[エッセイ] オリオンの幻肢痛


 好きな夜の散歩の途中、公園に立ち寄った。冬の匂いがする寒い夜だったから、公園内の自販機でホットココアを買って冷えた両手を温めた。ホットココアの缶は人肌より熱くて、じっと強く握るとしもやけに似た仄かな痒みを覚える。
 数年前まではどんなに寒くても自販機で温かい飲み物を買うことなんてなかった。飲み物に限って言えば「温かい」という言葉は「不味い」という言葉とほぼ同義で、そんなものを飲むのは病気で寝込んだときくらいだった。それが今では手の平の中で少し熱いホットココアの缶を転がすようになった。寝起きには白湯をすするようにもなった。これもまた少し大人になったということなのか。それとも活力のピークを超えて老いが始まったことの小さな目印なのか。いずれにせよ、自分がここまで重ねてきた年月があまりにもあっという間だったことに驚く。今するこの瞬きの次には自分の入った棺が火葬場に入っていく場面を幽霊として見ているのかもしれない。
    死んでしまったらこの魂はどうなってしまうのだろうか。自分の死ぬ瞬間を見ずに済むことは神がかけてくださった情けだから、それだけが救いだ。
 こんなくだらないことを考えるほどに夜を持て余した僕は、公園のベンチに腰掛けて夜空を見上げることにした。

 都会に住んでいると紛い物の星空しか見えない。天頂付近には有名なオリオン座が見えるが、その頭と両腕は文明の光のせいでもげてしまっている。昔の人はどうしてオリオンに見立てたのだろうか。パッと見だけで言えば『砂時計座』の方が腑に落ちる形をしているのに。

 そういえば、この話を実際に他人にしたことがある。大学受験浪人をしていたときだ。夜遅くまで予備校で勉強した帰り道、たまたま違う高校出身のクラスメイトと帰るタイミングが重なった。無言で居るのが気まずかった僕は、
「オリオン座の頭と腕まで知ってる人ってあんまりおらん気がせん?」
 という謎の話を切り出してしまった。人見知りなりの精一杯の努力だ。
「急にどうしたん?」
「いや、ほら、あそこ、オリオン座が見えてたから。都会におると砂時計の形にしか見えへんなって思って」
 声が上ずってしまう。誰がどう見ても僕は緊張をしていた。
「確かに。あっ、けどな、おばあちゃんちが田舎で星がめっちゃ綺麗なんやけど、それはそれで今度は星が見えすぎて、結局オリオンの頭とか腕は埋もれてもうてて見えへんで」
 僕とは対照的に、クラスメイトは平静を保って話している。こころなしか、口から吐き出される吐息の白さが僕より薄い気がした。
「え、そうなん?結局見えへんの?ほなら、昔の人はどうやってオリオンの腕とかを見つけたんやろうな」
「適当に言うたもん勝ちやっただけやろ」
「なんやそれ世話ないな〜」
「ほんまな〜」
 クラスメイトがでっち上げた言葉を勝手に世界の真実に仕立て上げて僕たちは声を出して笑った。ちょうど大通りに出たところで、その笑い声は車のタイヤとアスファルトの摩擦音にかき消されてしまったけれど、今でもこの季節になるとクラスメイトの笑い声を思い出す。

頂いたお金は美味しいカクテルに使います。美味しいカクテルを飲んで、また言葉を書きます。