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さくらももこ「コジコジ」における「役に立つ/役に立たない」

私が繰り返し読んだマンガ、繰り返し観たアニメにさくらももこ原作の「コジコジ」がある。「メルヘンでシュール」が売りのこの作品は、哲学的という評価も得ている。コジコジはどういう倫理学を展開しているのだろうと思って、ノートを取りながらアニメ版を全話観たことがある。

コジコジは、「役に立つ」という言葉が前提にしている共同幻想のようなものと「役に立たない」ことの価値を語っている。以下、コジコジにおける「役に立つ/役に立たない」の概念について、アニメ版に基づいたノート。

コジコジは、学校教育の目的というものへの宣戦布告から始まる。

コジコジ「それでは学校に遊びに行くとするか。」

コジコジの場合、全ての行動は「遊び」と位置づけられている。「学校に遊びに行く」に対立する論理としての「学校に勉強しに行く」は、他人が定めた目的を内面化することだ。コジコジは、「遊びに行く」という自分の内的欲求を全ての局面で貫徹している。

第1話で展開される、(テストでー5点を取った)コジコジと担任の問答は、コジコジの生き方を端的に紹介する役割を果たしている。


先生「君は毎日いったいどんな生活をしているんだ?」
コジコジ「空飛んで遊んで、そんでお菓子食べて、山に行って遊んだり、海に行って遊んだりね、後寝たりしているよ。」
先生「なに、遊んで食べて寝てるだけじゃないか!」
コジコジ「えっ、悪いの?遊んで食べて寝てちゃダメ?盗みや殺しやサギなんかしてないよ。遊んで食べて寝てるだけだよ。なんで悪いの?」
先生「勉強はどうした?(ミッキーやスヌーピーのような)立派なメルヘン者になるために勉強しろ。」
(中略)
先生「コジコジ、君は偉くなりたくないのか?立派なメルヘン者になりたくないのか?世界中の人達に愛されたくないのか?」
コジコジ「先生、いまお腹空いたでしょう。大きい声出したから。」
(中略)
先生「コジコジ、君将来いったい何になりたいんだ?それだけでも教えてくれ。」
コジコジ「コジコジだよ。コジコジは生まれた時から、ずっと将来もコジコジはコジコジだよ。」

コジコジの発言だけを追うと、「食べる」と「寝る」以外の活動は「遊ぶ」に分類されていることがわかる。

このシーンでは、先生の「何になりたいんだ」という質問は、もちろん職業に関する将来計画を尋ねている。それに対してコジコジは自分の名前を答えている。先生とコジコジが概念体系を全く共有していないことを示すのがこの問答でもある。

先生が言う「立派なメルヘン者」という言葉は「努力して経済的な効果を生むキャラ」という意味で使われている。コジコジは、メルヘンの国において最も古い存在でもある。「経済的な効果を生むため」に何かを行うということは、コジコジの概念体系には存在しない。だから、「将来どんな職業につきたいんだ?」という意味の質問は、コジコジに対しては意味を成さない。

アニメ「コジコジ」では、「役に立つ=経済的な効果を生む」という論理は常に学校や親たちや悪者の側の論理として使われている。

珍しい場面だが、第12話においてコジコジが「便利」という言葉を使っている。

コジコジ「おしりが二つに割れているのはうんこに便利だからだよ。それに3つあっても意味がないからね。」

コジコジにおいて「便利」というのはこのようなイメージだ。スピノザ哲学だと「コナトゥス」に当たると思うけれど、自己の生命維持・活動能力の向上に貢献し、あるいは機能するものは「便利」である。

また、第31話「やかんくん、ザルとしての一週間」では、悪者のスージーとブヒブヒは、「商売の役に立たないザル」とやかんくんを中傷している。彼らにとっての「役に立つ」は「搾取できる」という意味だ。

これに対して、かめ吉は「役に立つ」という言葉を少し違うニュアンスで使っている。

かめ吉「やかんのときはお茶でみんなを喜ばせていたし、今はそばを出してみんなを喜ばせることができるじゃないか。君はみんなの役に立っているよ。」

つまり、かめ吉は「喜びの増大」に貢献することを「役立つ」と言っている。ここでは功利主義に近い考え方が示されている。

すぐ後の第33話「カエルの生き方」では、著者は「役に立たない」と名指しされたカエルたちに、「役に立つかどうかなんて関係ないじゃないか。俺たちはただモーレツに生きてるだけさ。」と言わせている。自分のアイデンティティ探しをしている人間のジョニーはこの発言に感銘を受ける。


プラグマティズムに対する批判が巧みにしかけられているのが第36話「クールの秘訣」だ。クラスメイトたちから「クール」だということで持ち上げられたおかめちゃんとドーデスは、「無駄なことに時間とお金を使わない」、「重要なことだけをやる」ことを「クールの秘訣」と説明する。彼らはクラスで最も成績がよい二人でもあり、経済的にも成功している実業家と厳格で思慮深い王として描かれている。

このように、第36話の大部分がプラグマティズム=クールという文脈で進むが、最後のオチでこれがひっくり返される。脚本家は、たった今プラグマティズムに聞こえる考え方を披露したおかめちゃんとドーデスに、最後のシーンで「コジコジの生き方には全く無駄がない」と発言させるのである。「遊んで、食べて、寝ている」だけのコジコジに無駄がないと。

「コジコジに無駄がない」というのはどういうことか。実はコジコジは、食べて寝る以外の行動は、全て「遊び」に費やしている。食べて寝るのは生命維持に必要なことで、コジコジにとっては「遊ぶ」のが目的なのだからそれは「重要なこと」だ。悲しみに消費する時間、楽しくないことのために用いる時間、必要なこと以外に使うお金が全くない。このシーンでは、おかめちゃんとドーデスは、コジコジの概念体系の内的論理において思考している。

コジコジは、第31話で「コジコジも何の役にも立たないよ」と誇らしげに言っている。コジコジにおいて「役に立つ」というのは誰かの夢を生きてしまうということ、あるいは共同幻想に奉仕すること。自分の内的な欲望と論理を貫徹するのがコジコジにおける「遊ぶ」ということ。彼は、「役に立たない」ことにそれなりの価値を見出している。

続き→. https://note.com/kishotsuchiya/n/n03df9147321e 

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