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【R18】歌姫の選択 Ⅰ 青春の女神〜瀬里奈

 何処とも知れぬ場所に在る"キャバレー・ヘル・パラダイス"
 広いホールには大きな丸テーブルが並び、高い天井からはきらびやかな巨大なシャンデリアが下がっている。
 そこに寛ぐタキシードやイブニングドレスに身を包んだ紳士と淑女。
 流麗なストリングスを奏でるオーケストラをバックに妖艶な歌姫が気だるげに歌うジャズナンバーの数々。
 ハスキーな声が歌うのは誰も聴いたことのないナンバーだった。

 今の貴方は貴方じゃない
 わたしの知ってる貴方じゃない
 あの時の貴方は素敵だった
 わたしは待っていたのに
 貴方は気づいてくれなかった
 あの頃の貴方を
 わたしは今でも待っている
 いつまでも
 あの場所で

 いつまでも忘れられない、あの頃好きだった人。もしもあの女と一緒になっていたら。

 人生の選択をやり直せるとしたら、今の生活を失っても、昔の憧れの人を選ぶ勇気がありますか?

 今宵も歌姫が誰かを指差す。選ばれた人はあの時に戻って選択ができる。しかし…その選択が正しいかどうかなんて誰にもわからない。

 神か悪魔でもない限り…。

♦︎作品中の歌詞はオリジナルです。


Cabaret Hell Paradise

 会社を出たのは二十一時を回っていた。ほとんど毎日のような残業で定時に帰った記憶がない。この時刻に帰れるのはまだ早い方だが、それは疲れてやる気が失せてしまったから適当に切り上げただけの話だ。

 …まっすぐに帰ってもなあ。

 疲れて家に帰れば妻と子どもはすでに寝ている。

「お疲れさま」の一言でもあれば仕事の疲れも癒されるのかもしれない。だが顔を合わせてもまともな会話などなく、他人と暮らしているようだった。

 結婚して二十年になる。まだ新婚の頃は甘い言葉を交わし、毎日のように身体を重ねていた。子どもができて仕事も忙しくなり、気づかないうちに徐々に会話も減って…今では一言も話さない日も珍しくない。

 こんな家族でも家族と呼べるのだろうか。よくわからない。今の私は決まり切った毎日をだらだらと終わりに向かって過ごしているだけ。

 どこで間違ってしまったんだろう。若かった頃に遡って違う女と一緒になっていたらこんな人生ではなかったのかもしれない。

 たとえば、大学生の時に好きだった大きな目が印象的だった女…。

 だが…今さらもう遅い。

 そんなことをぼんやり考えながら駅までの道を歩いていたら、そのまま電車に乗って帰るのが嫌になった。

 久しぶりに洒落たバーに入ってカクテルでもと思いながら繁華街を歩く。いつの間にか横道に入ったようだ。角を曲がった記憶はないが、見覚えのない店の前に私は立っていた。

 洋館のような大きな建物だ。立派なエントランスがある。見上げると、今時見かけないネオンサインで"Cabaret Hell Paradise"とあった。

 …キャバクラでもクラブでもなくキャバレー? ええと…ダンスホールがあるような正統派のキャバレーか? そんなものは映画の中ぐらいでしか見ないぞ。

 彫刻の施されている重厚な扉の脇に、ホテルのドアマンのような格好をした男性が立っていた。

「いらっしゃいませ。お客様、どうぞ中ヘ…」

 私に向かって慇懃にどうぞと手を差し出している。

 暗くて顔がよく見えないが、背の高い、撫で付けた髪型をした案内係のようだ。品のある丁寧な口調に誘われるように、私は、彼が開けてくれた扉をくぐり、中へ入った。

 すると…。

 オーケストラが奏でる流麗なストリングスと、気だるい女性ヴォーカルが、私を優しく迎えてくれた。ボーイと思われる男性に案内されるまま、ステージに近い大きな丸いテーブル席に椅子を引かれて座る。

 …ああ…なるほど。

 どこかで見たような雰囲気だと思ったら、古いアメリカ映画に登場する由緒正しきキャバレーそっくりだった。大きなホールに丸テーブルが並び、タキシードやドレスに身を包んだ男女が寛いでいる。オーケストラをバックに妖艶な歌姫が気だるげに歌うジャズナンバーの数々。

