天空のBlack Dragon 第五話
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私にしかできないこと
画家の話〜アーサー王伝説〜神について
八月も半ばを過ぎた金曜日の昼下がり。友人に会うために、額の汗を拭きながら、私は彼がいるという美術部の部室へ向かっていた。
ここは山本が講師を務めている大学内ではなく、付属の高校の敷地内だ。彼に電話してみたところこちらに来てくれと言われた。高校の美術部の顧問をしているという。今はまだ夏休み中で、すでに部活動も終わっているのだろう。学生たちの姿は見えなかった。
体感的には夏真っ盛りなのに暦の上では残暑らしい。そんな人間の都合など関知しない蝉たちがあちこちで夏を奏でている。
近代的な造りの校舎の裏、ケヤキの大木が作る緑陰に、校舎よりもちょっと古い外観の建物があった。山本は部室棟と言っていた。校舎とは渡り廊下で繋がっている。
そういえば私の母校もこんな感じだった。施錠されていないドアを開ける。建物に入るなり、ひんやりした静寂が私を迎えた。ワックスのにおい。そうだ。そうだった。この雰囲気だ。ノスタルジーにひたるタイプではない私だが、一気にその頃の自分に戻った気がした。廊下を歩く自分の足音の響きまでが懐かしい。突き当りに「美術部」と書かれたプレート、白い開襟シャツとデニムの短パン姿の男がいた。「すまんな篠崎。暑い中をこんなところまで来てもらって」
「こちらこそいきなりで悪かったよ」
「さあどうぞ。散らっているが」
友人のあとから部室へ入る。鼻につんとくる独特のにおい。絵の具の匂いだ。
「学校は夏休みなのに働いているのか?」
「夏休みでも部活はあるさ。それにここで作品を描いているんだよ。完成させた作品もここに置いてある。自分のアトリエを持てる身分じゃないんでね」
「なるほど」
プロの画家である友人の作品を、そういえば見たことがない。見たいと言ったら、
「それよりも、篠崎のその絵を見せてくれ」
かすかに苛立ちが混じった声が返ってきた。
仕事の邪魔だったか。歓迎されていないようだ。空気を読めずにずうずしく押しかけてしまったらしい。
思えば山本との付き合いはそれほど深いものではない。高校を卒業してからは別の道を歩んでいて、たまたま同窓会で再会して懐かしい気持ちになり、一緒に何度か酒を飲んだだけだ。
「仕事の邪魔をして悪かった。帰るよ。大した用事じゃないんだ。すまなかった」
勘違いした自分が悪い。私はここに来たことを後悔した。山本は、ハッとした顔で「待ってくれ」と言った。
「いや。そんなことはない。ぜんぜん忙しくないさ」
「でも」
「秋の展覧会に出す予定の作品がちょっと行き詰っていてね。少しいらいらしていた。俺の方が悪かった。とにかく座ってくれ」
くしゃくしゃの髪としわだらけの麻の開襟シャツ。疲れた顔。最後に会ってから少し太ったようだ。私の用事は早く済ませてしまおう。
「山本にアドバイスをもらいたい」
「うん。俺でよければ」
「これなんだが」
持参した水彩画を取り出して山本に渡す。息子のお気に入りの額に入ったあのクレヨン画も持ってきてある。私が描いた"彼"を友人は黙って見ている。真剣な目だった。鋭い声が飛んできた。
「聞いていいか篠崎」
「なんだ」
「なんでドラゴンなんだ」
「えっ。なんでって…言われても」
「どうしてドラゴンばかり描く。風景画とか静物画ならわかる。趣味で描いていると言ったな」
「そうだ」
山本には絵の相談をしたいと電話で言ったが、私がどんな絵を描いているのかまでは伝えていなかった。
「ファンタジーが好きなのか」
「いや。特に好きなわけじゃない」
「好きじゃない?好きじゃないのにドラゴンしか描かない。素人が趣味で始めた水彩の被写体がドラゴンのみ。そんな話、今まで聞いたことがないぞ。モデルはなんだ」
「モデル?」
「この黒いドラゴンのモデルは?モデルはあるだろう?モデルがなかったらこんな精密には描けない」
「いや。その…」
友人の声に再びいらだちを感じた。真実を言っても信じてもらえるとはとても思えない。しかし嘘をつく理由もない。彼には話すべきだ。
