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真に人間らしくなる

 11月に出版した『エーリッヒ・フロム 孤独を恐れず自由に生きる』(講談社)の「補講」をした(12月15日)。現代新書100シリーズの一冊で、「約100ページで教養をイッキ読み」ということなのだが、この教養とはどういう意味なのか考えなければならないということから話を始めた。
 教養を身につける必要を感じている人は多いだろうが、教養は単に本を読んだり講義を聞いて身につける知識という意味ではない。「教養」はドイツ語ではBildung(ビルドゥング)、「形成」という意味である。何を形成するのか、人間、人格をである。
 三木清が次のようにいっている。
「教養は、人間が真に人間らしくなるために必要な知識である」(「現代教養の困難」)
ただ知識を身につけるのではない。真に人間らしくなるために知識を身につければ、そそれが教養になる。真に人間らしくなるということがどういう意味かは後に考えるとして、もしも本を読むなどをして多くのことを知ったとしても、自分が変わることがなければ教養を身につけたことにはならない。
 それゆえ、例えばフロムについて書いた本やフロム自身が書いた本を読んで彼がどんなことをいっているかを知ることは教養を身につけることにはならない。フロムは神が遣わした預言者のように読者に生き方の変革を求めているが、読むうちに知らずして自分の人生に何らかの思いを馳せるような本であれば、教養書といえる。
 教養の話から始めたのは、人間らしく生きられていないとフロムは考えているからである。現状は多くの人は人間ではなく、「ひと」でしかない。他の誰とも替えられないこの「私」ではない。一般的な人でしかなく、「個人」ではない。自分で考えているつもりでも、誰かの考えを知らずして受け売りしているだけである。また、自分の人生なのに、自分の人生を生きられていない。
 しかし、そのような人生は人間らしい人生とはいえないだろう。フロムは自分の人生を生きるためにはどうすればいいかという方針を明確に打ち出している。
 それは、他者に「自立して生きる」ことである。「生産的に生きる」という言い方をフロムはする。生産的という言葉の意味は今日この言葉から理解される意味とは違う。「自発的」とか「創造的」という意味である。
 そのように生きようと思ったら、あらゆることを疑わなければならないし(これがフロムのモットーだった)、権威に無批判に従っていてはいけないのである。
 権威に従わないというのは反抗するという意味では必ずしもない。親がいうことであっても本当か自分で吟味しなければならない。
 対人関係のことばかりではない。知らない間に権威の側について考えていることに気づかなければならない。ともすれば「される側」ではなく、「する側」から考えてしまう。消費税が上がっても仕方がないと考える人は、生活者ではなく政治家のように考えているのである。
 なぜ自立して生きないのか。他の人と違った自分自身の考えを持ったり、自分の人生を生きたりするよりも、皆と同じように生きる方が安全だからである。親に反抗して生きるようと思い、親から自由になっても、自分の人生に責任を取らなければならないことを知った人は、せっかく獲得した自由を手放してしまうのである。
 総じて、フロムのいうことは厳しい。ヒトラーをアイヒマンを批判することはたやすい。しかし、ヒトラーのような人、アイヒマンのような人はまた現れる。それはあなたなのだとフロムにいわれたと思った人は、耳を塞ぎたくなるかもしれない。
 もとより、フロムが語っていることがすべて正しいわけではない。それはおかしいと思って読んでいけば、読む前と後では人生は変わっている、劇的に変わるのでないとしても。
 自分の人生を変えうるような本に出会うことは生きる喜びである。そのような本を読む人こそ読書家であって、多読家が読書家ではない。


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