり震え上がったりした話もある。例えば山中の木々の間を骸骨にしか見えないものが群れ成して通り過ぎて行ったとか、山頂近くに生えている杉の大木に三丈はあろうかという大百足が巻き付いていたとか、そういう具体的でオチの無い話の方が、かえって辰には印象的に思えたものだ。

 音が止んでから、辰は再び歩き出した。

 こちらから近づかない限り、怪異は体験者に害を成さない。

 父から教わった通りの順番で採取場所を巡回してみたものの、収穫は予想の半分にようやく届いたという程度である。

 いよいよ最後の採取場所に到着した辰は、天を仰いで呻き声を上げた。

 鼻を突く強烈な刺激臭が周りに立ち込め、その発生源が山中では珍しい剥き出しの地面に、ごろりと横たわっていたからだ。

 辰は、顔を顰めながらも首を傾げた。

 まず、この臭いの発生源が何ものであるかがわからない。

 噂に聞く熊や猪ではないことだけは確かだし、鹿や猿とも明らかに異なる。

これの全身が毛皮に覆われていない。

 四肢らしき箇所を四方に広げるようにして倒れているそれの表面は黄色く透き通り、その皮膚と肉は薄く骨まで見えそうである。

 もはや原形を留めていない頭部には、それぞれ目と鼻らしき四つの窪み。

 その下にある二尺余りの亀裂から覗く硬質の物体は、恐らく口と歯であろうか。

 眼窩に当たる窪みには本来存在すべき眼球は見当たらず、薄く伸び切った肉体は剥き出しの地面を覆い尽くしており、跨ぐことはおろか跳び越えるのも至難の業だろう。

 正体が分からないそれは、どこから来たのかも分からない。

 これまでもずっと、この山に隠れ潜んでいたというのか。

 しかし、こんなものを見たという話を、辰は生まれてこの方一度も聞いたことが無い。

 そして何より、こいつは死んでいるのか、それともまだ生きているのかさえも分からない。

 恐る恐る、辰は槍でそれを軽く突く。

 動かない。

 いきなり起き上がりはしないかと警戒し、及び腰になりながらも、今度はもう少し力を込めて何度も突いてみたが、やはり動かない。思い切って青銅製の穂先を突き刺してみたが、それでも反応は無い。

 どうやら、生きているわけではないようである。

 少なくとも襲われる心配は皆無と知り、ほっと安堵の吐息を漏らした辰だったが、すぐに俯くなりさめざめと泣きだした。

最後の採取場所がそいつの下敷きになっていたからである。



 明治維新後に起こった廃仏毀釈運動は、山神村のような閉塞的で無名の辺境地には、あまり影響を及ぼさなかった。それというのも、徳川幕府時代の民衆全てが何れかの寺院の檀家になることを義務付けられた寺請制度と、檀家の人数や生活状況を把握管理できる宗門人別改帳の存在は、只でさえ人口が少ない山神村と相性が良く、また和尚と呼ばれていた住職の能力と人望も高かったので、これまでにも不満らしい不満が出て来なかったためである。

 山神村で「寺」と言えば一件しか存在せず、どういうわけか山門に号も記されていない。その正式な名称を知っているのは村でもごく一部の人間のみと言われているが、別に知らなくとも生活と信仰には困らないというのが、住民たちの一般的な見解である。

 その寺に住む唯一の坊主である住職の名も知られておらず、誰もが和尚と呼ぶのみ。

 そんないい加減な村人の、時には不信心と思われても仕方ないような言動にも嫌な顔一つ見せず、しかし時折痛烈な皮肉を飛ばしては、村長や稀に山神村を訪れる知識人を辟易させているのが、山神村の和尚なのである。

 山神村の寺は山の麓にこぢんまりと建っていたので、下山した辰は山に入ったそのままの格好で寺へと向かった。

 本堂へと続く粗末な石段を、足を滑らせないように一歩一歩身長に踏み進む辰がふと顔を上げると、辰とは逆に石段を下りて来る人影が見えた。

 それが誰であるかを視認した辰は、足を止めて声を掛ける。

「茂やん」

「おお、辰でねぇか」

 隣家の茂やんである。

 村の中でも不信心者で知られる茂やんが、寺を訪れるのは珍しい。

 その訳を聞こうとした辰よりも先に、茂やんの方が辰に尋ねてきた。

「なんだ、辰。こんな処で会うのは珍しいな」

 それはそうだろう。隣同士だから毎日のように庭先で顔を合わせているのだ。

「和尚に相談か」

「そんなとこだ」

「その恰好でか」

 茂やんに指摘されて、辰はようやく自分が山に入る格好のままであることを思い出した。

「うん。山で変なもんを見つけたんでな。どう始末したらいいのかを聞きに来たんだ」

「変なもん?」

「うん。とにかく変な奴でな、生きているのか死んでいるのかもわからねぇ。槍で刺しても動かねぇから、多分死んでいるとは思うけどな。そいつ、毛も生えてないし肉は骨が見えそうなくらい透き通っていて、しかも干物みたいに平べったいんだ」

「なんじゃい、そりゃ」

 茂やんは、皺だらけの赤ら顔をひん曲げた。年は辰より干支一巡りほど上の筈だが、二人が並ぶと親子ほどの年齢差があるようにも見える。

「蛙か鯰の類じゃねぇのか」

「いんや、そういうんじゃない。とにかくでっかいんだ。そいつが邪魔なんで、どうしたもんかと和尚さんに相談に来たんだけどな」

「どのへんで見つけた」

「山の裏手だ。山頂に近い方」

 答えてから、辰はしまったと狼狽した。山の裏手とは、山神村の住人にとって村とは反対側の斜面を指すのだが、化け物が横たわっている場所は、同時に己の秘密の採取場所でもある。他人に知られるわけにはいかない。

「そっか。じゃあ俺は近づかないようにしとこう」

 茂やんが、隣人を手伝うなどという殊勝な精神の持ち主ではないことが、辰にとっては幸いとなった。

「し、茂やんこそ、和尚に相談なんて珍しいな」

「いやあ」

 照れ臭いのか、茂やんは薄くなった頭をぼりぼりと掻く。

 こういう時は夫婦喧嘩の話になると、辰は長年の付き合いから学んでいた。

「辰よ。昨夜おめぇの処で呑んで帰ったら、また嬶が怒ってなあ」

「そりゃそうだよ。てめぇん処の酒が切れたからって、亭主が家のこと放ったらかして隣で夜まで呑み続けてりゃ、怒らねぇ女房はいないさ」

 知ったような顔で言うものの、それが当たり前であるかどうかについては自信が無い。辰に女房はいないし、父が同じことをしでかして母に怒られていたという思い出がある、というだけである。