「見えるんだよ」
「見える?」
「ドラゴンが見えるんだ。空高く浮かんでいる、青い瞳の、巨大なブラックドラゴンが見えるんだよ」
私は山本にすべてを話した。あの日、あの暑い日の午後、会社の休憩室の窓から"彼"を初めて見た。私だけにしか見えず、存在も知覚できない、私のブラックドラゴンのことを、山本に話した。
笑われると思っていたのに、山本は途中で口を挟むことなく黙って聞いている。聞きながら私の絵を、目をカッと見開いて睨んでいる。奇妙な表情だった。さまざまな感情が入り混じった顔だ。
私が話し終えると沈黙がやってきた。居心地の悪い、変な沈黙だ。しばらくそれが続き、やっと友人が口を開いた。
「それは、そのドラゴンは、どっちの方向に見えるんだ」
今いる部室からは廊下を挟んで反対側になる。見えなくても私にはわかる。山本にそう言うと、彼は黙って部室を出て行った。
急に置いて行かれた私は、することがないので、立ち上がって何となく部室を見て回った。部員の生徒が描いたものらしき絵が何枚か置いてある。山本の絵はどれなのかわからない。ほどなく山本が戻ってきた。
「俺には見えなかったよ」
「見に行ったのか」
「ああ。もしかしたら俺にも見えるかもしれんと期待したんだがね」
言葉が見つからない。友人が何を思っているのか測りかねた。その友人がドカッと椅子に座りため息をついた。私の絵を眺めながら、まるで独りごとのように穏やかに話し出した。先ほどまでの苛立ちが感じられない。
「ドラゴンとはいったい何なのかわからないそうだ。正体不明の存在。少なくともその起源は恐竜などではない。東洋のいわゆる竜と西洋のドラゴンはまったく違う。東洋では神の使いもしくは神そのものとされている」
「竜神か」
「そうだ。雨を支配する竜神。宝玉を握っている絵や掛け軸を見たことがあるだろう」
「見たことはある」
「西洋のドラゴンは、テレビゲームでは悪役だな。ダンジョンの最奥で勇者が相まみえるラスボスでもある。篠崎はゲームとかしないだろうな」
「ああ。まあな」
実際にあまりやったことがない。やってはみたが興味が持てなかった。他人の作ったシナリオどおりにストーリーを進めるのが面白く感じなかったのだ。
「俺はけっこうやった。まあそんなことはいい。西洋のドラゴンは主にヨーロッパ地域の中世の伝説に登場する。アーサー王と円卓の騎士は知っているか」
「わからん。知らないな」
「こんなリアルなドラゴンを描くのなら知っておけ。知らないと笑われるぞ。おまえが描いているのは紛れもなく西洋の伝説の由緒正しきドラゴンだ。巨大すぎるがな」
友人にうなずいてみせながら、立て板に水のごとく出てくるエピソードに時間を忘れた。「アーサー王伝説とは中世ヨーロッパの吟遊詩人たちが奏でた英雄譚だよ。キング・アーサーと聖剣エクスカリバー、円卓の騎士たちの悪しきドラゴン退治の旅、大魔術師マーリン、麗しのグエネヴィアとランスロットの禁じられた恋、妖妃モルガンルフェイ、モルドレッドとの最後の戦い、そして瀕死のアーサーはアヴァロンの島へ旅立つ。いつかこの世界に危機が訪れた時に必ず戻ると言い残して。キング・アーサーの正式な名はアーサー・ペンドラゴン。竜の頭を意味するそうだ」
「よく知っているな。関心したよ」
「好きだからな。篠崎みたいに勉強はできなかったがね」
円卓の騎士の話は子供の頃に読んだ気がする。今度、ちゃんと読んでみよう。
「おまえのブラックドラゴンは災厄の象徴だと思うか。円卓の騎士伝説では退治すべき悪の象徴に扱われていたが」
「いや。そうは思わない。あれは、"彼"は悪とか善とか関係ないと思う」
「彼だと」
私が"彼"と呼んだ瞬間、山本の顔が醜く歪んだように見えたが、すぐに元に戻った。
「善悪を超越していると?」
「ああ。そこにいる。ただ存在している。存在し、私を見ている」
いきなり山本が笑い出した。笑い転げて涙まで流している。しかしどこかいびつな笑いだった。さんざん笑ってから真顔になる。
「篠崎。自分が何を言っているのかわかっているのか」
「なんの話だ」
