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父親との初めての喧嘩は嬉しかった

以前書いたように僕の父は義理の父親だ。いまではもう「義理」なんて言葉は法律用語でしかなく、僕は心の底から父を尊敬し、感謝して居る。しかし、初めから順風満帆な家族関係を構築できたわけではない。

スーパービュー踊り子

7歳のとき、僕は初めて父に怒られた。道徳的に悪いことは何もしていない。ただ怒られたい一心でひたすらに父を挑発した結果、「もう帰ってくるな」と怒られて家を飛び出した。とても怖かったけれど、それ以上に嬉しかった。

当時、父もまだ30歳で実子ですら育てるのが難しいだろうに、奥さんの連れ子の僕と接することが難しいことは想像にあまりある。父はどこか僕に対して遠慮をしていて、僕も子供ながらにその距離を察していた。僕に対してまるで厳しさがなかったのだ。僕はそれがずっと痛かった。

そんなぎこちない家族の形だったある日、僕は意を決して父を怒らせることにした。あの日は天気の良い春の日だった。僕は家で父と一緒に電車図鑑を見ていた。当時、電車が大好きだった僕はあらゆる電車の名前を覚えていて、父はよく電車の写真を指差して名前を答えさせるクイズをして遊んでくれた。そして、その日も電車クイズをして遊んでいた。

クイズが始まってしばらくして、父はある電車の写真を指差した。
「スーパービュー踊り子!」
僕は大きな声で答えた。

うそだ。

正解が何だったかはもう覚えていないけれど、踊り子ではないのは確かだ。

「残念!」

父は僕にそう言った。しかし僕は引かずに父を挑発し始めた。考えられるだけのありったけの憎たらしい話し方と表情で、僕はその電車が踊り子であると主張し続けた。最初は父も「違うで〜ほらよく見てみ?」なんていつものように諭してくれた。それでも、僕は一歩も引かなかった。20分くらいずっと駄々を捏ね続けた。次第に父の顔が翳った。もうひと押しだ。

「これは絶対にスーパービュー踊り子!そんなんもわからんの?」

とどめのおちょくりで、父はついに怒った。

「どう見ても違うやろ。ええ加減にしろよ。ふざけたこと言い続けるならこの家から出ていけ。どこにでも行け」

失言というものは本音である。
きっと父は心のどこかで僕をお荷物と考えていたのだろう。愛する女性の大切な子供だからと愛に駆られた綺麗事で引き受けてみたものの、精神的な負担はきっとあっただろうし、「どこにでも行け」というのも本心なのだろう。

父の大きな声に驚いて母が顔色を変えて間に割って入ってきた。しかし、僕も売り言葉に買い言葉で、「友達の家に行ってくるわ」と吐き捨てて家を飛び出した。マンションの階段を駆け下りる僕の心臓は今にも蓋が外れそうだった。

初めて、父が本音を言ってくれた。初めて、大人と喧嘩をした。初めて、怒られた。それまで親戚たちに嫌味を言われることはあっても、怒られたことがなかったから本当に嬉しかった。それから僕は友達の家で夕方まで楽しく遊んで夕飯の前に家に帰った。ドキドキしていた。まだ怒って居るのかなぁ。

家に帰ると、父は普段通りだった。そして、家族みんなで食卓を囲んだときに、父が僕に謝った。

「ムキになって大人気なかった。ごめん」

「俺こそごめんなさい。踊り子って間違えたのが恥ずかしくてあんなこと言った」

すこしだけ、方便を使った。

大人気ないということは、体面を捨てて一人の人間として同じ土俵にいるということを意味する。だからこそ僕は、このくだらない喧嘩で父をこれまでにないほどに身近に感じた。そして、「どこにでも行け」いう本音。それは僕の中では問題はなかった。なぜなら、愛と憎しみは同時に存在することを知っていたから。確かに他人の子供に勝手に愛が湧いてくる訳が無い。けれど、その本音を抱えながらも、僕を中国から救い出してくれて優しく接してくれた行動は愛の証左として十分すぎた。

先日、父と電話をしてこの件について話した。18年越しで流石に時効なので僕は自白した。すると、父は笑いながら「お前の方が一枚上手やったな」と言った。

何言ってるんだ、あなたの方が1000枚は上手だ。

「愛情は自然発生では無く、能動的に覚えていくもの」だと背中で教えてくれた。歳を重ねて当時のあなたに近づくほど、僕はその背中の大きさに驚きっぱなしだ。

頂いたお金は美味しいカクテルに使います。美味しいカクテルを飲んで、また言葉を書きます。