「それで、ついかっとなって家を飛び出してきたんだが、酒が抜けてみると、俺も悪かったなって思うようになってなぁ。でも素面で帰って嬶に頭下げるのも情けないしなぁ」

 家主が家出する時点で十分に情けない、と思う辰であった。

「ただまぁ、俺もしっかり反省して酒呑みを治したいと思ったから、和尚にその辺をどうにかお祓いしてもらえないかって、頼みに行ったのさ」

「茂やん、お祓いは寺じゃなくて神社でやるもんだ」

「和尚にも同じことさ言われた。どっちも大して変わらんだろうに」

 不信心極まる発言である。

「和尚はこうも言ってただ。酒呑みなんてものは、一杯だけ一杯だけと言いながら、ついつい杯を重ねてしまう。それが毎日続いていたのでは身体に毒だ。そうかといって強情を張り、いきなり呑むのを止めたのでは、心の方が無理をして生活に支障が出る。あんたにこれを言うのはもう四度目になるが、きっぱりと酒を断つよりも、呑む量を減らすことを第一に考えてみたらどうかね。例えば一日に碗で一杯、三日に一度は呑まない日を設ければ、深酒で心身を壊すことなく夫婦喧嘩も減るだろうと説教されちまった」

「で、茂やんは言われた通りにするのか」

「言われた通りに出来るようなら、とっくの昔にやっとるわい。失敗してどうにもならんから、お祓いしてもらおうと思ったんでねぇか」

 まあ無理だろうなと、辰も思っている。茂やんが酒を自制できるような人間だったら、そもそも隣の家まで集りに来ない。

「まあ、ほとぼりが醒めるまでもう少し散歩しとるだ」

「そうか。ほんじゃ俺は和尚の処さ行くから」

 追い立てるように茂やんを見送ってから、辰は石段を上り続けた。

 本堂の前で訪いを入れると、辰や茂やんに比べれば上質の作務衣を着込んだ和尚が、にこやかな笑顔で出迎えてくれた。

「おや、辰坊やかい」

「坊やは止めてくださいよ、和尚。俺だって一応大人なんだから」

「何を言っとるんだね。儂の齢なら、村の人間の半分くらいは坊やか嬢ちゃんだよ」

 確かに、和尚は死んだ辰の両親よりも年上だという話を何処かで聞いたことがある。髪も髭も生えてはいないが、皺こそ少ないものの痩せこけた顔を見る限り、ひょっとしたら親の親よりも齢が上なのかもしれない。

「しかし、お前さんが寺に来るのは久しいな。てっきり茂三の不信心が移ったものだと思っておったのだが」

「いや、それは」

 和尚は、痩せ細った外見に合わないほどの大声で笑った。

「そう真に受けるでない。お父つぁんとおっ母さんを亡くしてからお前がどれだけ頑張っているか、儂も噂で聞いておる。昔みたいに遊びに来なくなったのは、少々寂しいがのう。ま、上がりなさい」

 和尚に促され案内された客間は、板張りに飾り気のない座布団と、幼い頃の辰が遊び場にしていた頃のままである。変わったところといえば、辰の視点と己の立場くらいであろうか。

「それで、今日はどうしたのだね? ご両親の法事には、まだ間がある筈だが」

「和尚。此処の山には化け物が棲んでいるという話を、聞いたことがありますかね?」

「化け物?」

 流石の和尚も、このいきなりな質問には面食らったようだが、すぐに落ち着きを取り戻す。

「いや、儂は今まで一度も聞いたことが無いよ。辰や、お前さんは何か見たのかね」

「見た、見ました。いたのです。あれは化け物としか思えねぇ」

「どんな奴だね」

 辰が茂やんに伝えた時と同じ説明をすると、聞き終えた和尚はふぅむ、と髭の無い顎に手を当てて唸った。

「骨まで透き通った、平べったい生き物か」

「それに、身体のどこにも毛が生えてなかった」

「それは儂も同じではないかね」

「和尚には眉毛と睫毛があるでねぇか」

 辰に指摘された和尚は、何故か嬉しそうにほっ、と声を上げた。

「なる程、辰のいう通りじゃ。こいつは一本取られたわい」

 顎に当てていた手をさらに上げ、自分の禿げ頭をぴしゃりと叩く。

「しかし、そういう話は拙僧ではなく、村長に伝えるべきではないのかね。山の持ち主と法律で定められているのは村長なのだから」

「村長は手続しに東京へ行ったままで、予定通りならまだ戻ってねぇ筈だ」

「そうだったな。あれも村のために忙しく動き回っているからな」

 山神村の村長として、東京で何やら色々と面倒な手続きを行わなければならず、息子の良太郎を留守番に残したまま十日は戻らない予定である、と出発前に言い渡されている。上手くいけば隣村との併合も可能であると言い含められてはいるのだが、それがどうして村のためになるのかについては、辰には今一つ理解できない。

「だから今のところ、相談できるのは和尚しかおらんのです」

「良太郎はどうだね? あの子は儂より物知りだから、その化け物について何か知っているかもしれんぞ」

「あれに相談は、ちょっとなあ」

 良太郎は村長の一粒種なので、死にでもしない限りは跡を継いで次の村長の座が約束されている男なのだが、住民からの信頼は皆無に近い。

 村長という比較的恵まれた家庭の一粒種として大事に育てられたせいか、あるいは本人が言う通り、激動の時代を乗り切ることが出来るようにと幼い頃から英才教育とやらを受けてきたせいなのか、父親に比べて高慢で住民を見下しがちになるという悪癖を持っており、周囲から反感を持たれている。山神村の山を政府から買い取った件も、実際に金を出して手続したうえで所有者となったのは父親なのに、自分が助言して買い取るようにと何度も働きかけたから今の状況があるのだと、事あるごとに手柄顔で語っては恩に着せようとするものだから、村の人間はすっかり良太郎を敬遠するようになってしまった。