「そこにいる。ただ存在している。存在し、おまえを見ている。嵐の中でも稲妻に打たれようが平然と存在しつづける。そんな存在はなあ。篠崎。神って呼ぶんだよ」
神か。なるほどな。
そういう見方もありえるか。
しかし、もしもそうなら"彼"に対して恐怖も畏怖も感じないのはおかしい。おかしいといえば山本の態度もどこか変だ。やはりさっさと退散したほうがよい。
「山本。聞いてくれ。こっちの、額に入っているのが初めて描いた絵だ。描いたといっても息子からせがまれ無意識に何の気なしに描いたんだよ。その後の水彩画は丁寧に描いたつもりなのだが、最初の作品のレベルを超えない気がしてね。そう感じるだけなのかもしれないが。なぜそう感じるのかわかるか」
「ん?んん…」
「どうだ」
山本は黙って絵を見比べている。しばらくそうしていたがやっと口を開いた。
「水彩画は見事だ。おまえは才能がある。一方のクレヨン画は綺麗じゃないが、なんというか迫力がある」
「ああ。俺もそう感じる」
「綺麗に描こうとしていないか?」
「えっ」
「水彩のドラゴンは美しく綺麗だが、圧倒されるのはクレヨン画の方だ」
「綺麗に描こうとしたらいけないのか」
「いけなくはない。おまえが描きたいのは美しい絵なのか?そうじゃないだろう」
言われてみれば、確かにそうだ。ありのままの"彼"を描きたい。それだけだ。
「綺麗に描こうと思うな。そこに意識を持っていくな。天空のドラゴンはおまえにしか見えない。おまえにしか描けないんだ」
「うむ。よくわかったよ」
よく理解できた。もやもやしていた気分がすっきりした。
「息子さん、いくつだっけ」
「四歳になった」
「かわいい盛りだな」
「ああ。このクレヨン画ドラゴンを、僕の宝物とか言ってとても気に入ってね」
「ふん。幸せそうでうらやましいよ。俺なんかこの歳で恋人すらいないし、いたとしても結婚する金もない」
「そうか」
「なあ…篠崎。あの」
急に歯切れが悪くなった。なぜか私の顔から目をそらしている。
「おまえのドラゴンなんだが。ちょっと預かってもいいか。俺の師匠とか仲間の画家にも見せて意見を聞いてみたいんだが」
「預かる?」
「ああ。いいかな」
「さっきも言ったがクレヨン画のやつは息子のお気に入りなんだよ。お父さんの友達に預けたと言ったらすねるかもしれない」
「ちょっとだけさ。すぐに返す」
そこまで言われたら断れない。そもそも絵を見てくれと押しかけたのはこちらだから尚さら断りにくい。私は仕方がなく了解した。
「それから、新しい作品を描いたらそれも欲しい」
「えっ」
「また持ってきてもらうのは手間だし悪いから着払いで送ってくれないかな」
「ううむ」
「送り先はここでいい。今、住所を書いて渡すから」
メモを渡される。なんとなく釈然としない。「あのさ山本」
「送ったら、確実に俺が受け取れるように電話をくれ」
「ああ。うん」
畳み掛けられて思わず、うんと言ってしまったが、やはりもやもやする。山本にいとまを告げ、部室を出て、帰路についてからもそれは続いた。
外はとっぷりと日が暮れていた。ひぐらし蝉のカナカナという声が遠くから聞こえてくる。夏の夕暮れは何だか寂しい。
裏切り
お気に入りのドラゴンの絵が戻ってこないと知った息子は、案の定、臍を曲げてしまった。「僕のブラックドラゴン、いつ帰ってくるの」
「ちょっとのあいだだけだよ」
「ちょっとってどれぐらい」
「ちょっとはちょっとかな」
「わかんない!パパのばか!」
妻に助け舟を出して欲しかったのに、妻も私の味方ではなかった。
「その山本っていう人、おかしくない?」
「そうかな」
「これから描く絵まで送れって変だよ」
「うん…」
自分も釈然としていないから、変じゃないかと問い詰められたら「そうかもね」としか言えない。
それからは山本からのアドバイスを念頭に置き、ありのままの"彼"を描くことに専念した。構図がどうのとか綺麗に仕上げようなどと考えるのは一切やめた。自分の描いた絵の出来は自分ではわからない。家族は大絶賛してくれる。でもそれは家族だからだ。
週末に書き上げた絵を一週間乾かしてから、褪色防止と保護のための定着剤を吹きかけ、またしばらく乾かす。それを次の週の日曜日に、折れ曲がったりしないように段ボールで挟み、着払いの宅配便で山本に送る。
