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ジャーナルから第二次大戦関連の論文を出したけど、英語だから日本語に要約する

タイトル通りです。去年出した論文の要約です。

論文のタイトル

問題の論文がこちら↓

Kisho Tsuchiya, "Indigenization of the Pacific War in Timor Island: A Multi-language Study of its Contexts and Impact," War and Society 38, no. 1, pp. 19-40.

論文のタイトルを翻訳するならば

ティモール島における太平洋戦争の土着化:その文脈と影響に関する複数言語史料による研究

といったところでしょうか。テーマとしては、第二次大戦の開始のすぐあと、連合軍(オーストラリア軍・オランダ軍の混成部隊)が中立国ポルトガルの領土であった東部ティモールを「先制的に占領」した経緯、その後日本軍が友好国であったポルトガル領と敵国オランダ領の両方を含めたティモール島全域を侵略した経緯、3者の「中立」と「侵略」の理解の違い、そしてこの外国勢力の戦争が住民のティモール人同士の戦争に変容していくプロセスとその影響について再構築しています。

セールスポイント

言語:オランダ領西ティモールとポルトガル領東ティモールにおける太平洋戦争の経過を英語、日本語、ポルトガル語、テトゥン語の4カ国語の史料を比較検討しつつ再構成した学会で初めての論文です。

観点:日本軍やオーストラリア軍だけでなく、普通のティモール人やポルトガル人の暗躍や彼らの心情に焦点を当てた論文。誰も「ただの被害者」じゃない。

今の所の評価:チャールズ・ダーウィン大学のバネッサ・ヒアマン曰く、「我々の歴史認識を大きく覆す一流の歴史学の作品」。War & Societyは、AHCI、SSCI、SCOPUSに載っているジャーナルです。

内容・主張の要約

1.先行研究:各国の研究が自国史料ばかりに依拠しているため、それぞれ自国に都合のいい断片的な理解に基づく主張が行われている。例えばオーストラリアでは、ティモールでの戦争に参加していない人物による「史料」に基づいて、「東ティモール人とオーストラリア人が共に日本軍と戦った」という歴史観が国家と研究者の両方から支持されている。

2.占領の始まり:1941年12月の連合軍によるポルトガル領ティモールの「先制的占領」は、イギリスから当時のオーストラリア首相に送られた「ポルトガルは既に占領を了承している」という誤った情報を基づいて行われた。そして同時期、日本軍の大戦略では、「友好国」とみなしていたポルトガル領での戦闘は想定されておらず、1942年2月の日本軍による侵略は連合軍による「先制的占領」への対応として蘭領インド及び豪北での戦略が変更されたことによって起こされた。

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写真1 1942年5月頃の日本軍とオーストラリア軍の位置関係

3.ティモール人同士の戦争への変容:連合国軍は、先制的占領中、実際に戦闘が始まった際のゲリラ戦への移行を想定してティモールの「原住民」を動員する準備を始めていた。それで日本軍は、蘭領・ポルトガル領ティモールの都市部の占領後、「西洋人」との戦争を想定していたが、「原住民」とのゲリラ戦に悩むこととなる。日本軍とポルトガル総督の両方が、オーストラリアに対し「住民の戦争動員は中立の違反であるから停止するように」と勧告するが、マッカーサー司令官からの指示でゲリラ戦が続けられる。後に、日本軍も(状況の変化から中立国への「原住民」の動員が正当化可能だと考えた)第16軍の今村均司令官から「原住民に対しては、原住民を動員して戦え」という指示が出た。日本軍は、「敵地」である蘭領のティモール人を訓練し、「中立地帯」のポルトガル領で煽動活動に参加させるという方法で各地で反乱工作を行った。これにより、戦争の当事者であったオーストラリア軍と日本軍の両方が、ティモール人を戦争に協力・動員させ、さらにポルトガル植民地政府もまたその鎮圧にティモール人部隊を動員し、結果的に1942年7月、あるいは8月頃からティモール人同士が戦う三つ巴の代理戦争のような形になった。

4.代理戦争、それともティモール人の戦争?:外国勢力から見ると、戦争の土着化は「代理戦争化」であった。しかし、史料を細かく見ていくと、この戦争は単なる代理戦争ではなかったとも言える。例えば、日本軍の指示とは別に、かつて平定戦争に参加していた植民地職員たちがティモール人部隊のターゲットにされたと考えられる暗殺事件が多く起こった。また、直接戦争に関わっていない村落が、ティモール人の別動部隊によって壊滅させらたケースがある。これらは報復や、ティモール人勢力間の島内における利益をめぐる争いが「太平洋戦争」の名の下に行われたと考えた方が説得力がある。(ただ日本の陸軍の史料は生存しているものが多くあるものの、海軍側の史料が大部分失われているので、そちらの活動に不明な点がかなりある。)

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写真2 1942年10月頃からのティモール人の「反乱」の位置と日付

5.4万人の人口減少について:従来、英語圏の作品では「日本軍の悪虐行為によってティモール人の人口が約4万人減少した」とほのめかされてきた。実際に日本軍による恣意的な虐殺行為と呼べる事件もポルトガル・日本の史料において記録されてはいるが、記録されている死者を足しても数百人を超えない。当時の資料を検討しないままそれを「日本軍による残虐行為」によるとするのは非歴史学的である。今後さらに研究が行われるべきだが、大まかに「4万人」と推測されてきた死傷者については、外国勢力の戦争がティモール人同士の戦争に変容したこと、そして東南アジア全体で起こった(戦争を主要な原因のひとつとする)1944年の食糧不足が、主な原因といまの所推測できる。

6.日本軍政化でのコミュニティ:1943年から45年までの約2年間、日本軍統治下で親日ティモール人部隊を中心として、蘭領・ポルトガル領の境界を超えた新しいティモール人支配層のコミュニティが作り出された。そこで形成された人脈が、実は戦後のポルトガルへの反逆(1959年のビケケの反乱)や1975年のインドネシアによるポルトガル領ティモールの占領においても役割を担っていた。

実物を読みたいという方へ

所属されてる研究機関や図書館が学術雑誌を購読してる場合はいくらでも実物を読めるのですが、個人でWar & Societyから論文を買うと44米ドルもします。なので、興味のある方はWar & Societyのサイト↓. yhttps://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/07292473.2019.1524348

の論文タイトルの下に著者の連絡先が載ってるので、そちらに「論文読みたい」とメールしてください。著者パワーで読めるようにします。

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