抵抗運動とその解釈学(2)

↑拙著の論文、号数とページ数が決まって紙として出たようです。今回は、読んでくださった専門家たちからコメントが来たので紹介します。

論文自体は、東ティモールの抵抗運動に関する論文です。詳しくは↓

まず、国際人権運動とインドネシア及び東ティモール史の専門家のDavid Webster教授のTwitterでのコメント。

このコメントは東ティモール研究の、特に人権運動の専門家からだということと、抵抗運動の解釈や意味を問題にしていることを理解してくださった点でとてもうれしい。例えば、外から見た社会運動Aと、内側から見た社会運動Aは、それが理解される意味体型や概念的な枠組みも違うし、人々が与える意味や意義も違う。ある人にとっては民主化運動だけど、別の立場からは宗教運動かもしれない。この議論が東ティモール研究だけではなくて、別の国や地域の社会運動の議論でも広まるといいと思う。

次は、ミャンマーの抵抗運動(ビルマ農民大反乱)の専門家で、Journal of Southeast Asian Studiesの編集長であるMaitrii Aung-Thwin教授からのコメント。

Kisho Tsuchiya's contribution examines key texts associated with East Timor's FRETILIN party, the key independence group that emerged in the 1970s in opposition to the Indonesian military occupation. His analysis offers a reinterpretation of the different symbols, languages, and meanings that were utilised by FRETILIN and suggests that it might be considered more of a religious movement rather than simply as a political party, based on the emergence of a resistance culture that was similar to other cases of rebellion and protest in Southeast Asia. While conventional interpretations present FRETILIN as a secular, post-Cold War democracy movement, Tsuchiya suggests that an older, deeper, and more entrenched form of Southeast Asian resistance mobilisation was at work.

「土屋は、フレテリンが用いた様々な象徴、言語、意味体型などを分析することにより」、「世俗政党というよりは、宗教運動だったと解釈できると主張している」。論文では「世俗政党とも、宗教運動だったとも解釈できる」くらいのことを言ったつもりだったので、「こうも読めるのかー」という感じはする。

最後の文の「土屋は、より古く、深く、定着した東南アジア的な抵抗運動の動員形式が用いられていたと言っている」これはまさにそうだと思います。他の東南アジアの抵抗運動との比較可能性についてもコメントをくださったのでうれしいです。


ここ何十年かで、キリスト教やイスラム教の文化人類学みたいな、一見普遍的なもののローカルな文化や意味論を等学問分野が登場しているけれど、今後人権運動や民主化運動についてもそういう議論が広まると面白いと思う。


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