本当はもっと早く送りたかったのだが、妻から絵の具の乾燥に時間をかけた方が良いと言われ、一理あると思い、素直に従った。山本へ、絵を送ったと電話すると、わかったと短い返事だけ。いつ返してくれるのか言わない。
八月が終わり、九月になった。相変わらず暑い日が続くが、どこか秋の気配を感じるようになった。秋が来ようが"彼"には関係ない。今までと変わらず空にいる。
ある日、会社の休憩室でいつものように"彼"の勇姿を眺めながらコーヒーを飲んでいたら、部長がさりげない感じでそばにやって来た。雑談をかわす中で、関西にある系列企業の支社へ移る気はないかと仄めかした。私は直接返事はせずに受け流したが、内心でがっかりした。
雑談の中であろうとそんな話が出るということリストラ対象なのだ。管理職から切るのは人事のセオリーである。本社へ行けると漠然と淡い期待を抱いていた自分はなんてお気楽な人間なのだろう。
さらに月末にもっと重大な事態が起こる。うちの会社と契約していた医療法人からキャンセルしたいとの連絡があったのだ。来年度に新規開設する予定だった病院の計画が白紙になったという。理由は医療スタッフが集まらないから。私の部署がその案件の契約担当だった。
キャンセルは私や私の部下の失態やミスによるものではない。無論キャンセル料は取れる。しかし契約がパーになったのは動かせない事実であり会社がどう捉えるかは想像に難くない。しかも時期が悪い。気分は重くなるばかりだ。
十月になった。昼間は暑い日もあるが夜になると涼しい。いつの間にか蝉が消えて、その代わりに秋の虫たちが夜のステージに上がるようになった。
そんなある日、山本と連絡が取れなくなった。電話しても出ない。留守電に伝言を残しても向こうから掛かってこない。やがて「この電話は現在使われておりません」というメッセージが流れるようになった。
もしかしたら病気にでもなったか。山本はひとり暮らしだと聞いていた。安否を確かめたくても住所までは知らない。そこで私は山本が講師を勤めていると聞いていた大学へ電話してみた。いくつかのセクションをたらい回しにされた挙句、七月いっぱいで契約が終わっているという驚きの事実を告げられた。本人から聞いていたのと異なり、常勤ではなく非常勤だったらしい。慌てて高校へ電話してみたところ、山本本人からの申し出により、九月末で美術部の顧問を辞したと言われ、途方に暮れた。
まだこの時点では、私は友人に騙されたとは露ほども思っていなかった。何か事情があるに違いない。そう信じていた。
ある日、残業を終えて帰宅した私へ妻は黙って私宛ての封筒を差し出した。疲れていたので読むのは明日にしたかった。しかし封筒の裏に書かれた差し出し人の名前を見て気が変わった。そして、その手紙を読んですべてを知った。
友人からの手紙
この手紙がおまえに届く頃には俺はもういない。探しても無駄だ。もうおまえに会うこともないだろう。
俺はプロだ。プロの画家だ。おまえよりもよほど綺麗にうまく描ける。当たり前だ。美大出身の歴としたプロなんだから。しかしおまえは俺には無いものを持っている。俺がいくら欲しても得られないものをな。
「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」という言葉を知っているか?俺にはその1%が決定的に欠けている。
高校生の頃、気が進まないおまえを美術部に誘った。そこで無理やりおまえに描かせた絵を見て俺は衝撃を受けた。上手くはない。しかし何かがある。だから辞めたいと言った篠崎を俺は引き留めた。その才能が惜しかったんだよ。きっとおまえは何も気づいていないだろうな。
おまえから絵の相談を受けて、おまえの話を聞き、おまえのドラゴンを見て、そこで初めて、俺はずうっと昔からおまえが嫌いなんだと、心の底から憎んでいるのだと気がついた。
おまえは何もわかっていない。自分が何を見て、何を描いているのか、その真の価値をぜんぜんわかっていない。おまえは神を見たんだぞ。それなのになぜそんなに平然としている?なぜ神の絵を描いておいて何でもない顔をする?
