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【こんな映画でした】489.[めぐりあう時間たち]

2020年11月18日 (水曜) [めぐりあう時間たち](2002年 THE HOURS アメリカ 115分)

 スティーヴン・ダルドリー監督作品。今日届いたばかりのDVDを早速観る。これは小林信彦の本(『映画が目にしみる』)に紹介されていたもの。内容的には、やはりというか、言うまでもなくというかしんどいものであった。しかし人間というものには、そういう瞬間が人生の中にあるものだと、なんとなく思う。共感するというか。

 もちろん本当に死んでしまっては、元も子もないのだが。しかし生きている限り、意識するとしないとにかかわらず、常に死と直面しているのだ。魔が差すという言葉通り、何かの切っ掛けで死に魅入られて、そのまま消え去ってしまう人も多くはないにせよ、一定数いることだろう。

 ヴァージニア・ウルフはまだ読んだことがないが、彼女をニコール・キッドマン(撮影当時34歳)が演じる。病的なほどに繊細な様子を演じている。芸術をものするためには、何らかの犠牲を払わねばならないものなのか、と思う。名前とその小説は後世に残るとしても、その人生はどうだったのだろうか。

 この映画はヴァージニア・ウルフの作品『ダロウェイ夫人』を軸として、ヴァージニア・ウルフ自身を含め三人の女性の生き方・人生の有様を描く。年代としては、オープニングシーンが1941年の彼女の死のシーン。そこから1923年にさかのぼり、彼女の日々の苦悩と夫との様子が描かれる。

 と同時に、もうあと二人の女性が紹介されていく。年代は1951年と2001年。この二人はクラリッサ役のメリル・ストリープ(撮影当時52歳)と、ローラ役のジュリアン・ムーア(撮影当時40歳)。この二人の関係はラストシーンで明らかにされる。もっとも途中で大体分かるのだが。

 母親がどんな理由でか分からないが、ある日ふとその子どもたちを放置して家を出てしまう。何となく分かるような気がする。夫との関係が悪いわけでもなく、もちろん子どもたちとも。でも家を出てしまわなければ、自分が自分でなくなるといった感覚。それは何となく理解できる気がする。もちろんたいていの人は、そうは思っても実行はしないものだが。

 原題の「hours」とは何か。「時間」の複数形であり、「営業時間・勤務時間」の意味もあるらしい。邦題はこの中味に対して甘すぎる嫌いはある。それが日本人好みだとしても。そのせいで客が入った面もあるだろうが、シリアスな内容も受け入れられることと私は思う。

 つまりこの映画は「人生の営業時間」、あるいは見方を変えれば「人生の勤務時間」、つまり寿命・生きねばならない時間、とも言えよう。ふたりの文学者は自らその寿命を絶つことにしたのだった。残されたのはヴァージニア・ウルフの夫、リチャード(子どもの頃はリッチーと呼ばれていた)の愛した女性クラリッサとその母・ローラ(50年後なので、メイキャップをして)。

 ローラがわが子であるリッチーに対して、何かしらよそよそしさ、心底からなじめない何かを感じているというふうに描いてあった。5.6歳くらいのリッチーもそれを敏感に感じていたはずだ。そして50年後、ということに。

 なおメイキャップといえば、ニコール・キッドマンも手の甲のアップの際には、加齢の皺をメイキャップしていたと言っていた。手のひらでは分からない年齢が、手の甲には出てしまうのだ(私も自分の手の甲を見れば一目瞭然だ)。

 監督のスティーヴン・ダルドリーは[愛を読むひと](2008)・[リトル・ダンサー](2000)を観ている。ヴァージニア・ウルフの住んでいたリッチモンドは、ロンドンからほぼ真西、15キロほどの地点だった。

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