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文章書いてワンダーランドへ(1)

1.言葉始め、文章始め

言葉を用いて文章を書くという人間だけが行う行為は、どんな作用を人にもたらし、どんな意義を持っているのでしょうか?

本離れ、新聞離れ、雑誌離れが指摘され、人がどんどん活字から遠ざかっているような印象があるかもしれませんが、実はメールやラインSNSなどでごく一般の人々が文章に触れ、文章を書く機会は激増しています。

いったい、言葉って何?文章って何?という問いかけは今や誰にとってもリアルで本質的なテーマになっていると言えます。

言葉、そして文章をめぐる自分の体験を足がかりに、このテーマを探ってみたいと思います。

子供の頃から作文は嫌いではありませんでした。
読書感想文などの課題を与えられ「嫌だなあ」とストレスを感じた記憶はありません。かと言って、毎日ノートや原稿用紙に向かって言葉を綴る「書くこと大好き」な子供だったわけでもありません。
ただ、本を読むことは大好きで、『魔法を忘れたウィプララ』『王様の剣』『十五少年漂流記』『海底二万里』『次郎物語』『路傍の石』などを夢中になって読み浸っていました。
そんな中、一人で机に向かい紙に言葉を綴っていくことが自分にとって何か特殊な作用をもたらすということに薄々気づきはじめたのは中学生の頃だったと思います。深夜、自室で誰かに手紙を書いていてどんどん興に乗り、いつもの自分と違う一種のトリップ状態を体験したのがその手始めでした。

高校生になると一つの運命的出会いがありました。
所属が理数科だったため、バランスをとるためという学校側の名目で三年間一人の国語の先生が担任になったのです。
このK先生は教職のかたわら文学評論を書いている文学研究者でした。
授業での話もたいへんユニークで面白く、その話の中で、この先生が尊敬してやまない小林秀雄という評論家の存在を初めて知りました。
K先生はこの小林秀雄を題材にした評論を書いておられ、「群像」という文学雑誌の作品募集に繰り返し応募されていました。
このK先生の話で興味ひかれて初めて読んだ小林秀雄の文章は、これまで読んだことのない独特のものでした。
他の誰とも違う文章。紙に印刷してあるのだけれど、何と言うのか、岩や銅板に刻み込まれているような印象の文章。字面は難解なのだけれども、その奥にある真意が自然に伝わってくるような文章。
それは、今まで読んだことのあるどんな文章とも違って、不思議なリアルな感触を伴って迫ってくるものでした。(続く)

#文章 #小林秀雄  




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