おまえは馬鹿だ。おまえが憎い。憎くてたまらない。
価値のわからない愚かな輩が持っていても仕方がないから、おまえのドラゴンは俺がもらっておいた。というか全部売った。海外のオークションでな。もちろんS.Yamamotoのサインを入れておいた。愚かなおまえには想像できないだろうが、とんでもない値がついたぞ。まあがっかりするな。おまえを憎んでいる俺を信じた自分が馬鹿だったんだと思え。
おまえのかつての友人より。
SNSの海へ
山本からの手紙をそうっと取り上げたのは妻だった。私はぼうっとしていたようだ。香奈美が手紙を読んでいる。その手が細かく震えている。読み終えた妻が顔を上げた。目に光るものがあった。強い声で「あなたは何も悪くない。愚かでもない」と言った。
ああそうだね、と答えた私の声は力なく掠れていた。香奈美はそれ以上何も言わずに、私の背中をそうっと抱いた。私も妻の体を抱きしめた。引かれ合うように自然に唇と唇が重なる。君が欲しいとささやいたら、涙に濡れた顔が小さくうなずいた。
寝室は拓矢が寝ている。だから、別の部屋に置いてあるもう一つのベッドへ、子どもを起こさないように静かに彼女を誘う。
ここは建前は来客用の部屋だった。家族三人で4LDKだから部屋は余っている。専用の子ども部屋は必要になるのはまだ先の話だ。しかし我が家に泊まる客など稀だった。彼女と私の両親を招いた際にほんの数回使っただけ。だから実際には、子どもを寝かしつけてから夫婦で愛し合うための部屋になっている。
バリっとした清潔なシーツの上に彼女を横たえる。熱い腕が私の首を抱いた。濡れた声で待ってと言う。
「待って。シャワーを浴びないと」
「このまま君を抱きたい」
「きっと汗くさいよ」
「あ、そうか。それはそうだね。じゃあ」
「ううん。そうじゃなくて…」
「なんだい」
「わたしはあなたの匂いが好き。だから…」
「僕もさ。だからすぐにでも抱きたいんだ。君さえよければ」
彼女がまたが小さくうなずいた。
細い指が私のシャツのボタンをひとつ一つ外していく。私も彼女のTシャツを脱がせ、口づけを交わしながら、互いの服を脱がせていく。「なんだか久しぶりで恥ずかしいな」
「いつも残業ばかりで遅かったからね。ごめん」
「いいのよ。抱いて…ああ」
彼女の熱い裸身を抱きしめ、その腕に強く抱かれながら、ベッドの上でもつ合い、愛し合う。甘い吐息が口づけに溶けてく。
香奈美とは六つ離れている。もう若くないからなんて最近よく言うようになった。それを言うなら彼女の六つ歳上の私はなおさら若くはない。あと少しで四十に手が届く。若くないのと言われるたびに、お互いさまだよと私も笑ってみせる。
しかし別にそんなことはどうでもよかった。若い頃の彼女も知っているし今の成熟した女性になった彼女も私は知っている。その魅力は変わらない。変わっていない。子どもを産んで母になった今でも変わらない。
「あのね」
愛し合ったあとに、私の腕に頭を乗せて目を閉じていた彼女がぽつりと言った。温かい息が胸にぶつかる。眠っているとばかり思っていたが起きていたようだ。
「あなたに聞きたいことがあるの」
「なんだい」
「あなたは…純ちゃんはドラゴンが見えるの?」
久しぶりにそんな呼び方をされるとくすぐったい気持ちになる。山本からの手紙を読んだからにはドラゴンの話が出るのは覚悟していた。「見える。信じてもらえないだろうけど」
「やっぱり。そうなんだ」
「やっぱり?」
「うん」
彼女の反応は意外だった。
「純ちゃんがドラゴンを描いているとき、いつも上を見ている。部屋の天井しか見えないはずなのに、いったい何を見ているんだろうっていつも不思議に思ってた」
