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自分の人生を生きる

 私は四十歳になって初めて常勤の仕事に就いた。 精神科の医院でカウンセリングをすることになった。長年、非常勤の仕事をしてきたので、嬉しかったが、一週間もしないうちにこの仕事は自分が本当にやってみたいと思っていたものではないのではないかと思うようになった。 結局、三年勤めて辞めた。もっと早く辞める決心すればよかったのではないかと後々思うことになったが、新しい人生を生きたいと思っても、すぐに決断を下せないとしたらいくつかわけがある。
 まず、冒険をすることが怖い。これまでとは違う人生を生きても失敗したらどうしようかと思う。失敗しても引き返すことはできるし、他のことに挑戦することもできるはずだが、失敗を恐れるので、現状に不満があっても仕事を辞めるというところまでは決断できない。
 もちろん、現状を変えることはできる。私の場合は、すでにあった医院ではなく、開院の時にスタッフとして働き始めたので、問題があれば変えていくことはできたので何とかしようと思ったのだが、これがよかったかはわからない。
 新入社員として会社に入る場合でも、自分が会社に入ったら会社は元のままではないはずである。だから、現状を変えるために会社に働きかけることはできるはずであるが、波風を立てることを恐れると何もできない。
 次に、新しい人生を生きようとすると、これまでの人生のために費やしてきた時間やエネルギー、また、身につけた知識が無駄になると思ってしまう。だから、多くの場合、これまでの知識や経験を活かせる仕事を選ぶので、大きく人生は変わらない。また、人を変えて同じ問題に遭遇するかもしれない。
 しかし、これまでとは違うことを始めても、知識や経験がまったく無駄になることはない。私が教えていた看護学生は中学校を卒業して入学し、看護師になるための勉強を始めた。四年目に看護専攻科に進学することになっていたが、その時点で、あるいは、それ以前にも辞める生徒は多かった。親や教師は翻意を促したが、私は中学校を卒業した時点では、どんな人生を生きるかを決められなかった生徒が自分でこれからどうすることかを決め、看護の道には進まないと自分で決めたのならそれでいいと思った。違う人生を選択できた生徒は決断力があったのだ。
 大人はそれまで膨大なエネルギーを費やしたことを理由に進路変更を断念させようとしたが、本来自分が生きる人生ではないと思いながら生きることに費やされるエネルギーは、新しい人生を歩む時に必要なエネルギーよりもはるかに大きいだろう。
 さらに、人からよく思われたい人がいる。三木清が「我々の生活は期待の上に成り立っている」といった後に、
「時には人々の期待には全く反して行動する勇気をもたなければならぬ」
といっている(『人生論ノート』)。
 他者の期待に応えなければならないと思うと、やりたいことができなくなる。
「世間が期待する通りになろうとする人は遂に自分を発見しないでしまうことが多い」
とも三木はいう。親も含めて世間が自分に期待している人生を生きれば、大きな破綻をすることはないかもしれないが、自分の人生を生きることができなくなる。
 新しい人生を選択することには慎重でなければならない。進路変更や転職などの相談を受けた時には私は手放しで勧めることはあまりなかった。仕事をもう少し究めることを勧めることはあったが、人からどう思われるかを気にする人には、自分の人生を生きる勇気を持ってほしいといった。
 私は、三年辞められなかった。もっと早く決断してもよかったと今は思うが、それでもその三年の間に多くのことを学べたのは本当である。何よりも、自分で自分の人生を決めることが重要であることを学んだ。まさにそのことをカウンセリングにやってくる若い人に話していたのが、自分の人生を生きる決断をしたのは私が一番遅かった。それから二十年以上経つ。

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