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関心を持ってゆっくり歩く

 今はオンラインでしか講演はしなくなったので、講演でいろいろな街を訪れる機会はなくなった。大抵は講演が終わればすぐに帰っていた。札幌で一時間講演をして、京都までその日のうちに帰るというようなこともよくあった。まれに時間にゆとりがあると、努めて街を歩いた。もうその頃のようなことはないだろう。
 島崎藤村は一九一三年にパリへ旅立った。ポール・ロワイヤル通りに面した下宿で旅装を解いた藤村は、翌日故郷からの便りもあろうかと日本大使館を訪ねた。今と違って神戸からマルセイユまでは船で三十七日かかった。もちろん、電子メールなどなかった。
 大使館からの帰り、さんざん道に迷い、ようやく見つけた辻馬車で下宿まで帰った。
「私はすごすご自分の部屋に自分の部屋へ入った。知らない町の方で私が踏んで来た石の歩道も、そこで見て来た日あたりも、私の眼に浸みていた。その日ほど私は言葉の不自由を感じたことは無かった。しかし辻馬車は辻自動車で乗り廻して見るにも勝って、都会としての巴里の深さに初めて私が入って見たのもその日であった」(島崎藤村『エトランゼエ 仏蘭西旅行者の群』)。
 河盛好蔵はこの件を読んで、
「初めてパリに出かけたときいきなり五月革命に出会い、一切の交通機関がストに入ったパリの町を毎日当てもなく何十キロと歩き回ったときのことを思い出した」
と書いている(河盛好蔵『藤村のパリ』)。
 車での移動は速すぎる。歩くと初めて見えてくるものがある。
 しかし、ただゆっくり移動すれば見えてくるのでもない。
「春の奈良へいって、馬酔木の花さかりを見ようとおもって、途中、木曽路をまわってきたら、おもいがけず吹雪に逢いました。……」(堀辰雄『大和路・信濃路』)
『大和路・信濃路』に収められた「辛夷の花」には堀辰雄と妻との木曽路越えの旅の様子が描かれている。
 木曽福島の宿に泊まった翌朝は吹雪だった。雪も中を衝いて宿を立った二人は汽車に乗った。そのうち雪もあるかないかくらいにしか散らつかなくなった頃、隣の夫婦の低い話し声を耳に挿んだ。
「いま、向うの山に白い花がさいていたぞ。なんの花けえ?」
「あれは辛夷の花だで」
 堀は急いで振り返って、身体を乗り出すようにしながら、そちらの山の端に辛夷の白い花らしいものを見つけようとしたがすぐには見つからない。
 堀は筋向かいの席で本を読んでいる妻に、せっかく旅に出てきたのだからといって、窓の外の景色に注意を向けさせようとした。
「むこうの山に辛夷の花がさいているとさ。ちょっと見たいものだね」
「あら、あれをごらんにならなかったの。あんなにいくつも咲いていたのに。……」
「嘘をいえ」
「わたしなんぞは、いくら本を読んでいたって、いま、どんな景色で、どんな花が咲いているかぐらいはちゃんと知っていてよ。ほら、あそこに」
 妻が指差す山の方を見たが、堀はやっと何か白っぽいものを、ちらりと認めたような気がしたが、見つけることはできなかった。汽車に乗っていたから辛夷を見つけられなかったのではないだろう。妻は辛夷の花を見ていたのだから。たとえゆっくり歩いていても、関心がなければ、目にしていても何も見えない。
 私は二〇〇六年に病気で倒れた。退院後、リハビリのために歩き始めたが、最初の頃は花を見ても鳥を見ても名前を少しも知らないことに気づいた。生まれる前からあった植物園があることも知った。朝のドラマに出てくる希少植物がたくさんある。
 病気をしていいことは何もないのだが、生活が変わって写真を撮ることを覚えたのはよかったことといえるかもしれない。今は引っ越してしまって植物園に行けなくなったは残念である。

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