「そうだったっけ」
「うん。自分では気がついていないのね」
「そうだね」
「純ちゃんは天井も壁もすべて突き抜けた先の空を見ていたんだね」
「そうだ」
"彼"を描いている時にそんなにことをしているとは、彼女から言われるまで知らなかった。「そこに、空に純ちゃんのブラックドラゴンがいるんだ」
「そうだよ。変な言い方だけど、見えなくてもいるとわかる。今も、いつも、空の高みにいるんだ」
「今も?」
「うん。今もいる。いつも僕を見ている」
「やだ。見られてるなんて。じゃあエッチな純ちゃんをドラゴンに見られちゃったね」
その言い方が可愛かった。抱き寄せると腕の中でまた「あのね」と言った。
「なに」
「わたしがこれから言うことを怒らないで聞いて欲しいの」
「んん?」
「約束してくれる?」
「約束する」
「実は、あなたのドラゴンのスキャンデータを取っておいたの。山本さんに送る前に」
「…えっ?」
「拓矢のお気に入りのクレヨン画も保存しておけばよかったって後悔してる。他の水彩画は全部、データ化してあるのよ」
「なぜそんなことを?」
当然の疑問だった。すると彼女は私が知らなかった意外な話を語り始めた。
数年前からイラストを描いていること、イラストはいわゆるコンピューターグラフィックスで、主に女の子のイラストを描いてインターネット上の趣味サイトにアップしているという。「でもうちにはノートパソコンしかない。コンピューターグラフィックスを描けるような機器は無いよね」
「今の時代はね。タブレットでも描けるのよ。専用のアプリも、しかも無料のがいろいろあるし」
「そうなのか。知らなかった」
「純ちゃんの知識は遅れてるよ」
「はは。言えてる」
「見てみる?実際に見てもらった方が話が早いわ」
そう言うなり、私の腕からするっと抜け出た彼女がベッドから降りた。置いてあったスマートフォンを取り上げ、私の横へ戻ってくる。
「ほら見て」
スマホの画面に美麗なイラストが並んでいた。
「これは、まさか君が描いたのかい?」
「そうよ」
「上手いじゃないか。驚いたな」
「これでもね。わたしって人気イラストレーターなんだよ」
「ぜんぜん知らなかったよ。でもイラストの勉強とか、いつ習ったの?」
「誰からも習ってない。自分でぜんぶ調べて勉強してみたんだ」
「そうなんだ。独学とは思えないよ」
「育児が落ち着いてきて。時間の余裕が生まれて、何かやろうかなと思ったの。その時に、どこかのサイトでアマチュアの人が趣味で描いているイラストを見てね。わたしもできるかも知れないって思って始めてみたのよ」
才能があるのだろう。彼女の話を聞きながらそう思った。彼女のイラストは、素人が描こうして描けるレベルじゃない。
「今ではね。お金を払ってオリジナルのイラストを注文してくれる人もいるのよ」
「えっ。そこまで行ったらプロじゃないか」
「収入は微々たるものだけど。イラストの収入は全部、拓矢の教育資金として貯金してある」
仕事ばかりで妻の才能に気づかなかった。いや。仕事は言い訳だ。家庭を妻に任せっきりだった自分は…。
「何も知らなかった。気づかなかった。山本の言うとおり僕は愚か者だよ」
「それは違う。ぜんぜん違うよ。純ちゃんは休みの日には拓矢と遊んで、平日に遅く帰ってきてもいつもわたしの話しや愚痴をちゃんと聞いてくれたじゃない」
「でもそれだけだよ」
「友だちや知り合いの旦那さんはね。休日には家族そっちのけで仲間とゴルフに行ったり旅行に行ったり、平日は帰宅したら疲れているからって何も聞いてくれないんだって」
「ふうん」