 また、良太郎には学や見識を披露して失敗するという軽率さも併せ持っている。

 後学のためと、父親に連れられ東京や関東一帯を周遊した良太郎は、村とは別天地のように近代化され生まれ変わった新しい日本の姿に感動した。それだけならば単なる個人の体験で終わっていたのだろうが、山神村に戻った良太郎は同年代の若者相手に都会の素晴らしさ、住み易さを繰り返し語っていたものだから、遂には都会にあこがれる青少年が家を捨てて都会へ、自立した女性像を吹き込まれた少女たちは親元への仕送りを条件に製糸場へ駆け込むという事件が起こってしまった。

 こうして、家出された親は勿論のこと、村の若者のほぼ半数が消えてしまったことで働き手と家業の継ぎ手を失ってしまった村の恨みは、因果の応報として良太郎一人へと向けられているのである。

 この事件により嫁の候補がいなくなってしまった辰も、被害者の一人と言えなくもない。

村長が身を粉にして山神村のために尽力しているのも、あるいは思慮が足りない一人息子の不始末に対する罪滅ぼしなのかもしれない。

 尤も、辰自身は良太郎に対して恨みも憎悪も無い。鼻持ちならない性格の嫌な奴ではあるが、同い年の幼馴染で付き合いも長いし、今だって嫁探しの最中という共通点もあるから、山神村の住民の中では、仲は悪くない方である。

 それでも和尚に相談したのは、良太郎に相談して状況が悪化することを懸念したからという辰なりの配慮であり、それ以外は精々が、山の麓にある寺の方が村長宅より近かったという程度の理由である。

「しかし、村長の山で起こったことを儂に相談したところでどうにもならんぞ。どうするか決めるのは村長の役目であって、儂の役目ではない」

「でも、そいつは死んどるわけさ。生きている奴をどうすりゃいいかは村長が決めることなんだろうけど、死んだもんをどうするかは和尚に聞いておくのが筋じゃねぇかな」

たった今思いついた、新たな理由である。

「なんじゃ、死んでおるのか」

「多分そうだと思うな。槍で突き刺してみたけど、ぴくりともしねぇもん」

「酷いことをする」

「その前に、何度も軽く突いてみたんだけど起き上がってこなかったんだから仕方ねぇさ。生きていたんだとしても、起き上がって逃げない方が悪い。別にこっちは取って喰おうってつもりじゃないし、退いてくれれば良かったんだからな。死んじまったら退くにも退けねぇだろうけど」

「化け物とはいえ、死ねば仏であろう。仏を傷つけたのであれば仏罰が下るぞ」

「えっ」

「見仏が罰を下されぬでも、屍を晒す姿を見られた無念と傷つけられた怒りから、化けて出るかもしれぬ。いや、これは祟るかな?」

 それは困ると辰は慌てた。

 祟り殺されたくはないし、今以上の不幸にも遭いたくはない。

「和尚、どうすれば仏罰から逃れられるかな?」

「埋葬してやることだ。余程の恨みを抱いていない限り、それで成仏する」

「埋めるだけで良いのかね。それで祟ったり化けて出たりはしなくなるのか」

「そうだな」

 何故か和尚は居ずまいを正してから、咳払いを一つした。

「亡骸を丁寧に、真心込めて埋葬すれば、山怪と雖も成仏することは確実であろう。寧ろ埋葬せず野外に屍を晒し続ける方が、目撃者の前に怨念として具現するやもしれぬ。通りすがりであれ、野晒しの姿を見た者に怨霊は憑くと言われておるからな。そういえば、儂も若い頃に何かの書物で読んだことがある。唐という外国の話で、地面を掘っていたら生き物なのか木の根なのか判別がつかぬ怪物が出てきたのだが、何もせず放ったらかしにしていたら次々と災いが起き死人も出たので、慌てて埋め戻したら禍も収まった、という話だったな。その怪物は太歳という名前だったそうだが、お前さんが見つけたのは恐らくそいつの子供か親戚なのだろう」

「あれを……あれを埋めるのか」

 辰は嘆息した。相手は畳にして六畳か八畳はありそうな巨躯である。

 しかし、埋葬しなければ村に災いが起きるかもしれぬと聞いてしまった今となっては、どんなに骨が折れる作業だろうと逃げるわけにもいかない

「まあ、運が悪かったと諦めるのだな。ついでに念仏の一つでも唱えてやれば、もっと良い」

 そう言われても、辰が覚えている念仏はナンマンダブの一語のみである。

「そうだ。和尚が一緒に来て、念仏を唱えてくれるわけにはいかんかね?」

「辰よ。儂を幾つだと思っておる。この老齢で山に入れるものか。もし足を滑らせて山道を転がりでもしようものなら、山怪より先に儂の方が成仏してしまうわい」

「それもそうだな。和尚を死なせるわけにはいかんもんな」

 老齢で山に入ったまま二度と戻らなかった村人は、昔から言い伝えられているだけでも両手の指では数が足りないと父から聞かされていた辰は、和尚の言い訳とも取れる言葉にあっさりと納得した。

 尤も、遠い将来のことを気に掛けない程度に若い辰には、和尚亡き後の寺と山神村の将来について考えるだけの頭も持ち合わせてはいなかったのだが。



 辰らが良太郎に呼び出されたのは、その日の晩のことである。

「珍しい客人の、珍しい話を聞きに来なさい」

 極めて単純で高圧的な内容だが、にも拘らず村長宅に集ってきた男共の目的は、珍しい客の話ではなく宴席で振舞われるであろう清酒である。茂やんのように酒なら味醂でも構わないという呑兵衛もいるが、酒といえば自家製の濁酒が基本である山神村では、芳醇な香りとすっきりした口当たりの清酒は、年に数える程度しか飲む機会が無いという希少さもあり、男共の大好物である。

「良太郎」

 椀を満たす清酒に口を付けようとした鍛冶屋の捨吉が怪訝な顔になり、座敷で客人と話し込んでいた主催者に声を掛けた。

「まさかこれ、祭りの時の振る舞い酒じゃあるめぇな。もしそうなら、俺たちゃ祭りで何を呑めばいいんだ」

「心配無用。村の酒に手を付けてはいないよ」

「そんなら、おめぇん処のお神酒か」

「それでもない。その酒は、今しがた紹介したこの人が持ってきてくれたものだ。気にせず呑んでくれ」

「どうも」

 紹介された男は、ぺこりと頭を下げた。

 縁側にどんと据えられた、塗りも飾りも無い五升樽。その注ぎ口からだくだくと流れ出る清酒が、各自が持参した椀に注がれている間に紹介されたらしく、その際に名乗りもしたそうだが、辰も捨吉も次々と椀を満たしていく清酒に気を取られていたので、どうやら誰も聞いてはいなかったらしい。

