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【こんな映画でした】491.[残像]

2017年 7月 7日 (金曜) [残像](2016年 POWIDOKI/AFTERIMAGE 99分 ポーランド)

 アンジェイ・ワイダ監督作品。見事な題である、「残像」。一見、何だろうと思わせ、そして徐々にその深い多様な意味合いが私たちに染み渡ってくる。

 このような映画が日本で作られることは、この先もないだろう。だから、この映画を私たちは観ておくべきなのだ。「自由」というものが、どれほど大切であるか、そしてそのためには途方もない犠牲がともなうということを。

 主人公は画家、つまり芸術家である。芸術は政治の僕になってはいけないのだ。ところが社会主義・ポーランドは、芸術家に政治への屈服と、政治への奉仕を求めるのだ。しかも、拒否するとその生活を根こそぎ奪い去るという暴挙を加えてくる。ついに主人公は、屈服しなかったため病に倒れ死んでいく。

 浅はかな個人崇拝の思想ほど厄介なものはない。「依法不依人」の言葉通りだ。この世の真理に依るのはいい、しかし人間はダメだ。人間はその保身のために、簡単に主義主張を変え、独裁者・為政者に媚びを売る。保身のためには、友人であろうが誰であろうが、果ては家族までも裏切るのだ。

 そも、その独裁者・為政者は人間的にどんなものなのだろう。いや、たといどんなに優れていたとしても、英雄視し祭り上げたらダメなのだ。そこから腐敗・堕落が始まる。

 政治宣伝目的の「芸術」作品というのは、きわめて品のない下劣な創作物に成り果ててしまうものだ。この映画の中でも、絵画と音楽でその例が示されている。およそ芸術とはかけ離れた劣悪・醜悪な絵画であり、音楽だ。「音楽」というなら、人はそれを楽しめるはずだが、安っぽい愛国心高揚の行進曲にしかならないのだ。

 もちろん基本的に映画も音楽もすべて、政治宣伝に使われるものである。その危険性を包含しているのだ。そんな中にあって自己の思想を曲げずに創作していくことの困難さは、今の私たちにはこのように映像で観ることで初めて実感できるものだろう。

 このような事態は、戦時中の日本でも同じだったろう。しかし、今の日本で、その時のそのような内容の映画を作ることができるだろうか。悲観的にならざるを得ない。だからこそ、この映画は観られるべきなのだ。

 『ピアニストは語る』(ヴァレリー・アファナシエフ 講談社 2016年)で氏は「芸術とは他者とのコミュニケーションではなく、愚かさへの抵抗の行為」(P.144)である、と。その思想の、その独裁者・為政者の「愚かさ」を厳しくあぶり出してしまうのが真の芸術なのだ。だから芸術は弾圧されるのだ。

 もう一つ、「国家は国家にとって都合のいい芸術のみを認め、支持し、そうでない芸術は無視するか、あるいは排除にかかる。芸術の精神は自由にこそあるのだから。」(P.108 丸山健二『生きることは闘うことだ』 )

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