「もちろんそんな旦那さんばかりじゃないけど、純ちゃんのことを話したらみんな羨ましがるの。良い旦那さんだって」
そんなに褒められても自分ではよくわからない。
「僕は平凡な男だよ。平凡で面白味のない…」
急に彼女が笑出した。
「純ちゃんに初めて会ったとき、会って話したときに。なんて面白い人なんだろうって思ったんだよ。カッコよくて楽しい人だって思った」
「それは…」
「女子社員のあいだでも密かな人気があったなんて知らないんだね」
「知らない…」
さも可笑そうに笑う彼女に、まあ笑われても仕方がないかと私も苦笑いする。
「純ちゃんと一緒になれてすごく幸せだよ。だから純ちゃんを傷つけた山本って男を絶対に許さない。絶対に」
絶対にと何度も繰り返し、彼女はまた泣いていた。私の腕の中で。
「知り合いのイラストレーターさんにお願いして、家まで押し掛けて、プロ用のスキャナーを使わせてもらって、純ちゃんが描いたドラゴンの水彩画を全部取り込んで、データ化した」
「うん」
「初めて純ちゃんの絵を見た時から、なぜかこれは本物だって思ったから、純ちゃんに黙ってやった」
「それは構わないさ」
「ここからが本題なの。怒らないでね」
「うん。怒らないよ」
「そのテータをね。J.Sというアカウントを作ってインターネットのイラストサイトにアップしたの。二十五枚全部よ。山本が盗んだ絵も含めて」
うなずきならも、それがどういうことなのかよくわからない。
「それから一か月経った。今はね。J.Sはわたしなんか足元にも及ばないほどの人気イラストレーターになっている」
ほらと見せられた画面には、"彼"がいた。それは紛れもなく私が描いて山本に渡した絵だ。「イイネの数を見て」
「ええと。二十万?えっ?」
「純ちゃんがいいよって言ってくれたら、J.Sのハンドル名を篠崎純也に変えて、オリジナルの水彩画は盗まれたというキャプション(説明)を、日本語と英語とフランス語とドイツ語で添えて拡散させる。あらゆるSNSを駆使して純ちゃんのブラックドラゴンを世界へ拡散させる」
やはり。
私は何も知らなかったらしい。
自分の妻がこれほどまでに行動力がある人だだったとは。
"彼"を知ってもらうために、彼"の存在を知らしめるために私はありのままの"彼"を描いたのだ。私の"彼"を。私のブラックドラゴンを。だから私の答えは決まっている。
「やろう。"彼"を世界へ羽ばたかせよう」
私からも、今まで黙っていた大切なことを、彼女に言わねばならない。事業縮小のために今勤めている会社が親会社へ吸収合併されること、それに伴いおそらくリストラ対象にされそうなことを打ち明けた。
彼女は黙って聞いていた。そしてやがて「もう少し待って」と言った。
「もう少し。あと少し時間が欲しい。だからもう少し待って。純ちゃん」
「ああ」
「もう少し、つらいかもしれなけれど我慢してくれる?わたしを信じて」
「うん」
彼女の言うもう少しが何を意味するのかこの時はまだわからかった。いずれにしても現時点で私が取れる行動は限られている。
「きっとね。きっとすごいことが起きるよ。きっとね。私を信じて何が起きても私の手を離さないで」
「うん。わかった」
「わたしにはドラゴンは見えない。わたしに見えるのは大好きな純ちゃんだけ。それでいい。それだけでいい。純ちゃんは、純ちゃんにしかできないことをやってね。純ちゃんのドラゴンを描けるのは純ちゃんしかいない」
♦︎純愛100z%【大人Love†文庫】星野藍月
♦︎ホラーレーベル【西骸†書房】蒼井冴夜
♦︎官能小説【愛欲†書館】貴島璃世
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