 東京がまだ江戸と呼ばれていた頃から絵草紙屋を営んでいたという話だけは覚えている。

 齢は辰や良太郎よりも一巡り上というから、茂やんと同年代の筈なのだが、どう頑張っても茂やんの方がずっと老けて見える。

 明治維新後もしばらくは東京に店を構えていたのだが、日が経つに連れて珍しがられるのは浮世絵よりも外国の絵、求められるのもまた然りで、店を訪れる客足も徐々に減る一方という状況に、思い切って店を手放し絵草紙の行商を始めてみたのだが、横浜から九州まで外国人が多くいそうな場所を求め、若干の英語を交えての飛び込み販売を続けた結果、思っていたよりも人気があった錦絵や浮世絵版画に高い値がついて飛ぶように売れたらしい。

 このぼろ儲けに気を良くした絵紙草屋は、東京に帰還するなり知り合いの版元や絵草紙屋を巡り回って売れそうな作品を買い漁り、今度は東廻りで行商するのだそうだ。

 山神村に立ち寄ったのは、維新前から贔屓にしてもらっていただけでなく金も工面してくれた恩人である村長に、借りていた金と恩を返しに来たからだという。

「あんた、よく紙切れ売りながら旅しようなんて思ったなぁ」

 清酒の入った椀を手放さず呆れたように言う、とても同年代とは思えない茂やんに、絵草紙屋はしたり顔で答えた。

「それがね、田舎なんかだと古い新聞でも珍しがって食い物や水と交換してくれるのだよ。泊りの駄賃になったこともあった」

「新聞?」

「起こった事件や流行の紹介をする出版物だよ。まあ正確には、そういう大衆向けのものは小新聞、私が読むような格式高いものを大新聞と呼ばれているのだがね」

 しゃしゃり出てきた良太郎が、如何にも偉そうなことを言う。

 こういう男だから人望は少ない。今日だって、村中に声を掛けたと言う割には集まったのが五、六人である。村長夫妻が不在で良太郎しかいないような屋敷に来たがるような輩は、そうはいない。この場にいる村の人間は着物なのに、一人だけ不似合いな洋服を着ている点も癪に障る。これが良太郎の父親であれば、逆に辰でさえ村の誇りと讃えたくなるわけだから、人望の差というものは如何ともしがたいものがある。

 それでも集まってきたのは酒好きか話好きか、或いは辰のような腐れ縁ぐらいであろう。

「読めねぇ」

 こういうものだよ、と絵草紙屋が差し出した新聞とやらを引っ手繰った捨吉は、一瞥するなりすぐそれを放り捨てた。

「読んでやろうか」

 馬鹿にしたような良太郎の言い草に、歯を剥き出して拒絶する捨吉。

 辰にもその文字は読めなかったが、隣に刷られた版画の女が美人であるということだけはわかった。

「難しいものより、面白いものが見てぇな」

「海の向こうの連中も、考えていることは同じらしい。綺麗な浮世絵はよく売れたが、草双紙もよく売れた。草双紙というのは絵が付いた物語本だが、中でも枕草紙に高い値が付いたので、かなり儲けさせてもらったな」

「枕草紙って何だ」

「春本のことさ」

 男共の間からおおっという声が上がったが、辰にはその理由が分からない。

「辰、春本っていうのはな、男の女の交合いの話じゃて」

 酒と助平話に目が無い留六が、下卑た笑みを浮かべてから椀を呷る。

「読むのは春本、見るのは春画だったかな。絵草紙屋の兄ちゃんよ、春画は持ってきてねぇのかい」

「如何せん、店を構えていた頃から売れ行きが良かったからね。残念ながら今は何処の問屋でも品切れらしい」

「残念だったな、辰」

 からかうように辰の背中を叩く留六の方が、残念そうな顔をしている。

 とはいえ残念なのは辰も同じである。それに女房がいる留六は何時でも本物を拝むことが出来るだろうが、辰は本物どころか絵ですら女の裸形を拝んだことは無い。

「私が持っていた最近の浮世絵版画の中でも、特に良い値が付いたのは芳幾――落合芳幾と月岡芳年の二人だね。美人画も高く売れたが、血みどろの無惨絵も高く売れた」

「そんなものまで売れるのかい」

 茂やんが頓狂な声を上げた。昨夜の夫婦喧嘩の苦い記憶は、もうとっくに清酒で洗い流されているのだろう。

「売れた、売れた。多分、連中の本国ではああいうものは売られていないのだろうな。その物珍しさと見た目の物騒さに値が付いたのだろう。なに、持っていたところで別に祟られるような絵でもない」

 祟られる、という言葉を聞いた途端、辰は口に含んでいた酒を吹き出しそうになった。和尚いうところの「山怪」は、日が暮れるまでにどうにか埋葬した。これでも祟られるようなら、とんだとばっちりである。

