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「この人」を愛する

『カラマーゾフの兄弟 』の中でゾシマ長老が、ある人の言葉としてこんなことをいっている。
「自分は人類を愛しているけれど 、われながら自分に呆れている 。それというのも 、人類全体を愛するようになればなるほど 、個々の人間 、つまりひとりひとりの個人に対する愛情が薄れてゆくからだ 」 (ドストエフスキー『カラマ ーゾフの兄弟 』原卓也訳)
 人類のためなら十字架に架けられてもいいが、近くにいる人はちょっとのことで憎んでしまう。
「個々の人を憎めば憎むほど 、人類全体に対するわたしの愛はますます熱烈になってゆくのだ。と、その人は言うんですな」
 はたして、この人のように「人類全体」は愛しているけれども、「個々の人間」は愛せないということはあるのだろうか。
 人類を愛しているということと個人への愛情が薄れることには因果関係はない。この人は人類への愛が増すので個人への愛が薄れるというのではなく、個人を愛さないために、さらには個人を憎むために人類を愛しているといっているのである。
「人類」への愛と「個人」への憎しみが対置されているとわかりにくいが、これが「国家」への愛(愛国心)と「個人」への憎しみであれば、どこに問題があるかが明らかになる。
 どこかの国と戦争を始めるという場合、敵国に向けての憎しみや怒りが必要である。しかし、実際には、戦争の相手国に宣戦布告した途端に、その国に対して敵意を感じることはない。「鬼畜米英」というキャンペーンが必要だったのは、アメリカやイギリスという国に対しての敵意を喚起しなければならなかったからである。
 国家への敵意を可視化するために、アメリカ人やイギリス人個人を敵意の対象にしようとしたが、目の前にいない人を憎むことはできない。戦時中であればアメリカ人、イギリス人を一度も見たことがない人がいたかもしれないが、今の時代であれば、アメリカ人、イギリス人と個人的に付き合っていなくても、鬼畜だと思う人はいないだろう。
 しかし、ヘイトスピーチやヘイトクライムのことを考えると、ある国の人全般を憎む人がいないと断言できない。ヘイトクライムの憎しみ(ヘイト)の対象は、特定の個人ではない。
 それでも、その国の人全般を憎むことができるかといえばできない。愛も憎しみも、さらに怒りも本来目の前にいる人にしか向けられない。目の前にいるこの人を愛し、怒りを感じ、憎むのである。
 個人への憎しみを喚起するためのもう一つの方法は、国家への愛、愛国心を高揚することである。国家への愛が高まれば、個人への愛が減じ憎しみが増すというわけである。
 問題は二つある。まず、国家を愛することはできない。実体のないアノニム(無名)な人や国家、さらに人類を愛することはできないのである。
 次に、国家を愛することができ、先に見たゾシマ長老が引く人のように人類を愛するようなればなるほど個人への愛が愛が薄まり憎しみが増すとしても、その個人は「同じ」人類にも属しているが、一つの国を愛したからといって「別の」国に属する人を愛さなくなりさらに憎むというのは論理的におかしい。一つの国家を愛し、そうすることでその国に属する個人を憎むというのであればわかるが。国家という枠組みにの中に人を置き、ある国家に属する人を愛するとか憎むことが間違いなのである。
 さらにいえば、戦争の場合に、人為的に憎しみや怒りを喚起しなければならないということは、他者に対してこのような感情を持つことは当然のことではない。
 電車の中で困っている人を見たら、相手が誰かに関係なく救いの手を差し伸べようとするだろう。その人の中にどこの国の人であるかというようなこととは関係ない。自分と同じヒューマニティ(humanity)、人間性を見るから助けようと思う。相手が敵であるかも関係ない。
 ヒューマニティは「人類」(humankind)という意味もあるが、誰であっても助けようと思う相手は決してアノニムな人ではない。アドラーが次のようにいっている。
「中国のどこかで子どもが殴られている時、われわれが責められるべきだ。この世界でわれわれと関係がないことは何一つもない」(Bottome, Alfred Adler)
 この少年は目の前にはいないが、決してアノニムな人ではない。少年が殴られたことを我が身のこととして感じられるのは、自分と他者に共通するもの、人間性を分有しているからである。その時、フロムの言葉でいえば「私はあなた」になる(The Heart of Man)。これがアノニムな人を対象としない真の人類愛である。

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