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[エッセイ] 自他の境界が文化住宅の壁より薄い僕が思うこと

「もっと自他の境界を持って!」

 上下左右のない薄紫色のような気がする空間に、どんな声かも思い出せない声が響く。
 あるかもわからない全身が凍りついて、あるかもわからない心臓が縮みきったその瞬間に、空間が割れて視界が一気に開ける。
 見慣れた天井と左足の指先の鈍い痛み。しばらくしてようやく状況を理解した。どうやらまた寝ている間にうなされて壁を蹴ったらしい。

 気分の悪い夢のせいでかいた汗を、寝間着と背中の間に感じる。頭の中の「着替えなきゃ」という考えがコバエの羽音のように鬱陶しい。そろそろシーツも洗わなきゃな、なんて思うとますます動きたくなくなる。療養と再出発のために仕事を辞めたはずなのに、文明的に生きるためには何かしらの「しなきゃいけないこと」が常に待ち構えている。「しなきゃいけないこと」が、ベッドで横たわっている自分の胸の上に、大気圏の端まで積み上がっているような気がする。
 肋骨がやけに重たい。息が苦しい。肺が、満足に膨らまない。

 ここ最近、自分の自他の境界の薄さについてずっと考えている。本当はもうしばらく後回しにしようと思っていたのだけれど、心身の健康を完全に取り戻すためにはどうしてもこの問題から逃げることはできない。

 一年半前に、僕はこんなnoteを書いた。こうして、いつでもどこでも過去の自分を振り返ることができることは、自分語りnoteを書くことの数少ないメリットだと思う。

 この投稿の中で、僕は次のような結論を出した。


何かを自分の一部にしたいと同時に、自分もその何かの一部になりたい、そんな最上級の共有願望。

きっと、好きってそういうこと。


 読み返してひとり、声を出して笑ってしまった。自他の境界があまりにも薄すぎる。日曜日の朝、大好きな仮面ライダーが窮地に追いやられる姿を見てテレビの前で泣き出してしまう幼稚園児にほぼ等しい。

 過去の自分が綺麗に独白しているからもう認めるしかない。僕は、自他の境界が文化住宅の壁より薄い。

 こうして明文化するのは今回が初めてだけれど直感的には自分でも分かっていて、自他の境界が薄いなりに人間関係で工夫をしてきた。友人の選定の条件をかなり絞ることで、葉末が違えども根、人間で言う根性が似た人たちを幸運にも見つけることができた。

 でも、今回生まれてはじめて人間関係の失敗をした。これまでは最終到達点に至るまでに去った人は何人か居たが、最深淵にまで到達してから誰かを失ったことは死別しかない。

 自分の何がいけなかったのかを問い続ける日々だった。問題は、「審査の甘さ」と「自他の境界の薄さ」の2つだった。

審査の甘さ

 普段の自分なら自己防衛圏に入れない人を入れてしまった。原因はいくつか思い当たる。
 一つは、家族に対する羨望。
 血の繋がりによる恩恵をあまり受けてこなかった僕は、自分で能動的に選んだ家族が欲しいと心から思っていた。「この人が老いていくのをずっと間近で見届けたい」とまで思える人を探していた。そして僕は、あの人から追い求めていた人物像のような気配が少ししたのを、焦燥から拡大解釈した。
 二つ目は、カムフラージュへの脆弱性
 表層的な愛想の良さ、対外的な評価に固執する愛想の良さへの耐性がなかった。同じ愛想の良さでも、内省的な愛想の良さと表層的な愛想は完全に別物だと今回学んだ。確かに表層的な愛想にも内省は伴うけれど、その内省が外からの評価や世間体に起因する場合、それは純粋さを失う。
 まぁ、個人の自由ではあるけれど、僕は好きじゃない。一度きりの人生に他人からの評価を重く組み込むほど、暇じゃない。そんな暇人に自分の人生の至近距離に居てほしくない。

自他の境界の薄さ

 別に、自分の審査の甘さに全く気づいて居なかったわけではない。言動の節々から、愛想の良さとは、どう考えてもなめらかに連続だとは思えないものが目につくようになった。でも僕は、口に出したからには自分の言葉に責任を取りたいと思い、自分に強烈な自己暗示をかけた。自己暗示で自分の中にある地雷にカバーをかけようとした。それでも、ことある毎にそのカバーごと地雷を何度も強烈に踏み抜かれた。民事裁判を起こされてもおかしくないことをしでかしておきながら、どうして抜本的な自己改善をしようとしないのか本当に理解できなくて苦しかった。

 きっと当人からすれば十二分に改善に取り組んでいたんだろうけれど、僕からすれば不足の極みだった。それで平気なら良いのだけれど、深夜に、過去への贖罪を僕の胸の中で涙ながらに悔いられたときには本当に心が折れた。煙草が折れるときと同じ乾いた音がした。

 あの人はあの人で、あの生き方が通じる「賢い」世界で生き続ければ問題はなかったし、僕は僕で「愚かで泥臭い」世界で生き続ければなんの問題もなかった。僕の脇が甘くて審査が緩くなってしまったことと、自他の境界の薄さが生み出した負のスパイラルだった。

 今回の失敗を失敗のままにしておくのではなく、心の活力を持って煮詰めてエキスにする必要がある。自他の境界を作るかどうかという選択をする必要がある。仕事上の人間関係で自他の境界を作ることはとても簡単だし、すでに確固たる境界は持っている。問題なのは私生活での人間関係に仕事のような自他の境界を取り入れるかどうかだ。