「物珍しさといえば、妖怪画も結構な値が付いたな」

「あんなものが売れるのか」

 驚きの声を上げたのは、意外にもそれまで訳知り顔で余計な注釈を加えながら呑み続けていた良太郎だった。

「文明国の人間が、妖怪なんてものを信じるとは」

「信じているわけではないだろう。単に、自分たちの国では見たことがない珍しいものの絵だからという理由で買い、土産にしているだけではないかね」

「俺たちだって、妖怪なんてものは見たことがねぇけどな」

 留六の言葉に、男共の間からどっと笑い声が上がる。

「確かにそうだ。妖怪を描いた奴は、一体何処で本物を見たんだろうな」

「だろう? この村にだって、今までに妖怪とやらを見た奴は一人もいねぇ」

「いるぞ」

 笑い声が収まってから異を唱えたのは、普段から留六と折り合いが悪い茂やんである。

「何じゃ、茂。おめぇは見たというのか」

「俺じゃねぇ。辰が山で見たって言うんだ」

 座敷中の視線が、一斉に辰へと向けられた。

「ほんとか、辰」

「いや、妖怪かどうかは俺も知らねぇ。和尚は山怪とか言ってたけどな」

「どんなだ、どんな奴だった」

 別に隠すようなことではないと、辰は本日三度目になる山怪の説明を始めた。遭遇場所について詳しく語るのを控えたのは言うまでもない。

 辰の説明が終わった時には、それまでの盛り上がりが一炊の夢であったかの如く、宴会場はさながら水を打ったようにしんと静まり返っていた。

「辰よ」

 重苦しい雰囲気の中、最初に口を開いたのは茂やんだった。

 ぐびりと椀を呷ってから、さらに言葉を続ける。

「結局、そいつは生きていたのか死んでいたのか、どっちなんだ?」

「埋めるための穴を掘っていた間も動かなかったし、穴に押し込めて土を被せている間も動かなかったのだから、多分死んでいたのだと思うよ」

「そうだろうな」

 茂やんの後に続くように自分の椀を呷った捨吉が、気勢を上げる。

「そんな奴、もし生きている時に俺が見つけていたら、叩き殺してやったわい」

「生きているのかもしれない」

 ぼそりと呟いた良太郎の言葉に、笑い声を上げようとした捨吉の身体がびくりと震えた。

「なんじゃい、良太郎。辰が法螺を吹いているとでも言いたいのか、お前は」

「そうじゃない。仮死状態か、死んだふりだったのかもしれないと言っているのだ」

 カシジョウタイというのがどういう意味なのか辰には分からなかったが、死んだふりの方は理解できる。

「わかった。狸寝入りというやつじゃな。辰、良太郎の奴、おめぇが狸に化かされて八畳敷きの金玉袋を埋めたんじゃないかって言いたいらしいぞ。まあ俺もそうではないかと思っていたのだがな」

 からかわれたことより、自分が見つけていたらと豪語した捨吉の手のひら返しに呆れる辰ではあったが、言葉には出さない。

「そういう意味じゃない。辰、お前が最初に山怪を見つけてから埋めるまでの間に、どれだけの時間が経っていたかわかるかい?」

「うん。最初に見つけたのが昼前で、埋めたのが夕暮れだな」

「動物の死骸なら、それまでの間に腐るか獣に喰われているかするものだ。それなのに姿に変化が無かったということは、そいつが生きていたかもしれないという証拠でもある」

「でも、槍で刺しても動かない生き物なんているかね?」

「動けば命が危ういという状況であれば、人だろうと獣だろうと多少の痛みは我慢できるものだ」

「あのな、良太郎」

 今度は流石に捨吉も話に割って入る。

「おめぇは山に入ったことが無いから知らんのだろうが、あの山にそんな化けものがいるなんて話、俺たちゃ聞いたことがねぇ。なあ、皆」

 捨吉の問いかけに、その場で酒を呑んでいた男共は一斉に神妙な顔つきで頷く。

「捨吉。山怪の正体は化けものではなく、病気の動物ではないかと思うのだよ、私は」

「病気の動物?」

「そうだ。疥癬のような病気で毛が抜けた鹿か猪、あるいは……」

「妖怪じゃないかね」

 それまで黙ってやり取りを眺めていた絵草紙屋が、良太郎の解釈に待ったを掛けた。

「安芸……いや、今は広島というのか。あの辺りを旅していた時分に聞いたことがある。山の中や竹藪に現れて、道行く人を足止めして驚かすのだそうだ。確か、ぬりかべとか言ったかな。そいつの死骸ではないのかね」

「これは、文明化した東京を拠点としている貴方らしくない発言ですね。妖怪などという時代遅れの代物を未だに信じているなんて」

 その時代遅れの代物を、子供の頃の良太郎が大の苦手としていたことは、辰より年配の村の人間なら誰でも知っている。

「それに貴方だって、妖怪絵を買った外国人が妖怪を信じていないと言ったばかりじゃないですか。それなのに貴方が妖怪を信じていると言うのは、矛盾するのでは?」

「しかし、山で妖怪に出会ったという話なら、全国何処ででも耳にするだろう。それに対して、山で病気の獣に出会ったという話は聞いたことが無い。君が知っているのは、書物などで語られている海外の出来事であって、それを我が国の山中での出来事に繋ぎ合わせようという解釈は、流石に強引だと思うが」

「それは、今まで妖怪の正体が病気の動物だと、誰も判別できなかったからですよ」

「だからといって、辰が見たものが病気の獣だったという証明にはならないだろう。君は今の話を聞いて、その正体が病気の獣だと言い切れる確固たる理由があるのかい。私には妖怪だと言い切るだけの理由があるぞ。別の場所で、似たような話を聞いているのだからな」

