見出し画像

さくらももこ「コジコジ」(2)目的を設定しない生き方

前回に続いてさくらももこの「コジコジ」について。

前回→. https://note.com/kishotsuchiya/n/n2e435f5bd542 

「コジコジ」に出てくる「成長」「存在意義」「目的」などの用語を拾っていくと、コジコジと他のキャラたちの生き方との違いが鮮明になってくる。生産経済で生きているからこそ、私達は「将来のプランを明確に」、「目的意識を持って」生きるようにと、親や先生たちから口酸っぱく指導されるだろう。けれど、コジコジの生き方というのは、狩猟採集民族、あるいはスピノザが肯定的に語っていた「存在理由はあっても、目的は無い」という倫理観に近いものだ。コジコジ的な生き方は、就活では使えないかもしれないけれど、日常では意外とうまくいくものだ。(私はそれなりに実践してる。)

まず他のキャラクターの生き方を追っていくと、コロ助は「美人の彼女をゲットすること」、やかんくんは「ペロちゃんの獲得、人の役に立つこと」、記憶喪のジョニーは「自分の存在理由と意味をみいだすこと」などに生きる目標を見つけながら生きている。彼らは、今の自分が持っていない物や、より完全な自分を獲得することなど、目的論を導入することで生き方に方向を与えている。就活をやっても、キャリア指導を受けても、彼らのように「将来のプランを明確に」するように指導されるだろう。

これに対して、コジコジには目的論が無い。

「息を吸って吐く。それが生きる道。ちがう?」

コジコジは、クラスメイトたちの目的達成に関する不安にも全然共感しておらず、自分の存在目的・意義にはなんの関心もない。

コジコジは、良い・悪い、役に立つ・役に立たないなどの判断を下さない。相手の論理に沿って話すことでそのおかしさを暴露する時以外には。普段は奇妙な悪者で、三日月の夜だけ乙女系美少女になってしまうスージーに対して、コジコジは「スージーはいつもスージー」と言う。このスージーの変化には、目的論みたいなものは何もなくて、どちらかと言えば莊子の「胡蝶の夢」、統合失調症に近い状態に見える。この変動を含めて、コジコジは、人格としてではなく、変化する存在(運動?)としてスージーを認識している。「コジコジはいつもコジコジ」というのも、自分が不変だと言っているのではなくて、この意味で言っているのかもしれない。

「成長」を話題にしている「まほうつかいのメラニーさん」はコジコジの話の中ではわりと説教臭いエピソードだ。メラニーさんいわく、「成長させないお願いは聞いてはいけない。成長は自分で体験するもの」。素敵な人になるには自分自身で成長しなければいけない。お願いはこれを促進しそうな場合だけ聞いてあげるべきだ。コジコジのクラスメイトたちが、目的だけに執着しているのに対して、メラニーさんはプロセスを重視している。まるで某魔法少女まどかマギカのキュウべぇみたいだけれど、これはこれで説得力のある命題だと思う。つまり、親たちはドラえもんになってはいけない、子供ものび太ではいけないということ。「せめてしずかちゃんくらいにはならないとね。」


メラニーさんの論理をコジコジに応用してみると、完全にフィットしているわけではない。コジコジは変化しているのかもしれないけれど、成長するという感覚は持っていない。ただ「遊んで、食べて、寝て」今を生きている生き物だから、自分の外部により偉大な自分や、より過小な自分を設定する必要がない。ほぼ全ての活動は、遊びの範疇に入っている。

クラスメイトたちとメラニーさんは目的論に基づいて生きているという点では同じ前提に生きている。例えばある人が「60代になったらちょいワルイケメン悪影響おじいさんになりたい」というビジョンを持っているとする。これは今存在している自分の外側に「60代の自分」を設定し、そこを目標に生きていく方法だ。メラニーさんは、そこに具体的で現実的な実現プロセスのイメージまで踏み込まなければ意味がないと言うだろう。キャリア指導的な生き方だ。素敵なおじいさんになるという長期的な目標を設定し、短期的には具体的方法に集中する。つまり、行き着く先を前もって設定し、誰かが書いた地図を参考にするだろう。

けれど、この人はかならずしも、ちょいワルイケメン悪影響おじいさんになれるとは限らない。途中で死んじゃうかもしれないし、そもそもイケメンやちょいワルに成れないかもしれない。この目標が絶望的になったとき、どうすればいいと言うのだろうか。

コジコジは全く別の生き方をしている。コジコジの場合、存在理由はある。存在している事自体や今を愉快に生きることがそれだ。けれど、そこには未来像のようなものはない。ベルクソンだったかな、「どこまで歩けるかというのは、歩いてみなければわからない」ということを言っていたと思うけれど、この場合、自分で歩いてみるのがコジコジの生き方で、それは狩猟採集民に少し似てる。


第21話で、コジコジは、「行き方はわからない」けれど、「なんとなく飛んで」いればおとぎの国につけると言う。その定義からして、おとぎの国は、目的地として設定しても、具体的なロードマップを参照しても、たどり着ける場所ではない。遊びながら飛び回ることでたどり着く場所だ。だから、おとぎの国への行き方は誰にでも共有できる知識ではない。

ダンスやある種のスポーツ(私の場合フリースタイルバスケ)をやる人ならば、一定の技術を習得しないと、次のレベルの技術を身体的にイメージすることができない、というのを知っている。RPGをやったことのある人なら一定のレベルに達し、ある種の職業の熟練度を上げるまでベギラゴンの魔法を習得できないということを知っている。習得段階に応じて、見えてくるものというのも変化してくる。これはデカルトや科学が言う所の「誰にでも共有できる明晰な認識」というものではない。ある種の生き方・訓練をしてみた人にしか共有できない真理というものはあるのだ。コジコジの生き方というのは、これに少し似ている。

よろしければサポートお願いします。活動費にします。困窮したらうちの子供達の生活費になります。