 今回の失敗によって心に深手を負ったのだけれど、愛媛での気分転換を経て悪夢にうなされる頻度はかなり減った。大阪に戻っても目眩や吐き気に襲われることがなくなった。以前の自分を9割方取り戻せた感覚でいる。
 色々相談に乗ってもらった友人たちに報告の電話をすると、みんな口を揃えて「元気になったみたいで良かった」と喜んでくれた。彼ら彼女らが大きな労力を払って僕に助けの手を差し伸べてくれたことには本当に心から感謝しているし、僕の回復を心から嬉しそうに喜んでくれる声がまた僕をさらに幸せにしてくれる。

 こんな深い付き合いをしている友人たちがいるのは、僕が自他の境界が薄いなりに一生懸命生きてきたからだ。もちろん、至らない点なんて数えだしたらきりがないけれど、僕は常に自分ができることを最大限尽くしてきた。そして彼ら彼女らは応えてくれた。

 友人たちに助けを求められたときには常に全力でぶつかってきた。自分の心の中にある言葉を切り出して贈った。そのときに、言い方が無骨になることも、刺々しいバリが残ったままのときもあった。
 僕が、発破をかけるという励まし方しか知らない、肋骨を折る心臓マッサージしかできないことを理解した上で、僕が伝えようとする本質に目を向けてくれていた。
 言葉巧みに彼ら彼女らの目先の不安を取り除けなくても、苦しみに寄り添う「よしよし」な対応ができなくても、僕が不器用でどんくさいながらも本心で腹を割ってぶつかっていることを理解してくれていた。

 今回、僕の周りの人間関係は彼ら彼女らの深い理解と咀嚼力によって成り立っていることを痛感した。すべては、僕の色気のない無骨な励ましを大事に受け取ってくれる友人たちの努力の上に成り立っていた。
 これを、適材適所だと言って納得するのか、それとも友人たちの理解に甘えていると取るのか、どうすれば良いのかまだわからない。決めかねている。

 強火のガスコンロの前で汗をダラダラ流しながら牛スネ肉とじゃがいもの炒めものを作っている。他にも、ほうれん草のおひたし、ハンバーグのタネ、餃子を作った。仕事に忙殺されている大学時代の友人に仕送りをするためだ。
 以前までなら「そんな仕事辞めちまえ。お前の命より大事な仕事なんてない」と発破をかけて大喧嘩をしていたと思う。それなのに、「本当に命を燃やしてでもこの仕事にもう少しだけ打ち込みたい。挑戦をしたい」という彼の言葉を聞いて僕は止めもしなかった。自他の境界を少し厚くしてみることにしたからだ。

 「そうか、お前がそう言うなら自由にしたらええ。俺かて命削って煙草スパスパ喫ってるしなぁ」

「なんかお前変わったな。絶対ブチ切れられると思ったのに」

「どうせ何言われても変えへんやろ。なんでわざわざ俺に言ったん?」

「親も親戚も居ない俺にとってお前は家族だからな。せめて報告だけはしたくて」

「そうか。まあ、俺の激ウマ手料理送るから食ってくれ」

「ありがとう。在宅勤務ではあるから荷物ならいつでも受け取れる」

 出来上がった料理をタッパに入れて粗熱を取るために台所に放置する。その間に荷物の中に一緒に入れる手紙を書く。書いているうちに、彼のこれまでの人生の困難や苦しみ、今の苦境や不安を想像して涙が止まらなくなった。
 自他の境界、本当に向いていない。大事な人の悲しみが勝手に自分のモノのように心に流れ込んでくる。本当なら彼の家に駆けつけて何も言わずに抱きしめたい。そんな衝動を涙と一緒に飲んで、ぐっと堪える。父からもらった、大きな勇気を生む言葉を自分なりに変えて手紙に添えた。

「好き勝手やれ。帰る家はあるからな」

 荷造りを終えて、宅急便の集荷に来てもらって送り出した。
 そして今度は、大学の人間関係や就職関連で心身の不調をきたしている友人に頼まれていた選書をすることにした。

キャリアの不安を和らげるのに役立ちそうな本は。。。
生きづらさを和らげるのに役立ちそうなエッセイは。。。
純粋なぬくもりになるような短編集も入れようかなぁ。。。
自分の現状を俯瞰するのに良いのはどの本かなぁ。。。

 そんなことを考えながら自分の蔵書を眺めて選書していると、また涙が出てきた。僕のこの生き方って、本当にだめなのだろうか。賢くないのだろうか。賢くないとして、賢くならなきゃいけないのだろうか。自他の境界が文化住宅より薄いことは、そんなにいけないことなんだろうか。

 不安にかられているときは、誰かと話していると和らぐことも知っている。僕が渡米するまでまだ時間があるから、それまでならいつだって、どれだけだって、苦しんでいる友人と電話してもいいと思っている。
 でも、自他の境界を少し厚くしてみることにした。選書に、思いを託すことにした。自分の言葉じゃなくて、効率的に他人の言葉に託すことにした。

 これが、賢くなるってことなんだろうか。分からなくてまた涙が出てくる。

頂いたお金は美味しいカクテルに使います。美味しいカクテルを飲んで、また言葉を書きます。