 目撃者としては、どちらが真実であるのかまではわからない。

 わからないが、どちらかといえば絵草紙屋の方に分があると辰は思った。

 だが良太郎も引き下がらない。

「しかし、妖怪だと決めつけるのも早合点というものでしょう。生きているのか死んでいるのか、仮に死んでいたとしても、それは妖怪ではなく動物の木乃伊かもしれない」

「木乃伊か、それはあり得るかもしれないな。しかし妖怪の木乃伊であるかもしれない」

「木乃伊ってなんだ?」

 辰が抱いていた疑問を、実際に声に出したのは留六だった。

 酒を呑みながら論議を続けていた二人の自称知識人は、杯を重ねる手をぴたりと止め、同時に質問者の方へと顔を向ける。

「生乾きになった死体だよ。外国では手間暇かけて死体を木乃伊にしていた国があったと聞いたことがある」

「わざわざ作るのか」

「そうだ。死体から内臓を取り除いて、残りを陰干しにするらしい。水分が抜けて腐りにくくなり、生前の姿を保っているのだそうだ」

「スルメみたいなもんか」

「味は保証しないけどね」

 男共の間から、どっと笑い声が上がる。

「妖怪も木乃伊になるぞ。私は、旅の途中で立ち寄った見世物小屋で、河童や人魚の木乃伊を見せてもらったことがある」

「見たのか」

「ああ」

 答えてから、絵草紙屋はぐいっと盃を呷った。客人である彼は自分の椀までは用意できなかったようで、村長の家から盃を借りているらしい。

「とはいえ、人魚の木乃伊は猿と魚の干物を繋ぎ合わせただけの贋作だったけどね」

「なんじゃい、紛いもんか」

 残念そうに呟いた捨吉が、庭に唾を吐いてからまた椀に清酒を注ぐ。

「龍の子供の頭蓋骨なんてものも見たことがある」

「西には龍がいるのか」

「これも紛い物だ。そいつを見る前に、長州の料理屋で同じものを見せてもらったことがある。正体は鱧の頭の骨だったよ」

「鱧?」

「鰻や穴子みたいに細くて、しかもでかい魚だよ。西ではよく食べられているのだそうだ」

 良太郎が、村の恥を晒すなとでも言いたげに答える。

「鰻みたいなやつか」

「そう。細長い魚だ。鱧は穴子よりも遥かに大きくて、七尺あるやつもいるそうだ」

「凄ぇな、俺の褌より長ぇや」

 また爆笑の渦が起こった。

「しかし、河童や鬼の木乃伊が存在するという話は聞いたことがあるし、それらを奉納している寺社もあると聞く。ならば、辰が見たという山のものの正体が、妖怪の木乃伊であると考えられないわけでもあるまい」

「その説と同じくらい、病気にかかった動物の死骸という可能性もあるというわけですな」

「実物を皆で見りゃあ、はっきりするんじゃねぇかな」

 呑みながらの茂やんの言葉に、男共の中から次々と声が上がる。

「そうだ。辰、持ってこい」

「おめぇが埋めたんだから、責任もって掘り返せ」

「そこの二人に見せて、そいつを肴に明日も酒盛りだ」

「勝手なこと言いやがって」

 酒の勢いも手伝い、辰は自分の椀を床に叩きつけた。

「あれを掘り返したら祟るかもしれねぇんだぞ? それに重くて動かすだけでも精一杯なのに、村まで運んでこいだなんて、どいつもこいつも他人事だからと気楽に言いやがって。何様のつもりだ」

 怒鳴り散らしてから、辰は拾い上げた椀に新しい清酒を注ぐ。

「それに、ここまで運んだところで一文にもならねぇだろ。俺だけがしんどい思いをするだけでねぇか。誰がやるもんか」

「辰」

 良太郎がポケットから一枚の貨幣を取り出した。

「五十銭だ。運んで来たら、これをやろう」

「私も同額出そう」

 絵草紙屋も便乗する。

「辰。五十銭と五十銭、合わせて一円だ。やってくれるな?」

「明日やる」

 一円もあれば、冬を越せるだけの蓄えを買い込むには十分である。

「化けもんの死骸に、一円も出すのか」

 呆れたような捨吉の言葉に、盃を空にした絵草紙屋は愉快そうに笑いながら答えた。

「もし本物の木乃伊なら一度見ておきたいし、行商中の話の種にもなる。金を払うだけの価値はあるだろうさ。それに妖怪の木乃伊なら、それこそ見世物にでもすれば儲かる」

「売れるのか、そんなもんが」

「私が見たと言った贋作の人魚でも、見世物小屋に買い取られた時には、数十円はしただろうからね。本物の妖怪なら、百円は下らないだろう」

「百円って、幾らだ」

 捨吉の田舎者極まる発言に良太郎は顔を顰めた。

「それに、動物のものだとしても木乃伊なら薬として売れる」

「そいつはあれか。熊の胆みたいに干して使うのか」

 留六の問いに頷く良太郎。

「外国では流行していたらしい。不老長寿に痛み止めの効果があると聞いたことがある」

「東京が江戸だった頃には、回春と若返りの効果もあると噂されていたよ。尤も、飲んで効果があったという人に出会ったことは無いがね。実際に値を付けるとしたら、相当な額になるだろうね」

「熊の胆か。あれは捨吉、おめぇがガキの頃に山で見つけた熊から取り出したもんだったっけかな? 肉と毛皮を分けてもらった覚えがあるんだが」

「そうだ。親父とお袋がそれを干してから金に換えた途端に、村を出てったんだ」

 名前が無かった彼は、それ以降捨吉と呼ばれるようになった。

「熊の胆は幾らになったんだ」

「知らねぇ。でも、親父は金色の粒を両手で抱えていたような気がする」

 捨吉の両親が彼をおいて言った理由は、誰も知らない。

「熊の胆は、今でも高額で取引されているよ。それだけに偽物を掴まされたという話も耳にするのだけど」

「子分の一人が偽の熊の胆を売っていると知って懲らしめ、買い手に詫びを入れさせたのは、国定忠治だったかな? あれで言われていた口上は、熊の胆は北向きの冷気に晒しておくと増え続けるという、荒唐無稽な法螺話だった筈だが」

「熊の胆は、一度本物を見たことがあれば容易に真贋の見分けがつくという話を聞いたことがある」

 自称知識人二名の話題は熊の胆と侠客に移ってしまったが、辰に男共の肴は、専ら木乃伊を売り払って得た大金の使い道についての絵空事だった。



 早暁未だ訪れぬ夜半刻。

 酒宴の場に寝転がる酔っ払い共を起こさぬようにと足音を殺し、村長宅から抜け出そうとする影が一つ。

 辰である。

「辰」

 背後から掛けられた声に、びくりと体を震わせてから振り返る辰。

「お、おう。良太郎じゃねぇか」

 はてな、と辰は違和感を覚えた。酒が好きなくせに弱く、普段ならば一番に酔いつぶれている筈の良太郎が、他の連中とはあべこべにしゃんと立っているではないか。

「どうした、おめぇ。いつもなら」

「誰かが抜け駆けするだろうと思って、途中から呑むのを控えていたのだよ」

「ぬ、抜け駆け?」

「惚けても無駄だよ。こっそり山の怪物を持ち帰って、私たちには見失ったと嘘を吐いてから、見世物小屋に売り払う魂胆だろう?」

「うっ」

 図星を突かれ狼狽する辰。

 絵草紙屋の言っていたことが事実ならば、辰の懐に入るのは一円どころではない。しばらくは遊んで暮らせるだろうし、夢の中でしか体験できないような贅沢を現の世界で楽しめるかもしれないのだ。心を動かぬ奴は男ではない。