 ニューヨークにあったコットンクラブなどの古き良き時代の煌びやかなキャバレー。

 自分のくたびれた背広姿が恥ずかしくなった。

 しかし…今時こんな店が、しかも会社から歩いて行ける場所にあるなんて…。

 私も知らなかったし、酒好きの同僚からも聞いたことがない。

 注文を取りに来た慇懃な物腰のバーテンダーに、適当に思いついたカクテル…マティーニを注文し、飲み物を待つあいだ、広い店内を観察する。

 ゆっくり回転しているミラーボール。時折スポットライトが反射してキラッと光る。大きなシャンデリアにほのかに柔らかく照らされて、空間が妖しい薄暗さで霞んでいる。

 テーブルはほぼ満席だ。客の顔は判別できないが、正装している者も多い。そのうちの半分ほどが男女のカップルだった。

 …この客たちは、どこから来たんだ…。タキシードにドレスなんて、結婚式やパーティーでしかお目にかかったことがない。

 蝶ネクタイにチェック柄のベストを着たボーイが、私の前にカクテルグラスをコトリと置く。きんと冷えたそのマティーニに口をつけ、聴いたことのないジャズナンバーを歌っている女性ヴォーカルリストを眺める。

 胸元の大きく開いたセクシーなロイヤルブルーのロングドレス。その深いスリットからのぞく赤いハイヒールを履いた長い脚。こぼれた腿の白さがドレスのブルーとコントラストを成して、ハッとするほど艶かしい。

 むき出しの肩にかかった栗色の髪は綺麗なカールを描き、小さな色白の顔の半分を覆い隠している。

 濡れたような大きな瞳。ルージュを引いた赤い唇。少しハスキーな歌声とともに、絵に描いたような魅力的な歌姫だった。

 それに引き換え、バックのオーケストラは…。

 主役のヴォーカルにスポットライトが集中しているせいなのか、薄暗い照明に溶け込んでよく見えなかった。

 そこに大勢の楽団員がいるのはわかる。だが顔はおろかひとりひとりが識別できない。見えないものを見ようと目を凝らしているうちに、なぜか寒気がして、ヴォーカルの後ろを見るのをやめた。

 私の方が彼らにじっと見られている気がしたのだ。

 そして…いや、やめておこう。

 ヴォーカルが歌っている曲の歌詞が耳に入った。英語だったが、和訳するとこんな歌詞になる。

 今の貴方は貴方じゃない
 わたしの知ってる貴方じゃない
 あの時の貴方は素敵だった
 わたしは待っていたのに
 貴方は気づいてくれなかった
 あの頃の貴方を
 わたしは今でも待っている
 いつまでも
 あの場所で

 グラスを傾けながら、セクシーで切ない歌声に耳を傾ける。

 あの時のあなた…わたしは…待っている…か。

 急に、はるか昔のことが記憶の彼方から蘇ってきた。

 いや…蘇ったのではない。いつも記憶の片隅にいた、青春時代の憧れの女。

 結婚する前…。

 今の妻と出会う前の、大学生の頃に好きだった女の子。

 仲の良いサークルの中のひとりで、告白しようかと躊躇しているうちにサークル内の別の男に先を越されてしまった。明るい性格の可愛らしい顔立ちの女の子で、話しをするときに相手を覗き込むような大きな目が印象的だった。

 チャンスはあったのに。あの女の子の方も私に気のあるそぶりを見せていたのに。

 私がはっきりしない態度を続けたせいで、別の男に奪われてしまった。あの時あの子と付き合っていたら、違った人生になっていたかもしれない。

 その女の子の名は…瀬里奈(せりな)。石井瀬里奈だ。

 誰かにジッと見られている気がした。顔を上げると、ヴォーカルの女の黒い目と視線が絡んだ。ドクッと心臓が踊り、全身から血の気が引いていくのを感じた。

 まさか…そんなことは…ありえない。ヴォーカルの女はあの時の彼女の顔をしていた。濡れた大きな黒い瞳。問いかけるような唇。女の歌声が私を鷲掴みにする。

 わたしは待っていたのに…
 あなたは気づいてくれなかった…

 女は歌いながら私の方に手を伸ばし、さらにステージの横を指差した。つられてそちらを見ると重厚な扉があった。そんな扉があるなんて気づかなかった。

 表面に打たれている鉄の鋲、ガーゴイルのような悪魔のような像が彫られている、中世の城にふさわしい、ゴツい両開きの扉だ。

 …どういうことなんだ…私にどうしろと?

 肩に置かれた手を感じ、振り返ると、ドレスを着た若い女…私の隣の席でステージを見ていた女がそこにいた。

「行ってらっしゃい。あなた、選ばれたのよ」
「選ばれた?」
「そう…ここはそういう場所。あなたが羨ましいわ。わたしなんかずっと待っているのに」

 私は…ふらっと立ち上がった。ステージ横の扉の前に立つ。背中に無数の視線を感じる。それは痛いほどの見えない圧力となり、背中を押された私は、倒れ込むように扉を開けた…。

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