「しかし、一体誰に売るつもりかね?」

 辰の野心に、良太郎が水を差した。

「お前に興行師の知り合いがいるのか? そ奴が本当に山怪を買い取るだけの金を持っているのか? お前を騙すことなく、お前の望んだ通りの金額を払ってくれる保証がどこにある? それに村の連中を相手に、山怪を隠したまま売り払おうとしていることを知られずに通し続ける自信はあるのか? 嗅ぎつけられでもしたら、隠し場所を聞き出すために何をされるか、わかったようなものじゃないぞ」

「うう」

 言われてみれば、確かに良太郎のいう通りだと辰は考えた。酒を呑んでいた時はどうにでもなると思い込んでいたことが、改めて指摘されると、どうにもならない。特に、買い手がつかない点は何よりの問題だった。見世物興業が山神村を訪れたのは、辰が生まれてから一度だけだし、これから来るという保証はどこにも無い。そうかといって、辰が巨大な山怪を村の外に持ち出そうとすれば誰かに見つかってしまうだろうし、誰にも見つからなかったとしても、辰には興行師の心当たりなど無い。

「絵草紙屋がいる。あいつが見たという見世物小屋の場所を聞き出せば」

「あの人をあまり信用しない方が良い。ああ見えて、絵草紙を売りながら後ろ暗い商いにも手を付けている人だから、下手に関わると後悔する破目になる。今度のことだって、山怪をお前から騙し取って独り占めする魂胆かもしれない。それどころか知らずに悪事の片棒を担がされた挙句、お縄を受けてしまうかもしれないのだぞ」

「えっ」

 辰の脳裏に、幼い頃に聞かされた牢屋の中にいる己の姿が浮かんだ。陽の当らぬ寒い牢内で襤褸同然の着物を引きずり、すきっ腹を抱えながら頑丈な格子戸にしがみついて、沙汰が下される日はまだかと繰り返し獄丁に尋ねるも無視される日々。

「じょ、冗談じゃねぇ。俺は咎人になんかなりたくはねぇ」

「そうだろう。だから、山怪は私のところに持って来なさい」

「へぇ?」

「私に良い考えがある。山怪を村の宝として奉納するのだ。その正体が本物の妖怪か病気の動物かなど、些細な問題でしかない。村で保管すれば、珍しいもの見たさに人が大勢来るだろう。そういう連中から見物料をせしめて村のために使えば、山神村は今よりずっと栄えるだろうからと、父を説得して買い取らせよう」

「幾らで買ってくれる?」

「具体的な金額は、父に話してみないことには決められない。そもそも父がまだ帰ってこないのだから決めようがない。しかし、父が実際に見たいと言い出すだろうから、帰って来るまでの間に山怪の実物を用意しておかなければならない。買い取るまでは、私の家の蔵にでも隠しておけば、奪われることも盗まれることもない」

「なるほど」

 人の好い辰は、すんなりと納得した。良太郎が山怪を騙し取ろうと画策している、などと考えないのは、単純とも言える人の好さか、そこまで頭が回らないからか、あるいは長年の付き合いによる僅かな信頼によるものだろうか。

「だから、山怪は私の処へ持って来なさい。くれぐれも寺の和尚に渡してはいけないよ」

 当然だろう。和尚に話したところで辰の得にはならないのだ。それどころか、せっかく埋葬した仏を掘り返し売り払ったことを叱られてしまうかもしれない。

「手付金をやろう」

 そう言うと、良太郎は辰の手を取り硬貨を握らせた。辰が手を開くと、其処に置かれていたのは宴会の最中に見せた五十銭玉だった。

「山怪を持ち帰ったら、皆の前でもう五十銭渡してあげよう。買い取りの値段を父に相談するのは、それからの話になる。辰、よく考えろ。お前が村に富を齎した有名人になれるかどうかの瀬戸際だぞ」

「村の有名人……俺が」

 今まで村の大人たちからは碌に見向きもされなかった辰にとって、それは甘美な囁きであり、それまでの迷いを振り切る一石となった。

「わかった。良太郎、待ってろよ。必ず持ってきてやるからな」

「期待しているよ」

 良太郎に約束した辰は、まず山と村長宅との間に位置する自分の家で山入りの支度を始めた。今回は目的地が一ヶ所だけということもあり、鎹付きの藁靴や山袴といった下半身の装備は昨日と同じだが、上半身は菅の角笠のみの軽装であり、さらに槍の代わりに土を掘り返すための鉄鋤、その柄と己の身体に運搬用の荒縄を巻き付け。辰が所有する中で最も大きいモッコを畳んで背負う。

 支度を済ませて山へと向かう辰の頭の中は、手に入るであろう大金に対する執着に支配されていた。

 まず、稗や粟を喰らう生活に戻らないよう、米を大量に買い込もう。

 いや、米は放っておけば腐るし、喰い尽くせば無くなる。

 酒だってそうだ。美味い酒は大好物だが、たまに呑める程度で良い。

 それより、家を建て替えて小作人を雇おう。人を使うような偉い人間になれば嫁が来てくれるかもしれぬ。

 しかし、幾ら待ったところで嫁が来てくれるとは限らない。待つだけの漫然とした日々を過ごすよりは、逆に自分が東京に出て遊女を抱いた方が良い思い出になるし、捨吉らにも自慢できるではないか。

 そうだ。まずは一度で良いから女を抱きたい。抱かねば死んでも死に切れぬ夢なのだ。

 田舎者の童貞らしい結論に辿り着き、意気揚々と斜面を大股で駆け上る辰の視界に、自分と同じような足取りで先行する男の姿が映った。

「茂やん!」

 大声で呼び止められた茂やんは、辰が良太郎に呼び止められた時と同じように身体をびくりと震わせてから振り向いた。

「おう、辰でねぇか」

 あの時の自分と同じ反応を見せた茂やんに、辰は嫌な予感を覚えた。

 それに茂やんも、やはり辰と同じように鉄鋤を担いでいる。

「茂やん。まさか」

「おうよ。あんな話を聞かされて、おちおち呑んでいられるもんか。辰よ。おめぇが来たということは、化けもんを埋めたのはやっぱりこの辺で間違いねぇんだな」

 迂闊だったと辰は後悔した。

 茂やんは、寺でのやり取りを覚えていたのだ。

「茂やん、俺の得物を横取りするつもりなんだな」

「そのつもりだったが、おめぇの顔を見て考えが変わった。運ぶのを手伝ってやるから、金は山分けといこうや」

 ゆっくりと斜面を下りてきた茂やんが、小狡い笑みを浮かべる。

「埋めた場所は、おめぇしか知らねぇ。他の奴らに追いつかれて横取りされるよりは、お互い半分ずつで儲けた方が利口ってもんだ」

「ふざけるな。運ぶのを手伝うだけで山分けなんて、そんな虫の良い話があるか」

「そんなら、買い手も俺が探してやろう。高く買い取ってくれる奴を見つけてやるぞ」

「生憎だったな。買い手はもう決まっているんだ」

 そう言いながら辰が懐から手付の五十銭玉を取り出し見せると、茂やんはありゃ、と頓狂な声を上げた。

「なんじゃい、おめぇもか」

 茂やんもまた、懐から白銅貨を取り出す。

「良太郎め、謀ったな」

 辰の腸で、むかむかしたものが渦巻き暴れる。

 良太郎としては、山怪を持って来る者は誰でも良かったのだろうが、煽て言葉を真に受けていた辰にとっては裏切り行為に等しい。

「辰.良太郎は信用できんぞ」

 茂やんの言葉が追い打ちをかけるが、だからといって茂やんが信用に値する男になるわけではないことは、これまでの行動で自明である。

「俺に任せておけ。良太郎が悔しがるような高値で売りつけてやる」

「おめぇに任せるにしても、分け前は俺が八で茂やんが二だからな」

「そりゃねぇよ。あんまりだぜ、辰。俺にゃ家族がいるんだ。独りもんのおめぇより貰いが少ねぇんじゃ、遣り切れねぇ」

「好きで独りもんになってるわけじゃねぇ。それにあれを見つけたのは俺なんだから、俺の取り分が多いのは当然だろうが。もし俺が苦労して見つけていなかったら、おめぇはお零れに預かることだってなかったはずだ」

「何が苦労だ。運が良かっただけじゃねぇか。そもそも見つけた、見つけたって言うが、おめぇは見つけた化けもんをそのまま打ち捨てたようなもんでねぇか。捨てられたもんを俺が拾って持ち帰っても文句は言えねぇ筈だ」

「何をてめぇ勝手なこと言ってやがる。茂やん、おめぇみてぇなシミッタレと手を組むなんて、真っ平御免だ。とっとと家さ帰って、嬶に深酒の詫び入れてこい」

「この野郎、要らんこと思い出せやがって。こっちこそ、おめぇなんかに手を貸すもんか。この辺にあるのは間違いねぇんだ。こうなったら俺が先に見つけて持ち帰ってやる」

「いい加減にしろ、この酔っ払い」

「何を、このっ」

 斜面の上方に立っていた茂やんが、突如として辰に襲い掛かり、皺だらけの両手で辰の胸倉を掴んで押し倒す。

「辰ぅ! 痛てぇ目見たくなかったら化けもんを埋めた場所を言え!」

「誰が言うもんか」

「このっ」

 馬乗りになった茂やんが、辰の顔に拳を振り下ろす。

 痛みと同時に、怒りが辰の身体を駆け巡った。

 言葉にならぬ怒号と共に茂やんを振り落とし跳ね起きた辰は、地面に落とした自分の鋤を探し求める。

 しかし見つけたそれは、辰が手を伸ばすよりも先に、茂やんに拾い上げられていた。

「この餓鬼!」

 叫びながら振り下ろされた鉄鋤の一撃を、間一髪でかわす辰。

 辰より斜面の上方に立ち、不格好な体勢のまま全力で鉄鋤を振り下ろした茂やんは、その勢いに負けて前のめりにつんのめった。

「あっ」

 辰が声を上げた次の瞬間、茂やんの身体は断末魔の悲鳴と共に、急な斜面を猛烈な勢いで転がり落ちていく。

「茂やん!」

 恐らくは助からないであろう隣人の、最後の姿に呆然する辰の頬に、ぴちょりと冷たい雫が当たった。

 雨だ。

 引き返すという選択肢は存在しなかった。こうなったら、何が何でも山怪を持ち帰らなければならない。

 辰は、なるべく他のことを考えないようにしながら目的地へと向かった。

 見たこともない大金が手に入ると知った時の高揚感は、欠片ほども残されていない。

 少しでも良いことを考えようとする度に、耳の中で繰り返される茂やんの断末魔。

 大金を得たら、どうするか。

 茂やんは生きているのだろうか。もし運良く生きていたら、身体が動かせるようなら、自分の家に帰って大人しくしているだろう。酒が抜けたら、いつもみたいに俺も悪かったと反省するかもしれない。医者が必要なら呼んでやろう。医者を呼ぶのに必要な金は、茂やんの取り分から出せば問題ない。

 でも、もし――死んでいたら?

 茂やんのために墓を建ててやろう。山怪を売り払った金の半分は、茂やんの女房にくれてやろう。自分には、東京で一度だけ遊女を抱けるだけの金があれば十分だ。

 雨が強くなる前に、どうにか件の土饅頭の前に辿り着いた辰は、さっそく鉄鋤で土を掘り返し始める。

 最初に外気に晒されたのは、山怪の頭だ。

 その姿は、埋める直前までと何ら変わるところはない筈なのに、発見した時に比べて恐ろしさを感じないのは、売り払えば金になると知ったことで欲望が恐怖を上回っているからだろうか。それとも良太郎と絵草紙屋の解説が、山怪を畏れるに足らぬものだと位置付けてしまったせいだろうか。

 眼球を喪失し虚ろなままの眼窩を晒していた瞼も、並ぶ歯を見せびらかすかのように大きく裂け開いていた筈の口も、埋葬の際に動かしたせいか閉じられており、さながら中身を隠したようにさえ見える。

 結局、これの正体は何なのだろうか。絵草紙屋が言っていた木乃伊なのだろうか。

確かに体毛の無い透き通った肉は干し魚に似てはいるが、形は蛸か水母のようにぐにゃぐにゃとして纏まりがない。

 雨は次第に強くなり、上半身まで掘り出された山怪にも大量に降り注ぐ。

 腰から下の掘り出し作業に移ろうとした辰は、ぎょっとして手を止めた。

 雨に打たれ続ける山怪の、身体が震え、揺れ動く。

 辰が見届けるなか――

 蠢動を続けていた山怪の

 閉じられていた瞼が開き

 失われた筈の眼球が

 ぎょろりと



                                   (了)


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